徐盛

字 文嚮 · 不詳 ~ 不詳 (224年以後) · 徐州琅邪国莒県 · 孫堅配下

徐盛の肖像

数百里の偽りの城壁で魏帝曹丕を驚愕させた呉の鉄壁

能力値

統率86武力81知力77政治64魅力71

カード

攻撃力 5体力 5コスト 4価値 12職分 猛将
陣頭 号令
指定した味方が挑発を得る(撤退するまで · 自身も選べる)

正史

出典 · 『三国志』呉書徐盛伝と裴松之注の『魏氏春秋』 · 蒋欽伝と裴松之注の『江表伝』 · 呉主伝と裴松之注の干宝『晋紀』 · 潘璋伝 · 賀斉伝 · 陸遜伝 · 呂範伝 · 魏書文帝紀

徐盛は字を文嚮といい、琅邪国莒県の人です。世が乱れると呉郡に来て身を寄せ、勇気で名を知られました。建安5年(200)、孫権が跡を継ぐと、彼を別部司馬として兵500を与え、柴桑長として送り、黄祖を防がせました。黄祖の子黄射が数千人を率いて下ってきて徐盛を攻めたことがありましたが、その時徐盛の吏と兵は200にも満ちませんでした。徐盛は迎え撃って黄射の兵千余人を傷つけ、続いて城門を開いて打って出て大いに破りました。黄射はその後二度と攻めてきませんでした。孫権は彼を校尉 · 蕪湖令とし、臨城の南の阿山の山賊を討った功で中郎将となって校兵を率いました。

蕪湖令であった時、徐盛は宣城に駐屯していた蒋欽の屯吏を捕らえて斬りたいと上表しましたが、孫権は蒋欽が遠方にいるとして許さず、徐盛はこの件で蒋欽を恐れていました。のちに曹操が濡須に出てきて、蒋欽が呂蒙とともに諸軍を指揮することになると、徐盛は蒋欽が事にかこつけて自分を害するのではないかと常に恐れていましたが、蒋欽はかえって常に彼の長所を称えました。徐盛がその徳に感服したので、人々はこれを称えました。裴松之注に引く『江表伝』によれば、孫権がそのわけを尋ねると、蒋欽は「徐盛は忠実で勤勉かつ剛毅で、胆力と知略と器量があり、万人を率いるに足ります」と言い、私怨で賢者を覆い隠すことはしないと答えました。

建安20年(215)の合肥の戦いでは、張遼が不意に突入してくると陳武が戦死し、宋謙と徐盛の軍が散り散りに逃げたと潘璋伝が記し、賀斉伝は、城内から出て戦った時、徐盛が負傷して矛を失うと、賀斉が兵を率いて防ぎ、その矛を取り戻したと記します。曹操が濡須に出てきた時、徐盛は孫権に従って防ぎました。魏軍が大挙して横江に出てくると諸将とともに出撃しましたが、蒙衝に乗って進むうちに強風に遭い、船が敵岸の下へ押し流されて着いてしまいました。諸将は恐れて誰も出ようとしませんでしたが、徐盛はただひとり兵を率いて上陸して敵を攻め、敵は散り散りに逃げて死傷者が出ました。風が収まって帰ると、孫権は彼を大いに称えました。

孫権が魏に藩を称すると、魏は黄初2年(221)、太常邢貞を送って孫権を呉王に封じました。孫権が都亭に出て邢貞を待ちましたが、邢貞が驕った様子を見せたので、張昭が怒り、徐盛は憤って同僚たちを振り返り「我らが身を奮い命を投げ出して、国のために許と洛陽を併せ巴蜀を呑むことができず、わが君に邢貞と盟約させるとは、恥ではないか」と言って、涙をぼろぼろとこぼしました。これを聞いた邢貞は一行に「江東の将相がこのようであれば、久しく人の下にいる者たちではない」と言いました。

のちに建武将軍となって都亭侯に封じられ、廬江太守を兼ね、臨城県を奉邑として受けました。黄武元年(222)、劉備が西陵に留まると、徐盛は蜀の諸屯営を攻め落とし、行く先々で功を立てました。陸遜伝は、陸遜が朱然 · 潘璋 · 韓当らとともに率いた5万の軍の将として彼を記し、劉備が白帝に留まった後、徐盛が潘璋 · 宋謙らと競って上表し、劉備を捕らえられるので再び攻めさせてほしいと願い出たと記します。孫権が陸遜に尋ねると、陸遜らは曹丕が大いに兵を集めているので軍を返すべきだと言い、まもなく魏軍は果たして出てきました。その年、曹休が洞口に出てくると、徐盛は呂範 · 全琮とともに長江を渡って防ぎましたが、大風に遭って船の人員を多く失いました。徐盛は残った兵を収めて曹休と長江を挟んで対峙し、曹休が兵と将を船で送って彼を攻めさせましたが、少数で多数の敵を防ぎきり、敵が勝てなかったので、両軍はそれぞれ兵を引きました。呉主伝は、全琮 · 徐盛が魏の将尹盧を追って斬ったと記します。徐盛は安東将軍となり、蕪湖侯に封じられました。

