張紘

字 子綱 · 不詳 ~ 211年頃 · 徐州広陵郡 · 孫堅配下

張紘の肖像

喪中の江東を攻めようとする曹操を諫め、秣陵への遷都を勧めた文臣

能力値

統率24武力22知力86政治95魅力84

カード

攻撃力 2体力 2コスト 3価値 10職分 能吏
補給 コスト 1
次の局面の指揮力+2
遮断 コスト 2
秘密 · 敵がコスト4以上の武将を召喚するとき · その武将は陣営に戻る(コストは支払い済み)
鶏肋 コスト 2
武将1体の攻撃力と体力を入れ替える。味方にも使える(攻撃力0なら体力0 · その場で退く)

正史

出典 · 『三国志』呉書張紘伝と裴松之注の『呉書』 · 『江表伝』 · 『献帝春秋』 · 裴松之の言 · 呉書孫破虜討逆伝と裴松之注の『呉歴』 · 『呉録』 · 『典略』 · 呉主伝 · 虞翻伝

張紘は字を子綱といい、広陵の人です。若くして都へ出て学び、裴松之注に引く『呉書』によれば太学に入って博士韓宗に師事し、『京氏易』と『欧陽尚書』を修め、外黄で濮陽闓から『韓詩』と『礼記』、『左氏春秋』を学びました。郷里に戻って茂才に推挙され、公府の召しも受けましたが、いずれにも応じず、『呉書』は大将軍何進・太尉朱儁・司空荀爽の三府から召されても病を理由に辞退したと記します。その後、乱を避けて江東へ移りました。

『呉歴』によれば、孫策は江都にいたころ、母の喪に服していた張紘をたびたび訪ねて世の情勢を尋ねました。孫策が袁術から父の兵を得て呉と会稽を手に入れ、仇を討ちたいという志を明かして涙を流すと、張紘は丹陽に拠って呉と会稽で兵を集めれば荊州と揚州を一つにして仇を討つことができるので、長江に拠って漢室を正すよう勧め、孫策は老いた母と幼い弟を彼に託して旅立ちました。孫策が国を興しはじめると張紘はその下に身を寄せ、正議校尉となりました。『呉書』によれば、張紘と張昭はともに謀議に加わり、常に一人は留守を守り一人は戦いに従いました。徐州を奪った呂布が張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとすると、孫策は海が生んだ真珠は行く先々で宝となるとして手放しませんでした。丹陽を攻めたとき孫策が自ら陣頭に立つと、張紘は「主将は謀の出るところであり、三軍の命運の懸かる位置ですから、軽々しく動いてはなりません」と諫めました。

建安4年(199)、孫策は張紘に上表を奉じて許の宮廷へ行かせ、張紘はそこに留まって侍御史となり、少府孔融らと親しく交わりました。『呉書』によれば、曹操は遠方の人心を得ようと彼を掾として召し、九江太守にしようとしましたが、張紘は旧恩を慕って病を理由に固辞しました。建安5年(200)に孫策が死ぬと曹操はその喪に乗じて呉を討とうとしましたが、張紘は、人の喪に乗じるのは古の義ではなく、勝てなければ仇を結んで友好を捨てることになるので、この機に厚遇するに越したことはないと諫めました。曹操はその言葉に従って孫権を討虜将軍・会稽太守とし、張紘に孫権を補佐して朝廷に帰順させようと、彼を会稽東部都尉として送り出しました。

『呉書』によれば、孫権の母は張紘に息子を助けてほしいとたびたび頼み、秘密の計略や上表、四方とやりとりする書簡は常に張紘と張昭が作りました。『江表伝』は、孫権は臣下をたいてい字で呼んだが、張昭だけは張公、張紘は東部と呼んで二人を尊んだと記します。『呉書』はまた、張紘が自分を孝廉に推挙してくれた広陵太守趙昱が笮融に殺されて家が絶えると、琅邪に人を遣わして祭祀を行わせ、後継ぎを立てさせたと記します。会稽の人虞翻が誹謗を受けたときには、孔融に手紙を送り、美しい宝玉は磨けば磨くほど輝くと述べて彼をかばいました。

のちに孫権は張紘を長史とし、合肥征伐に連れて行きました。『呉書』によれば、合肥城が長く落ちないので、張紘は古人のように一方を開けて敵兵の心を揺さぶり、少し囲みを緩めて変化を見ようと言いました。孫権が軽騎を率いて自ら敵に突撃しようとすると、張紘は「将を斬り旗を抜くのは偏将の務めであって、主将のなすことではありません。孟賁・夏育のような勇を抑え、覇王の計をお抱きください」と諫め、孫権はその言葉を受け入れて思いとどまりました。帰還した翌年、再び兵を出そうとすると、張紘は兵を休ませて農耕を広め、賢者を用いるよう諫め、出兵は取りやめになりました。

