字 公瑾 · 175年 ~ 210年 · 揚州廬江郡舒県 · 孫堅配下
赤壁で曹操の大軍を焼き払い、江陵を得た呉の将
出典 · 『三国志』呉書周瑜伝 · 魯粛伝 · 呂蒙伝 · 孫策伝 · 呉主伝と裴松之注の『江表伝』
周瑜は字を公瑾といい、廬江郡舒県の人です。従祖父の周景とその子の周忠が漢の太尉を務め、父の周異は洛陽令でした。周瑜は背が高く風采がありました。孫堅が董卓討伐に出るにあたって家族を舒県に移すと、同じ年に生まれた孫策と周瑜はとりわけ親しく交わり、周瑜は道の南にある大きな屋敷を譲って孫策を住まわせ、堂に上がってその母に拝礼し、ある物もない物も分かち合いました。裴松之注に引く『江表伝』は、二人の義は金をも断つほどであったと記します。
叔父の周尚が丹陽太守であったころ、長江を渡ろうとする孫策が歴陽から書簡を送ると、周瑜は兵を率いて迎えに行き、孫策は「君を得たからには事は成る」と喜びました。周瑜は孫策に従って横江・当利を落とし、長江を渡って秣陵の笮融・薛礼を破ったのち、曲阿まで入ってから丹陽に戻りました。袁術が周尚に代えて従弟の袁胤を太守に据えると寿春へ行きましたが、袁術はついに何も成し遂げられないと見て居巣県の長となることを願い出て、その足で建安3年(198)に呉へ戻りました。魯粛伝は、居巣長の周瑜が食糧を求めると、魯粛が三千石入りの米蔵一つを惜しげもなく差し出し、二人が親しくなったと記します。
孫策は自ら周瑜を出迎えて建威中郎将とし、このとき二十四歳だった彼を呉の人々はみな周郎と呼びました。牛渚を守って春穀長を兼ねたのち、中護軍・江夏太守となって孫策に従い皖城を攻め落としましたが、このとき得た橋公の二人の娘がいずれも国一番の美女で、孫策は姉の大橋を、周瑜は妹の小橋を娶りました。続いて尋陽で劉勲を破り、豫章・廬陵を平定したのち、巴丘にとどまって守りました。
建安5年(200)に孫策が亡くなると、周瑜は喪に駆けつけて呉にとどまり、長史の張昭とともにあらゆる事を取り仕切りました。諸将がまだ将軍にすぎない孫権に礼を軽んじていたとき、ひとり先んじて臣下の礼を尽くし、北へ去ろうとしていた魯粛を引き留めて孫権に推挙しました。『江表伝』によれば、建安7年(202)に曹操が人質を送れと求めると、周瑜は人質を送れば他人に縛られることになると諫め、孫権の母はその言を正しいとして「公瑾は伯符(孫策)と同い年で、ひと月若いだけなのだから、お前は兄として仕えなさい」と言い、ついに人質を送りませんでした。
建安11年(206)には麻・保の二屯を攻めて一万余人を捕らえ、柴桑に入ってきた黄祖の将の鄧龍を生け捕りにし、建安13年(208)春に孫権が江夏を攻めたときには前部大督となりました。その年の9月に曹操が荊州を得ると、孫権の臣下はみな曹操を迎え入れようと言いました。魯粛の勧めで鄱陽から呼び戻された周瑜は、曹操は漢の丞相の名を借りた漢の賊であると言い、北方が平穏でなく馬超・韓遂が背後にいること、水戦は中原の兵の得手ではないこと、真冬で馬の飼料がないこと、水と土に慣れず必ず病が出ることを挙げて、精兵三万を求めました。『江表伝』は、その夜周瑜が、曹操の書簡は八十万を称しているが実は中原の兵十五、六万に荊州の兵七、八万であると算じてみせたと伝え、裴松之は曹操を防ぐ策はもともと魯粛から出たものなのに、本伝は周瑜の功としてのみ記していると述べました。
