陸凱

字 敬風 · 198年 ~ 269年 · 揚州呉郡呉県 · 孫堅配下

陸凱の肖像

暴君孫皓に直言を厭わず、呉の命脈を保とうとした左丞相

能力値

統率65武力61知力78政治85魅力73

カード

攻撃力 4体力 3コスト 2価値 9職分 能吏
狙撃 コスト 2
味方1体が敵1体に自身の攻撃力分のダメージ(反撃なし)

正史

出典 · 『三国志』呉書陸凱伝と裴松之注の『呉録』 · 『江表伝』 · 呉書呉主伝 · 三嗣主伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 『江表伝』 · 陸機の『弁亡論』 · 呉書陸遜伝

陸凱は字を敬風といい、呉郡呉県の人で、丞相陸遜の一族の甥です。黄武の初めに永興と諸曁の県長となり、赴任した先々で治績を上げ、建武都尉となって兵を率いました。兵を率いながらも書物を手放さず、『太玄』を好んでその意義を論じ、占えばよく当たりました。

赤烏年間に儋耳太守となり、朱崖を討って功を立てて建武校尉となりました。呉主伝は、赤烏5年(242)に将軍聶友と校尉陸凱が兵三万で朱崖と儋耳を討ったと記します。五鳳2年(255)に零陵の山賊陳毖を斬って勝ち、巴丘督・偏将軍となって都郷侯に封じられ、武昌右部督に移りました。諸将とともに寿春に赴いて帰還したのち盪魏将軍・綏遠将軍を経て、孫休が即位すると征北将軍として節を仮され豫州牧を兼ねました。孫皓が立つと鎮西大将軍として巴丘を都督し、荊州牧を兼ね、嘉興侯に封じられました。

宝鼎元年(266)、晋から戻った使者丁忠が弋陽を奇襲しようと言うと、陸凱は、兵はやむを得ないときに用いるものであり、強敵が蜀を併せたばかりで和親を求めているときに僥倖の勝利を望むのは利にならないと諫めました。その年の8月に左丞相となりました。孫皓は臣下が自分を見上げるのを嫌い、誰もあえて見ようとしませんでしたが、陸凱は君臣が互いの顔を知らなければ不測の事態に向かうべき所がわからないと言い、自分だけはまっすぐ見てよいと許されました。

孫皓は甘露元年(265)に都を武昌に移しましたが、揚州の民は流れをさかのぼって物資を送るのに苦しみ、政治が誤って民は貧しくなりました。陸凱は「民は国の根本」であるとして、事業を減らし兵を養って時を待つよう上疏し、武昌は険しく痩せた土地で王者の都となる所ではないとして、「建業の水を飲むとも武昌の魚は食わず、建業に帰って死ぬとも武昌には住まず」という童謡を引きました。先帝のときには宮女が百人にも満たなかったのに今は千を数えるとして、彼女たちを宮中から出して妻のない者に娶わせるよう求め、身分を問わず賢者を用いるよう奏上しました。三嗣主伝は、孫皓がその年の12月に建業へ帰ったと記します。

そのころ殿上列将の何定がへつらいによって寵愛を受けて事を任されると、陸凱は彼に面と向かって「前後の君主に仕えながら忠を尽くさず国を乱した者で、天寿を全うした者がいたか」と叱りつけ、改めなければ思いがけない禍にあうだろうと言いました。何定は大いに恨んで彼を陥れようとしましたが、陸凱は最後まで意に介さず、その表や上疏は飾り気なく事の核心を突いていました。『江表伝』によれば、孫皓が新宮殿を造るときにも重ねて諫め、孫皓の行いがいっそう荒れると、このままでは滅亡まで二十年を超えないだろうという表を奉りました。

建衡元年(269)に病が重くなると、孫皓は中書令董朝を遣わして言い残すことを尋ねさせました。陸凱は、何定に国政を任せず外の官職に出すよう言い、姚信・楼玄・賀邵・張悌・薛瑩・滕脩と一族の弟陸喜・陸抗らを「社稷の柱であり国の良き輔佐」として推挙したのち亡くなりました。七十二歳でした。陳寿は、荊州と揚州から来た人々から陸凱が孫皓を諫めた二十か条を得ましたが、呉の人々に広く尋ねてもそのような表を聞いたという者はまれで、文があまりにまっすぐなので孫皓が堪えられたはずがないとして、真偽を見分けがたいと述べました。それでも後世の戒めとなるに足るとして伝の末尾に写して載せており、その二十か条は王蕃を殺したこと、万彧を宰相に引き上げたこと、宮女を一万人も置いたこと、宦官に兵を任せたことなどを指摘し、一つ一つを「先帝に従わなかったこと」と結んでいます。

