字 元歎 · 168年 ~ 243年 · 揚州呉郡呉県 · 孫堅配下
十九年にわたり黙々と内政を統べ、呉の全盛を導いた名宰相
出典 · 『三国志』呉書 顧雍伝と裴松之注の『江表伝』 · 『呉録』 · 徐衆の評 · 『三国志』呉書 呉主伝 · 潘濬伝 · 顧譚伝 · 『世説新語』雅量篇
顧雍は字を元歎といい、呉郡呉県の人です。裴松之注に引く『呉録』は、曾祖父の顧奉が潁川太守を務めたと記します。蔡邕が朔方から戻り、怨みを避けて呉に身を寄せていたとき、顧雍は彼から琴と書を学びました。『江表伝』によれば、顧雍は学問に専心し、清らかで静かで聡敏で教えやすかったので、蔡邕は彼を特別に思い、「君は必ず大成するだろうから、いま私の名を君に与えよう」と言い、そのため二人の名が同じなのだといいます。『呉録』は、字の元歎も蔡邕に感嘆されたという意味でつけたものだと記します。
州と郡の推挙により二十歳ほどで合肥長となり、のちに婁 · 曲阿 · 上虞の県長を務め、赴く先々で治績を残しました。孫権が会稽太守を兼ねながら郡に赴かなかったので、顧雍を郡丞として太守の職務を代行させましたが、彼は賊を討ち平らげて郡内は静まり、役人も民も心服しました。数年後に都へ入って左司馬となり、孫権が呉王となると大理 · 奉常を経て尚書令を兼ね、陽遂郷侯に封じられました。侯に封じられて役所に戻っても家の者たちは知らず、後で聞いて驚いたといいます。
黄武4年(225)顧雍が母を呉から迎えると、孫権が自ら訪ねてきて庭でその母に拝礼し、公卿大臣がみな集まり、太子も祝いに赴きました。顧雍は酒を飲まず口数が少なく、立ち居振る舞いは常に時宜にかなっていました。孫権は「顧君は物を言わないが、言えば必ず的を射る」と感服しました。宴で楽しむとき、周りの者は酒で失態を演じれば必ず顧雍に見られるのを恐れて思う存分楽しめず、孫権も「顧公が席にいると人を楽しませない」と言ったほどで、彼はこれほど憚られていました。その年、彼は太常となって醴陵侯に進み、孫邵の後を継いで丞相となり、尚書の事もあわせて見ました。呉主伝は彼が丞相となったのをその年の6月と記します。
丞相として彼は文武の将や役人をそれぞれの才に応じて任じ、心に偏りがありませんでした。時おり民間の事情や政務に適う事柄を尋ねては密かに上奏し、採用されれば功を君主に帰し、用いられなければ最後まで外に漏らさなかったので、孫権は彼を重んじました。朝廷で奏上するときは、言葉と顔色は穏やかでも守るところは正しいものでした。孫権が政治の得失を問うと、張昭が法令が繁雑すぎ刑罰がやや重いと奏上しましたが、孫権が黙って顧雍を振り返って尋ねると、顧雍は「臣が聞いたところも張昭の奏上と同じです」と答え、そこで孫権は獄事を議して刑罰を軽くしました。『江表伝』によれば、孫権は常に中書郎を遣わして顧雍に事を尋ねさせましたが、顧雍の意にかなえば繰り返し詳しく論じて酒食を用意し、かなわなければ顔色を正して黙り、何も用意しませんでした。孫権は「顧公が喜べばその事は適切であり、何も言わなければまだ妥当でないということだから、わしが考え直そう」と言ったといいます。また長江沿いの将たちが手柄を立てようと奇襲を願い出ると、顧雍は兵法は小さな利を戒めるとして、彼らが功名を望んで自分のためにしているのであって国のためではないから止めるべきだと上奏し、孫権はこれに従いました。嘉禾2年(233)孫権が燕王に封じた公孫淵に大軍をつけて使者を送ろうとすると、呉主伝は丞相顧雍以下朝廷の大臣がこぞって公孫淵は信用できないと諫めたが、孫権はついに聞き入れなかったと記します。公孫淵は案の定、使者たちを斬ってその首を魏に送りました。
その後久しくして、呂壹と秦博が中書となって官府と州郡の文書を取り調べる役を担うと、しだいに威勢を振るって酒の専売などの利を収め、小さな過ちまで暴き立てて大臣を誹り、罪のない者を陥れ、顧雍らも告発されて譴責を受けました。『三国志』潘濬伝は、校事の呂壹が丞相顧雍を弾劾して拘禁させたが、黄門侍郎謝厷の言葉に恐れをなしてその件を取り下げたと記します。のちに呂壹の罪が明るみに出て廷尉に下されると、顧雍が出向いて獄事を取り調べましたが、彼は顔色を和らげて呂壹の供述を尋ね、退出する際には「君はほかに言いたいことはないか」と問い、呂壹はただ頭を下げるばかりで何も言いませんでした。このとき尚書郎の懐叙が呂壹を面と向かって罵ると、顧雍は「官には正しい法がある。どうしてここまでするのか」と叱りました。裴松之注に引く徐衆の評は、彼が怨みを抱かなかったのはまことに長者らしいが、呂壹に言うことを尋ねたことと懐叙を叱ったことは正しくないと述べました。