孫権は周瑜と程普を左右の督とし、それぞれ一万人を率いて劉備とともに進ませました。赤壁で出会った曹操の軍にはすでに疫病が流行しており、最初の戦いで長江の北へ退きました。部将の黄蓋が、曹操の船は船首と船尾をつなげているので焼いて追い払えると言うと、戦船数十艘に柴と油を積み、偽りの降伏の書簡を先に送ったうえで近づいて火を放つと、風が激しく炎は岸の上の陣営にまで燃え広がりました。曹操は曹仁を江陵に残して北へ帰りましたが、『江表伝』は、曹操がのちに孫権へ、疫病が流行したので自ら船を焼いて退いただけなのに、周瑜がいたずらに名を得たと書き送ったと伝えます。
続いて南郡へ進んで曹仁と対峙した周瑜は、夷陵で包囲された甘寧を呂蒙の策のとおり自ら赴いて救いました。大いに戦った日に自ら馬に乗って敵陣に突入し、飛んできた矢に右の脇腹を射られましたが、彼が寝込んでいると聞いた曹仁が陣を敷くと、自ら起き上がって陣営を巡り兵を励まして退けました。呉主伝は、一年余り対峙した末に曹仁が城を捨てて逃げたと記します。孫権は周瑜を偏将軍・南郡太守とし、周瑜は江陵に拠りました。
劉備が京へ孫権を訪ねてくると、周瑜は劉備を呉に引き留め、宮殿と美女で楽しませて関羽・張飛と引き離すべきだと上書しましたが、孫権は受け入れませんでした。のちに周瑜は、孫瑜とともに蜀を取って張魯を併せたのち孫瑜を残して馬超と手を結ばせ、自身は戻って孫権とともに襄陽に拠り曹操を締めつければ北方を図れると願い出て、許しを得ました。しかし江陵へ戻って準備をする途中、巴丘で病のため亡くなりました。三十六歳でした。魯粛伝に載る最後の上疏で、彼は魯粛を自分の後を継ぐ者として推挙し、孫権は白い喪服を着て哭し、蕪湖まで出て柩を迎えました。
周瑜伝は、彼は度量が広くおおむね人の心を得たが、ただ程普とだけは仲が良くなかったと記します。『江表伝』によれば、年長を笠に着て周瑜を侮っていた程普は、ついに争おうとしない周瑜を自ら敬うようになり、「公瑾と交わると、濃い酒を飲んだように知らぬ間に酔ってしまう」と言い、曹操が遣わした蒋幹も彼を説き伏せられずに帰って、度量が大きく志が高いので言葉で離間することはできないと言いました。周瑜は音楽に通じており、酒が三巡したあとでも曲に誤りがあれば気づいて振り返ったので、人々は「曲に誤りあれば周郎振り返る」と歌いました。
娘は太子孫登の妃となり、子の周循は公主を娶りましたが早くに亡くなり、次子の周胤は都郷侯に封じられたものの罪を犯して廬陵郡へ移されました。赤烏2年(239)、諸葛瑾・歩騭が周胤の赦免を願い出て孫権は許しましたが、周胤はちょうど病で亡くなりました。『江表伝』は、帝位に就いた孫権が「周公瑾がいなければ、わしは皇帝になれなかった」と言ったと伝えます。陳寿は、曹操が荊州を席巻して誰もがためらっていたとき、周瑜と魯粛がひとり決断する明察によって衆人に抜きんでたのだから、まことに奇才であると評しました。
周瑜、魯肅建獨斷之明,出眾人之表,實奇才也公瑾雄烈,膽略兼人,遂破孟德,開拓荊州,邈焉難繼『三国演義』 第15回 · 第29回 · 第38~39回 · 第44~57回
演義で周瑜は第15回に初めて登場します。歴陽へ孫策を迎えに来た彼は、風采に優れ容貌の秀麗な廬江舒城の人で、孫策と同じ年に生まれて義兄弟の契りを結び、孫策が二か月年上なので兄として仕えたと紹介されます。孫策が「公瑾を得たからには大事は成る」と喜ぶと、周瑜は江東の二張、すなわち張昭と張紘を推挙し、曲阿を奇襲して劉繇を追い払います。第29回で孫策は「外のことは周瑜に問え」という言葉を残して亡くなり、巴丘から駆けつけた周瑜は孫権に魯粛を推挙し、自ら連れて来ます。第38回では曹操が人質を求めると、送らずに形勢を見ようと言い、孫権は彼を大都督として江東の水陸の軍をすべて任せます。