孫皓は陸凱がたびたび顔色を犯して諫めるのを憎み、何定の讒言も加わりましたが、彼が重臣であって法で縛るのは難しく、陸抗が大将として国境にいたので、計算ずくで堪えていました。陸抗が亡くなったのち、孫皓はついに陸凱の家族を建安に移しました。陸凱伝はまたある人の話として、宝鼎元年(266)12月に陸凱が大司馬丁奉・御史大夫丁固とともに、孫皓が廟に詣でるときに彼を廃そうとしましたが、左将軍留平が従わなかったので取りやめたと記します。子の陸禕は黄門侍郎を経て偏将軍となり、華覈は彼の統率の才は魯粛にも劣らないとして夏口を任せるよう推挙しました。弟の陸胤は交州刺史として南方を恩愛と信義で治めて名を上げました。陳寿は、陸凱は忠実で剛毅、本性がまっすぐで、潘濬とともに大丈夫の気概があったと評し、裴松之注に引く陸機の『弁亡論』は、左丞相陸凱が直言によって正道を尽くしたと記します。

陸凱忠壯質直,皆節概梗梗,有大丈夫格業
陸凱は忠実で剛毅、本性がまっすぐで、(潘濬と)ともに節操が堅く、大丈夫の風格と事業を備えていた『三国志』呉書 潘濬陸凱伝 評
寧飲建業水,不食武昌魚,寧還建業死,不止武昌居
建業の水を飲むとも武昌の魚は食わず、建業に帰って死ぬとも武昌には住まず『三国志』呉書陸凱伝に載る童謡

三国志演義

『三国演義』 第120回

演義で陸凱は最終回の第120回にだけ登場します。孫皓が即位したのち凶暴さが日ごとに増し、諫めた濮陽興・張布が殺されて朝廷が口を閉ざすと、宝鼎元年に陸凱と万彧が左右の丞相となります。孫皓が武昌にとどまって揚州の民が流れをさかのぼって物資を送るのに苦しみ、奢侈が果てしないと、陸凱は上疏して「災いもないのに民の命が尽き、何事もないのに国の財が空になった」と奏上し、曹氏と劉氏が道を失ってすべて晋のものとなったことを思い起こさせます。武昌は険しく痩せた土地で王者の都ではないとして、「建業の水を飲むとも武昌の魚は食わず」という童謡を引き、大帝のときには宮女が百人にも満たなかったのに景帝以来千を数えるとして、事業を減らし、宮女を出し、百官を選び抜くよう求めます。上疏を受けた孫皓は喜ばず、かえって昭明宮を大規模に造営します。演義はその後の陸凱の死や二十か条の諫言を取り上げておらず、演義で陸凱が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 222黄武の初めに永興と諸曁の県長となり、治績を残しました。
  2. 242将軍聶友とともに兵三万で朱崖と儋耳を討ちました。
  3. 255零陵の山賊陳毖を斬って勝ち、巴丘督・偏将軍となりました。
  4. 258孫休が即位すると、征北将軍として豫州牧を兼ねました。
  5. 264孫皓が即位すると、鎮西大将軍として巴丘を都督し、荊州牧を兼ねました。
  6. 266晋の弋陽を奇襲しようという丁忠の言葉を諫め、その年に左丞相となりました。
  7. 266武昌に移した都の苦しみを、童謡を引いて上疏しました。
  8. 269病が重くなると、何定を用いず陸抗らを用いるよう言い残し、七十二歳で亡くなりました。
  9. 269彼が孫皓を諫めた二十か条が伝わりましたが、陳寿はその真偽を見分けがたいと述べました。二十の諫言
  10. 274陸抗が亡くなったのち、孫皓が彼の家族を建安に移しました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

弟 陸胤 · 子 陸禕

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

正論を吐く者が参った。

口を開くとき

耳の痛いことを言いに参った。

言い返すとき

正論とはもとより耳障りなものだ。

言葉に詰まって

…また憎まれるか。

言葉に詰まって

それでも言わねばならぬ。

舌戦に勝って

諫める臣がいる国は立つ。

舌戦に敗れて

…この国が案じられる。

勝ったあと

直言が勝つ日もあるのだ。

敗れたあと

…諫言はまた届かなんだ。

倒れるとき

…暴君に言うべきことは言い尽くした。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普