張昭

字 子布 · 156年 ~ 236年 · 徐州彭城国 · 孫堅配下

張昭の肖像

孫策の遺命で孫権を立てたが、剛直ゆえ丞相になれなかった元老

能力値

統率33武力3知力84政治97魅力81

カード

攻撃力 1体力 2コスト 2価値 9職分 能吏
毒計 コスト 3
敵全体が毎局面1ダメージを受ける(持続)
険路 コスト 1
敵の次の召喚は召喚酔いが1局面延びる
陥穽 コスト 2
秘密 · 敵が召喚するとき · その武将は召喚酔いが2局面延びる

正史

出典 · 『三国志』呉書張昭伝と裴松之注の『呉歴』 · 『江表伝』 · 習鑿歯の言 · 裴松之の言 · 呉書呉主伝 · 妃嬪伝 · 周瑜伝と裴松之注の『江表伝』

張昭は字を子布といい、彭城の人です。若いころから学問を好んで隷書に巧みで、『左氏春秋』を学び多くの書物を広く読み、琅邪の趙昱、東海の王朗とともに名を馳せました。二十歳ごろ孝廉に推挙されましたが応じませんでした。徐州刺史陶謙が茂才に推挙したのにも応じなかったので、陶謙は自分を侮っているとして彼を投獄し、趙昱が身を挺して救ったため、ようやく釈放されました。

漢末の大乱で徐州の士人や民の多くが揚州へ避難したとき、張昭も長江を渡りました。孫策が国を興しはじめると彼を長史・撫軍中郎将とし、堂に上ってその母に拝礼して旧友のように遇し、文武の事をことごとく彼に任せました。北方の士大夫たちが手紙のたびに功を張昭に帰したので張昭が不安がると、孫策は笑って、管仲が斉を取り仕切っても桓公が覇者の筆頭となったように「いま子布が賢く、私が彼を用いているのだから、その功名がどうして私のものにならないことがあろうか」と言いました。

建安5年(200)、孫策は死に臨んで弟の孫権を張昭に託し、張昭は百官を率いて孫権を立て、補佐しました。『呉歴』によれば、孫策は「仲謀が事に堪えられなければ、君が自らこれを取れ」とまで言いました。孫権が悲しみに沈んで政務を執れずにいると、張昭は「いま天下は沸き立ち、賊が山に満ちているのに、どうして悲しみに伏して匹夫の情に従っていられましょう」と言って、自ら孫権を支えて馬に乗せ、兵を並べて出て行き、それでようやく人々の心は帰する所を知りました。呉主伝は、このとき張昭が「今は泣いているときでしょうか」と言って孫権の衣を着替えさせたと記します。建安7年(202)、孫権の母呉夫人は死に臨んで張昭らを呼び、後事を託しました。

建安13年(208)、曹操が荊州を得て南下してくると、議する者の多くは彼を迎え入れるべきだと言いました。裴松之注に引く『江表伝』によれば、孫権は「子布や文表のような者たちは、それぞれ妻子を顧みて私心を抱いており、大いに失望した」と言っており、張昭が秦松らとともに迎え入れる側に立っていたことがわかります。同じ年、孫権が合肥を包囲したとき、張昭は別に九江の当塗を攻めましたが勝てませんでした。翌年、劉備が上表して孫権を行車騎将軍とすると、張昭は軍師となりました。孫権が馬を駆って虎を射ていて、虎が鞍に飛びかかってきたこともあったので、張昭は「君主とは英雄を使いこなす者です。野で猛獣と勇を競う者でありましょうか」と諫めました。

黄初2年(221)、魏の使者邢貞が孫権を呉王に封じるために来て、門を入っても車から降りなかったので、張昭は「貴殿はあえて自ら尊大にふるまうが、江南に寸刃もないとでも思っているのか」と叱りつけて降ろさせました。張昭は綏遠将軍・由拳侯となりました。孫権が初めて丞相を置いたとき衆議は張昭に集まりましたが、孫権は彼を用いず、黄武4年(225)に丞相孫邵が死んで百官が再び彼を推挙すると、「この人は性格が剛直で、言葉が容れられなければ恨みと過ちが生じるだろう」と言って顧雍を用いました。

黄龍元年(229)、孫権が皇帝を称すると、張昭は老いて病んでいるとして官職を返上し、改めて輔呉将軍となって三公に次ぐ班に列し、婁侯に封じられて食邑一万戸を受けました。『江表伝』によれば、皇帝となった孫権が功を周瑜に帰したとき、張昭が笏を掲げて功徳を称えようとすると、孫権は「張公の計に従っていたら、今ごろは物乞いをしていたであろう」と言い、張昭は大いに恥じて地に伏しました。『江表伝』は、孫権が彼を宰相に用いなかったのも、かつて周瑜と魯粛の意見を誤りだとしたためだと記します。家に留まって、張昭は『春秋左氏伝』の解釈と『論語』の注を著しました。

嘉禾2年(233)、孫権が藩臣を称した公孫淵を燕王に封じようと張弥と許晏を遼東へ送ろうとすると、張昭は、公孫淵が心変わりすれば二人の使者は帰って来られず、天下の笑いものになるだろうと諫めました。何度も言い争って我慢できなくなった孫権が刀に手をかけて怒ると、張昭は、太后が亡くなる際に遺されたお言葉がまだ耳に残っているからだと言って涙を流し、孫権も刀を投げ捨てて向き合って泣きました。しかし孫権は結局使者を送り、張昭は病を理由に朝廷に出なくなりました。孫権が土でその家の門を塞ぐと、張昭も内側から土で塞ぎました。公孫淵は果たして二人の使者を殺しました。孫権は何度も謝りましたが張昭が起きてこないので、門を焼いて脅し、ついに息子たちが張昭を支えて起こすと、彼を車に乗せて宮殿に戻り、深く自らを責めました。裴松之注に引く習鑿歯の文は、この件について張昭が臣下の道を失ったと咎めました。

