黄蓋

字 公覆 · 不詳 ~ 不詳 (208年以後) · 荊州零陵郡泉陵県 · 孫堅配下

黄蓋の肖像

偽りの降伏で火を放った船を送り、赤壁で曹操の船団を焼いた孫家三代の老将

能力値

統率80武力83知力68政治65魅力81

カード

攻撃力 5体力 5コスト 4価値 12職分 猛将
水戦 号令
召喚物水軍を1体呼ぶ(1/2)

正史

出典 · 『三国志』呉書 黄蓋伝と裴松之注の『呉書』 · 周瑜伝と裴松之注の『江表伝』 · 孫討逆伝注の『呉録』 · 太史慈伝 · 孫皎伝

黄蓋は字を公覆といい、零陵郡泉陵県の人です。裴松之注に引く『呉書』によれば、彼はかつての南陽太守黄子廉の子孫で、家が分かれて祖父の代に零陵へ移り住みました。幼くして父を亡くし、あらゆる苦労をなめましたが大志があり、貧しく暮らしながらも凡庸な輩と同じようにはふるまわず、薪を背負う合間に読み書きと文書を学び、兵法を修めました。はじめ郡の役人となり、孝廉に推挙されて三公の府に召されました。

孫堅が義兵を挙げると、黄蓋は彼に従いました。孫堅が南で山賊を破り、北で董卓を追い払ったとき、別部司馬となりました。孫堅の死後は孫策と孫権に従い、甲冑を身につけて各地を転戦し、白刃を踏み越えて城を陥れました。興平2年(195)に孫策が神亭で太史慈と出くわしたとき、『三国志』太史慈伝は、孫策に従っていた十三騎が韓当 · 宋謙 · 黄蓋といった者たちだったと記しています。『呉録』に載る孫策の上表は、建安4年(199)12月に沙羨で黄祖を討ったとき、行武鋒校尉の黄蓋が周瑜 · 程普 · 韓当らとともに進軍したと記しています。

山越が服従せず賊の乱がある県では、そのたびに黄蓋をその県の長官としました。石城県の役人は特に治めにくかったので、黄蓋は二人の掾を置いて諸部署を分担させ、命令を下しました。自分は武功によって官を得ただけで文書を扱う役人として名のある者ではなく、今は賊が平定されず軍務があるので、文書はすべて二人の掾に任せる。奸悪な欺きがあっても決して鞭打ちはしないから、各自心を尽くせ、というものでした。はじめは皆その威厳を恐れて昼夜働きましたが、時がたつと黄蓋が文書を見ないからと、しだいに私的な頼みを聞き入れるようになりました。黄蓋も緩んだことを嫌って時折調べたところ、二人の掾が法を守らなかった件をいくつか見つけ出しました。彼は役人たちを皆呼んで酒食を振る舞い、その件を突きつけて問いただし、二人の掾が言葉に窮して叩頭して謝罪すると、「先に鞭で罰しないと言ったのだから、欺いたことにはならない」と言って彼らを殺しました。県中が震え上がりました。のちに春穀長と尋陽令に移り、全部で九つの県を受け持って、行く先々で平定しました。丹楊都尉となると、強い者を抑えて弱い者を助けたので、山越は彼に従いました。

黄蓋は風貌が厳しく剛毅で、兵をよく養ったので、出陣するたびに兵士たちは争って先頭に立ちました。建安13年(208)、周瑜に従って赤壁で曹操を防いだとき、彼が火攻めの計を献じました。周瑜伝によれば、緒戦に敗れた曹操の軍が長江の北に留まると、周瑜の部将の黄蓋は、敵は多く我らは少ないので長く持ちこたえるのは難しいが、曹操軍の船は船首と船尾を連ねているので焼き払って追い散らせると言いました。そこで蒙衝と闘艦数十艘に薪や草を積んで油を注ぎ、幕で包んで旗を立て、先に曹操に手紙を送って降伏すると偽りました。『江表伝』に載るその手紙で、黄蓋は、江東六郡の兵で中原の百万の大軍に敵し得ないことは天下の誰もが知るところだから、戦いの日には先頭に立ち、機に応じて命を捧げると述べました。大船ごとに快速の小舟をつないで進むと、曹操の兵たちは皆首を伸ばして眺め、黄蓋が降伏してくると指さしましたが、黄蓋が船を放って一斉に火を放つと、風が激しく炎は岸の上の陣営にまで燃え広がりました。『江表伝』は、その日黄蓋が軽快な船十艘に枯れた荻や柴を積み、魚油を注いで赤い幕で覆い、東南の風が激しいときに長江の中ほどで帆を揚げ、兵士たちに「降伏する」と大声で叫ばせたのち、北軍から2里余り離れたところで火を放ったと伝えています。

『呉書』によれば、赤壁の戦いで黄蓋は流れ矢に当たって冷たい水に落ちましたが、彼を引き上げた呉の兵たちは黄蓋とは知らずに厠の床几に寝かせておきました。黄蓋が力を振り絞って一度韓当を呼ぶと、韓当は「これは公覆の声だ」と言って彼のもとへ行き、涙を流しながら衣を脱がせて着替えさせ、そのおかげで黄蓋は助かりました。