のちに魏の文帝が大挙して出てきて長江を渡る意図を抱くと、徐盛は建業から柵を築き、その上に偽の楼閣を立て、長江の中に船を浮かべるという策を出しました。諸将は役に立たないと言いましたが、徐盛は聞き入れずにあえて立てました。広陵に至った文帝は、柵が数百里にわたって延びているのを望んで驚き、川の水も大いに増していたので、すぐに軍を引きました。そこでようやく諸将は徐盛に服しました。呉主伝はこの事を黄武3年(224)9月のこととし、文帝が大江を望んで「あちらには人物がいる。図ることはできない」と言って引き返したと記します。裴松之注に引く干宝の『晋紀』は、呉の人々が石頭から江乗まで、木の柱に葦の筵をかぶせて彩色で飾った疑城を一夜で立てたと記し、『魏氏春秋』によれば、文帝は「魏に精鋭の騎兵が千群あっても使い道がない」と嘆きました。

徐盛は黄武年間に亡くなり、子の徐楷が爵位を継いで兵を率いました。陳寿は、この巻にともに収めた将たちについて「みな江東の虎臣で、孫氏が厚く遇した者たち」と評しました。

凡此諸將,皆江表之虎臣,孫氏之所厚待也
およそこれらの諸将はみな江東の虎臣であり、孫氏が厚く遇した者たちである『三国志』呉書 程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 評
江東將相如此,非乆下人者也
江東の将相がこのようであれば、久しく人の下にいる者たちではない『三国志』呉書徐盛伝に載る邢貞の言葉

三国志演義

『三国演義』 第38~96回

演義で徐盛は第38回に、孫権が得た良将の一人として「琅邪の徐盛」と紹介されます。赤壁の戦いを前にした第49回、東南の風が吹くと、周瑜は諸葛亮を除こうと徐盛と丁奉にそれぞれ百人を与えて七星壇へ送ります。徐盛は船で水路を、丁奉は陸路を受け持って追いますが、船尾に立った趙雲が矢で徐盛の船の帆綱を断ち切り、帆が落ちて船が横向きになったため、取り逃がしてしまいます。続いて周瑜の左右の護衛として赤壁の火攻めに加わり、第51回の南郡の戦いでは、矢を受けた周瑜を丁奉とともに命がけで救います。第55回では周瑜の命で丁奉とともに要路で劉備を待ち受けますが、孫夫人に叱られて道を開けます。

第68回の濡須では董襲とともに大船を率いて伏せていたところ、曹操の五路の軍が押し寄せると「君の禄を食む者は君の事に忠を尽くすべきだ。何を恐れるのか」と言って、精兵数百と小舟で長江を渡って李典の軍中に飛び込み、包囲された彼を周泰が再び飛び込んで救い出します。第82回では、孫権を呉王に封じに来た邢貞の車の後ろで声を上げて泣き、魏を併せ蜀を呑めなかったことを恥じ、邢貞は「江東の将相がこのようであれば、いつまでも人の下にいる者たちではない」と嘆息します。第83~84回の夷陵では丁奉とともに陸遜の護衛となり、呉班が関の前で罵声を浴びせると出撃を願い出ますが、敵を誘い出す計略だという陸遜に止められます。火の手が上がった日には馮習と渡り合い、逃げる劉備を丁奉とともに前後から囲みますが、張苞が飛び込んで劉備を救い出します。

第86回で曹丕が攻めてくると、徐盛は自ら進み出て安東将軍となり、建業と南徐の軍を率います。長江を渡って戦おうという孫韶が軍令に従わないので、引き出して斬れと命じますが、孫権が駆けつけて止め、それでも密かに長江を渡った孫韶を助けるよう丁奉に計略を授けて送ります。徐盛は葦を束ねて人の形を作り、青い服を着せて旗を持たせ、偽の城と楼閣の上に立てました。霧が晴れると、南徐から石頭城まで数百里にわたって城郭が一夜のうちに立ち並んでいるのを見た曹丕は、「魏に武士が千群あっても使い道がない。江南の人物は図ることができない」と嘆きます。曹丕は暴風と趙雲出兵の知らせに退却する途中で孫韶 · 丁奉に大敗し、演義はこの功がすべて徐盛に帰したと記します。最後となる第96回の石亭の戦いでは陸遜の先鋒として魏の張普を退け、逃げる曹休を追ううちに賈逵が立てた旗を見て伏兵を疑い、引き返します。演義で徐盛が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 200孫権が跡を継ぐと別部司馬として柴桑長となって黄祖を防ぎ、黄射の数千を200に満たない兵で退けました。
  2. 215合肥で張遼の奇襲に軍が散り散りになり、負傷して失った矛を賀斉が取り戻してくれました。
  3. 221孫権を呉王に封じに来た魏の使者邢貞の驕りに憤り、涙を流しました。
  4. 222劉備が西陵に留まると、陸遜の下で蜀の諸屯営を攻め落としました。夷陵の二老将
  5. 222劉備が白帝に留まった後、潘璋 · 宋謙らと競って再攻撃を上表しました。
  6. 222洞口で大風に船と人を失いながらも、残った兵で曹休を防ぎ、安東将軍 · 蕪湖侯となりました。
  7. 224建業から柵と偽の楼閣を立て、広陵に至った曹丕を驚かせて軍を引かせました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 徐楷

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

呉の徐文嚮である。

口を開くとき

徐文嚮である。守りなら自信がある。

言い返すとき

虚勢ならば、わしも張れるぞ。

言葉に詰まって

…壁が揺らいでおるな。

言葉に詰まって

ここで退くわけにはいかぬ。

舌戦に勝って

数百里の城壁で天子を追い返したのだ。

舌戦に敗れて

…一重足りなかったか。

勝ったあと

城壁ひとつで事足りた。

敗れたあと

…今度は騙されぬか。

倒れるとき

城など一夜で築いてみせる。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰孫権程普丁奉