張昭は容貌が厳かで威厳があり、孫権は常に「私は張公と話すときは軽々しい口がきけない」と言っていました。嘉禾5年(236)、八十一歳で亡くなる際、頭巾と白木の棺で、普段着のまま納棺するよう言い残し、孫権は素服を着て弔問し、諡を文侯としました。長男の張承はすでに別に侯に封じられていたので、末子の張休が爵位を継ぎました。陳寿は、張昭は遺命を受けて補佐し功勲を成し、忠実で正直で己のためにふるまわなかったが、厳格で煙たがられ、高潔で遠ざけられて宰相にも師傅にも就けなかったとして、「これにより孫権が孫策に及ばないことがわかる」と評しました。裴松之は、張昭が曹操を迎え入れるよう勧めたことについて、孫氏にとっては功がなくとも天下にとっては大いに理にかなっていたと述べました。

張昭受遺輔佐,功勳克舉,忠謇方直,動不爲己
張昭は遺命を受けて補佐し功勲を成し、忠実で正直であり、その行いは己のためではなかった『三国志』呉書 張顧諸葛歩伝 評
孤與張公言,不敢妄也
私は張公と話すときは軽々しい口がきけない『三国志』呉書張昭伝に載る孫権の言

三国志演義

『三国演義』 第15~98回

演義で張昭は第15回に初めて登場します。孫策に会った周瑜が「江東に二張あり」と言って彭城の張昭と広陵の張紘を推挙し、二人が招きを辞退すると、孫策が自ら家を訪ねて迎え入れ、張昭を長史兼撫軍中郎将とします。第29回では怒って許昌を攻めようとする孫策を、医者が百日休むよう言ったとして止め、孫策が道士于吉を殺そうとすると数十人と連名で書状を差し出して命乞いをします。死に臨んだ孫策は「子布らはわが弟をよく補佐してくれ」と言い、母に内のことは張昭に、外のことは周瑜に尋ねるよう言い残します。孫策が息を引き取ると、張昭は「今は将軍が泣いているときではない」と言って孫権を立ち上がらせ、葬礼と国事をあわせて処理させます。第38回では曹操が人質を求めると、送らなければ軍が南下してくるのではないかと憂え、孫権の母は死に際に息子に張昭と周瑜を師の礼をもって仕えるよう言い残します。

第43回で張昭は曹操の檄文を受け取った孫権に、降伏を受け入れるのが万全の策だと勧め、江東に来た諸葛亮に真っ先に話しかけて「管仲・楽毅に自らをなぞらえているというのはまことか」と問いただしますが、諸葛亮の長い答えに一言も返せません。その後も諸葛亮の言に従うのは薪を背負って火を消しに行くようなものだと言って開戦を止め、第44回では周瑜を訪ねてともに降伏を勧めようと持ちかけますが、孫権の前で周瑜から「腐儒の論」と言われます。

その後も演義の張昭は孫権のそばの知恵袋としてたびたび登場します。第61回では孫夫人に国太が危篤だという手紙を送って阿斗を連れて来させようという策を出し、第66回では諸葛瑾の家族を捕らえたふりをして諸葛亮を動かし、荊州を取り戻そうと言います。第77回では関羽を殺した孫権に、劉備の恨みを曹操に向けさせるため関羽の首を曹操に送るよう勧めます。第82回では車から降りない魏の使者邢貞を叱りつけて降ろさせ、第83回では陸遜はただの書生にすぎないと言って彼の起用に反対します。第86回では蜀の使者鄧芝を煮えたぎる油の鼎の前に立たせようと言い、第98回では孫権に帝位に就くよう勧めますが、宴で諸葛恪に言い負かされて無理に酒を飲まされます。演義で張昭が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 195江東を切り開いていた孫策の長史・撫軍中郎将となり、文武の事をすべて任されました。
  2. 200孫策の託孤を受けて孫権を立て、悲しむ彼を馬に乗せて軍を巡察させました。二張
  3. 202孫権の母呉夫人が死に臨んで張昭らに後事を託しました。
  4. 208『江表伝』によれば、曹操が南下してくると秦松らとともに彼を迎え入れる側に立ちました。
  5. 208孫権が合肥を包囲したとき、別に九江の当塗を攻めましたが勝てませんでした。
  6. 209劉備の上表で孫権が行車騎将軍となると、その軍師となりました。
  7. 221車から降りない魏の使者邢貞を叱りつけ、綏遠将軍・由拳侯となりました。
  8. 225丞相孫邵が死んで百官が彼を推挙しましたが、孫権は性格が剛直だとして顧雍を用いました。
  9. 229孫権が皇帝を称すると官職を返上し、輔呉将軍・婁侯となりました。
  10. 233公孫淵に使者を送る件に反対して朝廷に出なくなり、孫権が門を土で塞ぎました。
  11. 236八十一歳で亡くなり、文侯という諡を受けました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 張承 · 張休 · 甥 張奮

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

江東の大黒柱である。

口を開くとき

江東の老臣である。礼をもって問おう。

言い返すとき

言葉には根拠がなくてはならぬ。聞こう。

言葉に詰まって

…わが言葉が軽かったか。

言葉に詰まって

孫氏三代に仕えた身であるぞ。

舌戦に勝って

古の書を読んだ者を侮るでない。

舌戦に敗れて

…老臣の言葉が通じぬか。

勝ったあと

江東の文官も戦えるのだ。

敗れたあと

…降伏を説いた口が恥ずかしい。

倒れるとき

あのとき降伏を説いたことを悔いる。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普