その後、黄蓋は武鋒中郎将となりました。武陵の蛮夷が蜂起して城邑を攻めると、黄蓋が武陵太守を務めましたが、そのとき郡の兵はわずか500人でした。彼は正面から戦っては勝てないと見て城門を開けておき、敵が半分ほど入ったところで攻撃して数百人の首を斬り、残りは皆逃げて自分の村へ帰りました。首謀者を斬って従った者は赦したので、春から夏の間に乱はすべて平定され、深い谷間の諸邑侯や君長たちが心を改めて礼を整え謁見を願い出て、郡の境は清められました。のちに長沙郡益陽県が山賊に攻められると再び討って平定し、偏将軍を加えられ、在官のまま病で亡くなりました。孫皎伝は、黄蓋と孫瑜が死ぬと孫皎がその兵を併せたと記しています。

黄蓋は官にあって物事を決断して滞らせることがなかったので、国の人々は彼を慕い、『呉書』によれば、彼の姿を描いて四季に祀りました。黄龍元年(229)、孫権は皇帝に即位すると彼の功を振り返り、息子の黄柄に関内侯の爵位を賜りました。陳寿は黄蓋をはじめこの伝の将たちについて、「皆江東の虎のような臣であり、孫氏が厚く遇した者たちである」と評しました。

今寇眾我寡,難與持久。然觀操軍船艦,首尾相接,可燒而走也
いま敵は多く我らは少なく、長く持ちこたえるのは難しい。しかし曹操軍の船を見ると船首と船尾が連なっているので、焼き払って追い散らすことができる『三国志』呉書 周瑜伝
蓋當官決斷,事無留滯,國人思之
黄蓋は官にあって決断し、物事が滞ることがなかったので、国の人々は彼を慕った『三国志』呉書 黄蓋伝

三国志演義

『三国演義』 第5~7回 · 第15回 · 第43~44回 · 第46~47回 · 第49~50回 · 第55~56回

演義で黄蓋は第5回に孫堅の四将のうちの二番目として登場します。演義は彼を零陵の人で、鉄の鞭である鉄鞭を使うと紹介します。第6回では孫堅に従って袁術の陣営に行き、玉璽をめぐって袁紹と争ったときには程普 · 韓当とともに剣を抜きます。第7回では孫堅が劉表の軍に包囲されると、程普 · 韓当と死力を尽くして戦い救い出します。孫堅が劉表を討ちに出陣するときは先に川辺へ行って軍船を整え、孫堅が峴山で死んだ夜には水軍を率いて来て黄祖を生け捕りにします。そして生け捕りにした黄祖を孫堅の遺体と交換するよう孫策に勧めます。第15回では孫策に従って長江を渡り神亭嶺に登った十三騎の一人となり、嘉興を奪い、会稽では王朗の将周昕と対峙します。

第43回で黄蓋は東呉の兵糧を司る官として再び登場し、諸葛亮を言葉で追い詰める士たちを叱りつけ、諸葛亮を孫権のもとへ案内します。第44回では将たちとともに周瑜を訪ね、「我が首は斬られようとも、誓って曹操には降伏しない」と叫びます。第46回で黄蓋は夜に周瑜を訪ね、敵は多く味方は少ないから火攻めにしようと言い、自ら偽りの降伏を引き受けると名乗り出ます。翌日、諸将が集まった席でわざと降伏を口にして周瑜の怒りを買い、背中に棒打ち五十回を受けて肉が裂けます。これが演義の苦肉の計であり、黄蓋は参謀の闞沢にだけ本心を打ち明けて偽りの降伏の手紙を託します。第47回で闞沢がその手紙を持って曹操を訪ね、信じ込ませます。

第49回で黄蓋は、船首に大きな釘を打ち、葦と枯れ木に魚油を注いで硫黄と焔硝を載せた火船二十艘を用意します。「先鋒黄蓋」と書いた旗を三番目の船に掲げて進み、曹操の水寨に火を放ち、小舟に乗り移って曹操を追ううちに張遼の矢を肩に受けて水に落ちます。第50回で韓当が「義公、わしを救え」という叫びを聞いて彼を引き上げ、矢じりを抜いて自分の戦袍を着せ、本陣へ送ります。第55~56回では、劉備を追って大敗した周瑜を韓当とともに船で救い出します。演義で黄蓋が登場するのはここまでで、その死は描かれません。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 190孫堅が義兵を挙げると彼に従いました。江東を開いた三人
  2. 195孫策に従う十三騎の一人として、神亭で太史慈と出くわしました。江東の二老将
  3. 199行武鋒校尉として孫策に従い、沙羨で黄祖を討ちました。
  4. 208赤壁で火攻めの計を献じ、偽りの降伏の手紙を送ったのち、火船で曹操の船を焼きました。赤壁の戦い
  5. 208矢に当たって水に落ちましたが、厠で韓当を呼んで命拾いしました。江東三代の老将
  6. 229皇帝となった孫権が彼の功を振り返り、息子の黄柄に関内侯の爵位を賜りました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 黄柄

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

この背を見よ!

口を開くとき

黄公覆だ。老いたが、杖打ちには耐えられる。

言い返すとき

言葉で打たれるか? わしは慣れっこだ。

言葉に詰まって

…背中がうずくな。

言葉に詰まって

この程度の杖打ちは受けたことがある。

舌戦に勝って

肉を斬らせて骨を断つものだ。

舌戦に敗れて

…此度は打たれ損であったか。

勝ったあと

この背の杖が報われたぞ。

敗れたあと

…もう一度打たれねばならぬか。

倒れるとき

この背の杖の跡が報われた。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛周泰徐盛孫権程普丁奉