張紘は秣陵へ治所を移すよう勧め、孫権はこれに従いました。『江表伝』によれば、張紘は、秣陵の旧名は金陵であり、秦の始皇帝のとき望気の者がこの地に王者の都となる気があると言ったので、丘を断ち切って名を改めたという昔話を挙げ、都とするにふさわしいと言いました。孫権はのちに劉備も同じことを言うと「智者の考えは同じだ」と言って、そこに都を置いたといいます。呉主伝は、建安16年(211)に治所を秣陵へ移し、翌年に石頭城を築いて名を建業と改めたと記します。孫権は張紘に呉へ戻って家族を迎えて来させましたが、張紘は途中で病にかかって死にました。享年六十でした。死に臨んで彼は息子の張靖に託した書で、君主が情に勝てず賢臣を用いられないことが政治の乱れる理由であり、明君は賢者を渇くように求め、諫言を厭わず、情を抑え義によって私恩を断つべきだと述べました。孫権はその書を読んで涙を流しました。

張紘は詩・賦・銘・誄を十篇余り作りました。『呉書』によれば、北方の陳琳は彼の作った賦を見て「これは我が同郷の張子綱の作だ」と人々に示し、張紘への返書では、王朗がこちらにおり、貴殿と張昭がそちらにいるので、自分は大巫の前の小巫であると述べました。孫策が袁術に送った絶交の書について、『呉録』は張紘が書いたとし、『典略』は張昭の文だとしていますが、裴松之は、張昭は名声こそ重いが文章は張紘に及ばないので張紘の作だと見ました。

息子の張玄は南郡太守と尚書に至り、孫の張尚は孫皓のとき侍中・中書令となりましたが、その弁舌が孫皓に憎まれて獄につながれ、ついに殺されました。陳寿は「張紘は文理が正しく志が真っすぐで、一時代の優れた器であった。孫策が彼を張昭に次ぐ者として遇したのには理由があった」と評しました。

張紘文理意正,為世令器,孫策待之亞於張昭,誠有以也
張紘は文章の筋道が正しく志が真っすぐで、一時代の優れた器であった。孫策が彼を張昭に次ぐ者として遇したのには理由があった『三国志』呉書 張厳程闞薛伝 評
此乃偏將之任,非主將之宜也。願抑賁、育之勇,懷霸王之計
これは偏将の務めであって主将のなすことではありません。孟賁・夏育の勇を抑え、覇王の計をお抱きください『三国志』呉書張紘伝に載る張紘の諫言

三国志演義

『三国演義』 第15~61回

演義で張紘は第15回に初めて登場します。周瑜が孫策に「江東の二張」として彭城の張昭とともに広陵の張紘を推挙し、孫策が自ら訪ねて迎え入れ、彼を参謀の正議校尉とします。第29回では孫策の使者として許昌へ行き戦勝を報告しますが、曹操に引き留められます。孫策が死ぬと、江東を討とうとする曹操を侍御史として「人の喪に乗じて討つのは義にかなうことではない」と止め、曹操は孫権を将軍兼会稽太守とし、張紘を会稽都尉として印綬を持たせ江東へ向かわせます。江東に戻った張紘は張昭とともに政務を担い、孫権に蔡邕の弟子の顧雍を推挙します。第38回では顧雍とともに四方から来る賓客を迎えます。

第44回で張紘は張昭・顧雍・歩騭とともに鄱陽から戻った周瑜を訪ね、張昭が主公に降伏を勧めようと言うと、顧雍らとともに皆同じ考えだと言います。第53回では、合肥で張遼に敗れて宋謙を失った孫権に「将を斬り旗を抜くのは偏将の務めであって、主公のなさることではありません」と軽々しく敵に当たらないよう諫め、孫権は自分の誤りだと言って改めることを約します。第61回で張紘は病を理由に家に帰って死に、秣陵の山川には帝王の気があるのでそこへ移るようにという書を遺します。孫権は書を見て泣き、治所を建業に移して石頭城を築きます。演義で張紘が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 195江東を切り開いていた孫策に身を寄せ、正議校尉となりました。
  2. 199孫策の上表を奉じて許へ行き、侍御史として留まって孔融らと親しく交わりました。
  3. 200孫策が死ぬと、喪中に呉を討とうとする曹操を止め、孫権が討虜将軍となるようにしました。二張
  4. 200会稽東部都尉となって江東に戻り、張昭とともに孫権の文書を作りました。
  5. 208長史として合肥に従軍し、自ら敵に突撃しようとする孫権を止めました。
  6. 209再び兵を出そうとする孫権に兵を休ませるよう諫めて、やめさせました。
  7. 211秣陵へ治所を移すよう勧め、孫権が従いました。秣陵に移られませ
  8. 211家族を迎えに呉へ向かう途中で病にかかり、六十で亡くなりました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 張靖 · 張玄 · 孫 張尚

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

江東の筆が参った。

口を開くとき

都の地をも見る目だ。言葉の地はなおよく見える。

言い返すとき

文で固めた礎は崩れぬ。

言葉に詰まって

…文が乱れておる。

言葉に詰まって

推敲すれば済むことだ。

舌戦に勝って

秣陵を都と定めた眼力よ。

舌戦に敗れて

筆は剣に勝てなんだか。

勝ったあと

筆でも勝てるのだ。

敗れたあと

…あとは都を移すばかりか。

倒れるとき

都を移せと言うた言葉、遺しておく。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普