陸績

字 公紀 · 188年頃 ~ 219年頃 · 揚州呉郡呉県 · 孫堅配下

陸績の肖像

六歳で母のために蜜柑を懐に入れた「懐橘」の故事の主人公にして天才学者

能力値

統率15武力7知力65政治72魅力43

カード

攻撃力 1体力 1コスト 1価値 2職分 能吏

正史

出典 · 『三国志』呉書陸績伝と裴松之注の謝承『後漢書』 · 姚信の表 · 『後漢書』陸康伝 · 『三国志』呉書陸遜伝 · 顧邵伝 · 孫破虜討逆伝

陸績は字を公紀といい、呉郡呉県の人です。父の陸康は漢末に廬江太守を務めました。『後漢書』陸康伝によれば、陸康は武陵・桂陽・楽安の太守を務めて赴任した先々で称えられ、霊帝が銅人を鋳造しようとして田畑に税を課すとこれを諫め、檻車で護送されたこともありました。廬江の黄穣が江夏の蛮夷と手を結んで蜂起すると、廬江太守となってこれを破りました。寿春の袁術が兵糧と武器を供出せよと言うと、彼を逆賊とみなして城門を閉ざしたので、袁術は孫策を遣わして彼を攻めました。陸康は二年持ちこたえたのち城が陥ち、ひと月余りのちに七十歳で亡くなり、一族百余人のうち半数近くが飢えのなかで死にました。陸績は彼の末子です。陸遜伝は、陸康の従孫である陸遜が陸績より数歳年上であったので、彼に代わって一門を切り盛りしたと記します。

陸績は六歳のとき、九江で袁術に会いました。袁術が橘を出すと、陸績は三つを懐に入れ、辞去して拝礼するときに地面に落としてしまいました。袁術が「陸郎は客として来て橘を懐に入れたのか」と尋ねると、陸績はひざまずいて「帰って母に差し上げたかったのです」と答え、袁術は大いに感心しました。『後漢書』陸康伝も、彼が幼いころ袁術を訪ねて懐に入れた橘を落とした一件で名を知られたと記します。

孫策が呉にいたとき、張昭・張紘・秦松が上座の客となって、天下はまだ平穏でないので武力で治め平定すべきだとともに論じました。年少で末席に座っていた陸績は遠くから大声で、管仲は斉の桓公を助けて諸侯を九たび会合させ天下を正したときに兵車を用いず、孔子は「遠方の人が従わなければ文徳を修めて来させよ」と言ったのに、今論じている人々は道徳で懐かせる道に努めず武力ばかりを尊んでいるので、幼い自分も心が穏やかでないと言いました。張昭らは彼を非凡だと思いました。

長じて彼は体格が大きく頑健で、博学多識であり、天文・暦法・算術をすべて究めました。名高い長老の虞翻や荊州の名士龐統は年がやや上でしたが、みな彼と友になりました。顧邵伝は、顧邵が若いころ母方の叔父の陸績と名を並べ、陸遜らがその次であったと記します。孫権が政事を執ると奏曹掾に召されましたが、まっすぐな道を進んで疎まれ、鬱林太守に出されて偏将軍を加えられ、兵二千を与えられました。陸績は足が不自由な病があり、志は学問の道にあったので、この任を望んではいませんでした。それでも軍務のかたわら著述をやめず、『渾天図』を作り、『易』に注を付け、『太玄』を解釈し、いずれも世に伝わりました。

彼は自らの死期を予知して、「漢の志士、呉郡の陸績は、幼くして『詩』と『書』を篤く修め、長じて『礼』と『易』を楽しんだが、命を受けて南方へ赴き、病にかかった」という文を作り、「今から六十年後には車の轍の幅が同じになり文字も同じになるだろうに、それを見られないのが恨めしい」と言いました。三十二歳で亡くなりました。長男の陸宏は会稽南部都尉、次男の陸叡は長水校尉となりました。裴松之注によれば、鬱林で生まれた娘の陸鬱生は十三歳で張温の弟張白に嫁ぎましたが、三か月で夫が一族の禍によって流されて死ぬと、二度と嫁がないと誓って夫の姉妹たちの面倒を見、姚信は上表して彼女を顕彰するよう願い出ました。

陳寿は、陸績の揚雄の『太玄』に対する関係は、孔子に対する左丘明、老子に対する荘周のようなものだと述べ、そのような大器を南の果ての郡の太守に送ったのは人材を損なうことではなかったかと惜しみました。

陸績之於揚《玄》,是仲尼之左丘明,老聘之嚴周矣;以瑚璉之器,而作守南越,不亦賊夫人歟
陸績の揚雄の『太玄』に対する関係は、孔子に対する左丘明、老子に対する荘周のようなものである。大器を南越の太守に送ったのは、人を損なうことではなかったか『三国志』呉書 虞陸張駱陸吾朱伝 評
術謂曰:“陸郎作賓客而懷橘乎?”績跪答曰:"欲歸遺母。"
袁術が「陸郎は客として来て橘を懐に入れたのか」と尋ねると、陸績はひざまずいて「帰って母に差し上げたかったのです」と答えた『三国志』呉書 陸績伝

三国志演義

『三国演義』 第38回 · 第43回

演義で陸績は第38回、孫権が江東に広く迎え入れた士人の一人として「呉郡の陸績、字は公紀」と初めて名が出ます。第43回で諸葛亮が孫権と手を結ぶために江東へ来ると、張昭をはじめとする士人たちが次々に彼を問い詰めますが、陸績もその一人です。陸績は、曹操は天子を擁して諸侯に号令しているとはいえ相国曹参の子孫であり、劉豫州は中山靖王の子孫と称してもそれを確かめるすべはなく、ただ筵を織り草鞋を売っていた男にすぎないのだから、どうして曹操に対抗できようかと言います。諸葛亮は笑って「公は袁術の席で橘を懐に入れた陸郎ではありませんか」と言い、曹操が曹参の子孫であるなら、代々漢の臣でありながら君主をないがしろにしているのだから祖先まで辱めた賊だと切り返します。さらに劉豫州は系譜に基づいて皇帝が官位を授けた皇室の子孫であり、漢の高祖も亭長から身を起こして天下を得たのだから、筵を織り草鞋を売ったことの何が恥かと言って「子供の見識」と畳みかけ、陸績は言葉に詰まります。演義で陸績が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 194六歳のとき九江で袁術に会い、橘を懐に入れて、母に差し上げようとしたと答えました。懐橘
  2. 196孫策の席で、武力ばかりを尊ぶ張昭らに文徳を修めるよう説きました。
  3. 200孫権が政事を執ると奏曹掾となりましたが、まっすぐな道を進んで疎まれました。
  4. 219鬱林太守の任にあって自らの死期を予知し、己の志を込めた文を残しました。
  5. 219三十二歳で亡くなりました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 陸康 · 子 陸宏 · 陸叡 · 娘 陸鬱生

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

懐の橘をご存じか?

口を開くとき

六歳で懐に橘を忍ばせた者だ。

言い返すとき

孝を知る者は道理も知るものだ。

言葉に詰まって

…母上に差し上げるものが残っておらぬ。

言葉に詰まって

身が弱いのが恨めしい。

舌戦に勝って

根本を知る者が勝つのだ。

舌戦に敗れて

…まだ学びが足りぬ。

勝ったあと

懐に抱いた志が勝った。

敗れたあと

…懐の橘が恥ずかしい。

倒れるとき

懐の橘は…母上のものであった。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普