第44回で鄱陽湖から戻った周瑜は、張昭らには降伏すると言い、程普らには戦うと言って本心を明かしません。諸葛亮が、曹操は江東の二喬を得ようとしていると言って銅雀台賦を詠むと、周瑜は大喬は孫策の妻、小喬は自分の妻だと言って北を指して曹操を罵り、戦うことに決めます。翌日、孫権の前で曹操が犯した兵家の禁忌四つを挙げて開戦を主張し、孫権が剣で机の角を斬ると大都督となって程普を副都督に据えます。しかし諸葛亮の読みが自分より一枚上だと思い、彼を除こうと心に決めます。
第45回で周瑜は諸葛亮を聚鉄山の兵糧を断ちに行かせて曹操の手で殺させようとし、劉備を宴に招いて殺そうとしますが、背後に立つ関羽を見て思いとどまります。旧友の蒋幹が説得に来ると、諸将を集めて宴を開き、偽の書簡を盗ませて、曹操に水軍を預かる蔡瑁と張允を斬らせます。第46回では十日のうちに矢十万本を作れという課題で諸葛亮を陥れようとしますが、諸葛亮が霧の立ちこめる明け方に藁束を積んだ船で矢を受け取ってくると、その神のごとき読みには及ばないと嘆きます。二人は手のひらにそろって火の字を書いて見せ合い、周瑜は黄蓋と示し合わせて棒打ち五十を加え、偽りの降伏を信じさせる苦肉の計を用います。第47回では龐統を蒋幹に付けて曹操のもとへ送り、船を鉄の環でつながせます。
第48回の終わりで、激しい風に旗の裾が顔をかすめると何かを思い出した周瑜は、大声を上げて血を吐き倒れます。第49回で諸葛亮は「万事すべて整えども、ただ東風のみ欠く」という文を書いて見せてその病の根を突き、七星壇で風を祈ります。東南の風が起こると周瑜は丁奉・徐盛を遣わして諸葛亮を殺そうとしますが、諸葛亮は趙雲の船で逃れ、周瑜の火船が曹操の水軍を焼きます。
第51回で南郡城の中へ追って入った周瑜は弩の矢を左の脇腹に受け、鏃に毒があり怒ると傷が裂けると告げられます。死んだふりをして曹仁を誘い出し破りますが、その間に趙雲が南郡を、張飛と関羽が荊州と襄陽を奪うと、大声を上げて傷が裂けます。第54~55回では孫権の妹を餌に劉備を呉に呼んで閉じ込める策を立てますが、呉国太は婿を気に入り、逃げる劉備を追って伏兵にかかり、「周郎の妙計で天下を安んじようとして、夫人を失い兵まで損なった」という嘲りを聞いて、また傷が裂けます。第56回では西川を代わりに攻めてやると言って荊州を奪おうとして諸葛亮に見破られ、四方から兵が押し寄せるという知らせにまたも落馬します。
第57回で巴丘に至った周瑜は諸葛亮の手紙を受け取り、孫権に書をしたためて魯粛を推挙したのち、天を仰いで「すでに周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮を生んだのか」と何度も叫んで息を引き取ります。三十六歳でした。諸葛亮は柴桑へ弔問に訪れて祭文を読み、地に伏して泣き、魯粛は周瑜が狭量なために自ら死を招いたと考えます。演義で周瑜が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 周異、妻 小喬、子 周循 · 周胤、娘(太子孫登の妻)、叔父 周尚、甥 周峻
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
江東の水軍はここにあり。
江東の周郎だ。一曲聴くように聞かれよ。
曲に誤りあらば、わしが振り返る。
…胸が苦しい。
赤壁の風もこれほど急ではなかった。
火攻めは風を知る者のものだ。
天はなぜ我を生み、また彼を生んだのか。
炎がすべてを焼き尽くした。
…この身はまだ至らなかった。
天はなぜ亮をも生んだのか!