字 子璜 · 不詳 ~ 249年 · 揚州呉郡銭唐県 · 孫堅配下
父の米を困窮する士人に施した孫権の婿
出典 · 『三国志』呉書全琮伝と裴松之注の徐衆の評 · 『呉録』 · 『江表伝』 · 『呉書』 · 呉主伝 · 妃嬪伝 · 顧譚伝と裴松之注の『呉録』 · 陸遜伝 · 孫和伝裴松之注の『通語』 · 朱然伝 · 呂範伝 · 朱桓伝 · 賀全呂周鍾離伝 評
全琮は字を子璜といい、呉郡銭唐県の人です。父の全柔は漢の霊帝のとき孝廉に挙げられて尚書郎右丞となりましたが、董卓の乱で官を捨てて帰郷し、会稽東部都尉を経て、孫策が呉に至ると兵を挙げていち早く帰順しました。孫策は上表して彼を丹楊都尉とし、孫権が車騎将軍となると長史とし、のちに桂陽太守に移しました。
全柔はかつて全琮に米数千斛を積んで呉へ行き、交易してくるよう命じましたが、全琮は着くとそれをすべて分け与えてしまい、空の船で帰ってきました。全柔が激怒すると、全琮は頭を地につけて「買い入れるものは急ぎではありませんが、士大夫たちが逆さ吊りにされたような窮状にあったので、すぐに救おうとしてお知らせする暇がありませんでした」と言い、全柔はかえって彼を見どころがあると思いました。裴松之注に引かれた徐衆の評は、子が父の命を捨てて財を勝手に使い名声を求めたのは父子の礼を尽くしていないとしましたが、裴松之は、子の道ではないものの、士人たちの命が朝夕に迫っていたので急を要する者を先に救ったのであり、名声を求めたとだけ言えばその心に背くことになると見ました。そのころ中原の士人で乱を避けて南へ来て全琮を頼った者は百を数えましたが、全琮は家財を傾けて彼らを助け、有るものも無いものも分かち合ったので、名が遠近に知られました。
のちに孫権は彼を奮威校尉とし、兵数千を与えて山越を討たせました。全琮は人を募って精兵一万余人を得て牛渚に駐屯し、しだいに偏将軍に昇りました。建安24年(219)関羽が樊と襄陽を囲むと、全琮は関羽を討つことができるとする計略を上書しましたが、孫権はすでに呂蒙とひそかに関羽を討つことを相談していたため、事が漏れるのを恐れて返答しませんでした。関羽を捕らえたのち、孫権は公安で酒宴を開き「卿が先にこれを申したとき私は答えなかったが、今日の勝利は卿の功でもある」と言い、彼を陽華亭侯に封じました。
黄武元年(222)魏が水軍で洞口に大挙して出てくると、孫権は呂範に諸将を率いて防がせました。敵が軽舟でしばしば略奪すると、全琮は常に甲冑を着け武器を手にして休みなく見張り、敵数千が川の中ほどに出てくるとこれを破って将軍尹盧を斬りました。綏南将軍となり銭唐侯に進封され、黄武4年(225)仮節を受けて九江太守を兼ねました。黄武7年(228)孫権は皖に至り、彼を輔国将軍陸遜とともに曹休を討たせ、二人は石亭で曹休を破りました。丹楊・呉・会稽の山民が再び盗賊となると、孫権は三郡の険しい土地を分けて東安郡を置き全琮を太守としましたが、彼は賞罰を明らかにし投降する者を招き入れて、数年のうちに一万余人を得ました。『江表伝』によれば、帰る途中に銭唐に立ち寄って先祖の墓を祀り、郷里の人や旧友、親族を呼んで財物を分け与えたので、故郷では栄誉としました。
黄龍元年(229)全琮は衛将軍・左護軍・徐州牧となり、公主を妻に迎えました。妃嬪伝は、孫権の長女孫魯班がはじめ周瑜の子周循に嫁ぎ、のちに全琮に嫁いだと記します。『呉書』によれば、全琮ははじめ将であったときは勇敢で決断力があり、敵前で身を顧みませんでしたが、都督となってからは威厳を養い慎重になり、常に計略に任せて小さな利を求めませんでした。『江表伝』によれば、孫権が子の孫登を出征させたとき群臣はあえて諫めませんでしたが、全琮がひそかに上表して、古来太子が単独で征伐に出たことはないと言うと、孫権はすぐに孫登を呼び戻し、人々は彼に大臣の節があると言いました。