『江表伝』によれば、孫権が姪を嫁がせる席に顧雍とその子、孫の顧譚を招きましたが、酒に酔った顧譚が三度も立って舞い、やめようとしなかったので、顧雍は翌日彼を呼び、「君主は過ちを包み込むことを徳とし、臣下は恭しく慎むことを節とする」と叱り、「わが家を滅ぼすのは必ずお前だ」と言って壁の方を向いて横になったといいます。また『世説新語』は、長子の顧邵が豫章太守在任中に死んだとき、属官を集めて碁を打っていた顧雍は、書状は届いたのに息子からの書状がないので、顔色は変えなかったものの心中で事情を悟り、爪で掌を刺して血が敷物に流れ、客たちが散った後にようやく嘆いたと記します。
顧雍は丞相の位に十九年あって、赤烏6年(243)七十六歳で死にました。初め病が軽かったとき、孫権は医者の趙泉を遣わして診させ、末子の顧済を騎都尉としましたが、顧雍はこれを聞いて「趙泉は生死の見立てに長けている。私は必ず起き上がれないだろう。だから主上は私の目で顧済が官を受けるのを見せようとなさったのだ」と悲しみました。孫権は白い服を着て弔問し、諡は粛侯です。長子の顧邵は早くに死に、次男の顧裕は重い病があったので末子の顧済が跡を継ぎましたが、子がなく家が絶えたため、永安元年(258)孫休が詔を下して顧裕に醴陵侯を継がせました。孫の顧譚は祖父の死の数か月後に太常となり、その跡を継いで尚書の事を見ましたが、魯王孫覇と不和になり、全寄父子の讒言を受けて交州に流されて死に、弟の顧承もともに流されました。
陳寿は「顧雍はもとの学業に依り、知恵と度量でそれを行ったので、栄位を全うした」と評しました。
顧雍依杖素業,而將之智局,故能究極榮位顧君不言,言必有中『三国演義』 第29~98回
演義で顧雍が初めて登場するのは第29回です。孫権のもとに戻った張紘が彼を推挙しますが、演義は彼を中郎蔡邕の弟子で、口数が少なく酒を飲まず、厳格で正しい人物と紹介し、孫権は彼を郡丞として太守の職務を代行させます。第38回では張紘とともに、孫権が呉会に開いた賓館で四方の賓客を迎えます。
第43回、諸葛亮が江東に渡ってくると、張昭らとともに彼を迎える文官の列に加わり、孫権が戦う意志を見せると、「劉備は曹操に敗れたので、わが江東の兵を借りて防ごうとしているのです。主公はどうして彼に利用されようとなさるのですか。張昭の言葉をお聞きください」と言って降伏の側に立ちます。第44回では張昭 · 張紘 · 歩騭とともに周瑜を訪ねて降伏を勧め、「議論はみな同じです」と答えます。
第56回では、荊州を攻めようとする孫権に、劉備を荊州牧に推す表を上って曹操を恐れさせ、反間の計で曹操と劉備を互いに争わせるよう説き、第61回では劉備が西川へ行った隙に川口を断って荊襄を攻めようと言って、呉国太に叱られます。第68回では張昭とともに濡須で曹操と和睦するよう上奏し、第73回では曹操の使者満寵の言葉にも理があると言います。第82回では魏帝の冊封を受けないよう諫め、第83回で闞沢が陸遜を推挙すると、「陸遜は年若く声望が軽いので、諸公は従わないでしょう」と反対します。第86回では張昭とともに改元を上奏し、第96回では魏の三路からの侵攻を迎えて、陸遜でなければその任に当たれないと推挙します。第98回で孫権が帝位に即くと丞相となり、上将軍陸遜とともに太子を補佐して武昌を守ります。演義で顧雍が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
子 顧邵 · 顧裕 · 顧済 · 孫 顧譚 · 顧承
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
黙して事に当たろう。
口数が少ないからといって、考えまで少ないわけではない。
必要なことだけ申そう。
….
沈黙もまた答えとなる。
十九年の丞相の座が答えだ。
今日は聞く日のようだ。
黙して勝ったまでよ。
…黙して退こう。
十九年、黙して守った。