嘉禾2年(233)歩騎五万で六安を攻めたとき、民が散り散りに逃げたので諸将は兵を分けて捕らえようとしましたが、全琮は「危うさに乗じて僥倖を望むのは国家の大法ではない」と言い、功をむさぼって国に背くことはしないとしました。翌年孫権が新城へ向かうとき、朱然とともに斧鉞を授かって左右の督となりました。赤烏4年(241)淮南を攻めて芍陂の堤を切り、安城の倉庫を焼いて民を収め、魏将王凌と芍陂で戦いました。顧譚伝によれば、大都督全琮の軍が不利になったとき、張休・顧承が敵を食い止め、全琮の子の全緒・全端が続いて攻めて王凌が退きましたが、功を定める際に食い止めた功をより大きく評価したため、全寄父子が恨んで顧譚を陥れました。
赤烏9年(246)右大司馬・左軍師となりました。人柄は恭しく従順で、孫権の顔色をうかがって諫言をうまく申し上げ、言葉が激しく逆らうことは一度もありませんでした。孫権が珠崖と夷州を討とうとしたとき、まず彼に問うと、全琮は風土と疫病を挙げて止めましたが孫権は聞き入れず、兵の十中八九が病で死ぬと深く後悔しました。重用されて一族の子弟はみな高位につき、千金を賜りましたが、彼はなお身を低くして士人に接し、顔に驕りの色がありませんでした。
太子孫和と魯王孫覇が対立していたころ、陸遜伝は、全琮の子全寄が魯王についてそそのかしたので、陸遜が書を送って「全寄をかばえばついには家に禍をもたらす」と言いましたが、全琮が受け入れなかったため二人の間に溝ができたと記します。孫和伝裴松之注に引かれた『通語』は、大司馬全琮を魯王についた大臣の一人に挙げています。全琮伝は彼が赤烏12年(249)に死んだと記し、呉主伝は赤烏10年(247)正月に死んだと記します。子の全懌が後を継ぎましたが、のちに寿春の諸葛誕を救いに行ってから真っ先に魏に降り、『呉書』によれば全寄は魯王についた罪で死を賜りました。陳寿は「全琮は当世の才があり、その時代に貴ばれ重んじられたが、邪な子を取り締まれず、そしりを受けて名を汚した」と評しました。
全琮有當世之才,貴重於時,然不檢姦子,獲譏毀名云琮既親重,宗族子弟並蒙寵貴,賜累千金,然猶謙虛接士,貌無驕色『三国演義』 第96回
演義で全琮は第96回に一度だけ登場します。魏の曹休が鄱陽太守周魴の偽りの降伏に欺かれて皖城へ下ってくると、孫権は陸遜を輔国大将軍・平北都元帥とし、自ら鞭を執って授けます。陸遜は左右の都督として奮威将軍朱桓と綏南将軍全琮を推挙し、孫権は朱桓を左都督、全琮を右都督とします。朱桓は、曹休が敗れれば夾石と掛車の二つの道から逃げるはずだから「全子璜とともにそれぞれ一軍を率い、険しい山道を木と石でふさげば曹休を生け捕りにできる」と献策しますが、陸遜は良策ではないとして採りません。
石亭で曹休が張普と薛喬にそれぞれ二万を与えて南北に伏せておくと、陸遜は朱桓と全琮にそれぞれ三万を与え、石亭山を回って曹休の陣営の背後に出て火を放たせます。その夜全琮は魏軍の陣営の背後に至って薛喬の軍と出くわして大いに戦い、薛喬が敗走すると朱桓とともに二手から攻め込んで曹休の陣営を混乱させます。戦いが終わり、徐盛・朱桓・全琮が鹵獲した車や軍需品、降った兵数万を率いて戻ると、陸遜は大いに喜びます。演義で全琮が登場するのはこの戦いだけです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 全柔 · 妻 孫魯班(孫権の娘) · 子 全緒 · 全寄 · 全呉 · 全懌
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
右大司馬全琮である。
米を分け与え、空の船で帰ったことがある。
父上もお咎めにはならなかった。
…飢える者を前に米を売ることはできなんだ。
晩年のことは恥ずかしく思う。
施したものは返ってくるものだ。
言葉でも肩入れする側を誤ったか。
慕う心で勝ったのだ。
派閥を割った報いを受ける。
若い頃のほうがよかった。