諸葛瑾

字 子瑜 · 174年 ~ 241年 · 徐州琅邪国陽都県 · 孫堅配下

諸葛瑾の肖像

弟諸葛亮と公私を分かち、孫権の怒りをそれとなく解いた呉の大将軍

能力値

統率75武力34知力81政治89魅力90

カード

攻撃力 3体力 4コスト 3価値 11職分 能吏
護衛 コスト 1
味方1体に防壁2と挑発、撤退するまで
伏計 コスト 2
秘密 · 敵が出陣するとき · その武将に2ダメージ

正史

出典 · 『三国志』呉書 諸葛瑾伝と裴松之注の『呉書』 · 『江表伝』 · 『呉録』 · 裴松之の言葉 · 『三国志』呉書 呉主伝 · 諸葛恪伝 · 歩騭伝 · 陸遜伝 · 蜀書 諸葛亮伝 · 魏書 明帝紀 · 『世説新語』品藻篇

諸葛瑾は字を子瑜といい、琅邪郡陽都県の人です。裴松之注に引く『呉書』は、家はもともと琅邪諸県の葛氏でしたが、陽都に移ってくると、そこに先に住んでいた葛氏と区別するために人々が諸葛と呼び、それが姓になったと記します。『呉書』によれば、彼は若い頃都で学んで『毛詩』 · 『尚書』 · 『左氏春秋』を修め、母の喪を至孝をもって執り行い、継母にも恭しく仕えました。

漢末の乱を避けて江東に来ました。ちょうど孫策が死んだ頃、孫権の姉の夫で曲阿の人弘咨が彼を見て非凡と認め、孫権に推挙し、彼は魯粛らとともに賓客として遇されました。のちに孫権の長史となり、中司馬に移りました。建安20年(215)、孫権は彼を蜀に使者として送り劉備と誼を結ばせましたが、彼は弟の諸葛亮と公の席でだけ会い、退出してからは私的に会いませんでした。『江表伝』によれば、これより先に諸葛亮が呉に来たとき、孫権が彼に弟を引き留めるよう言うと、彼は「弟の亮はすでに人に身を委ね、義として二心はありません。弟が留まらないのは、私が向こうへ行かないのと同じことです」と答えたといいます。

彼は孫権と語って諫めるとき、決して激しく争わず、それとなく意をほのめかして要点だけを述べました。意が合わなければその件を置いて別の話に移り、ゆっくりとまた事にかこつけて糸口を探し、似たものを挙げて比べたので、孫権の心はしばしば解けました。呉郡太守朱治は孫権を推挙した将でしたが、孫権は彼に不満なことがあったものの、平素敬っていたので自ら問いただすこともできず、怒りを晴らせずにいました。諸葛瑾はその理由を察しましたが、あからさまに口にすることはできず、孫権の前で物事の道理を広く論じる文を書き、自分の心で推し量ってみせました。その文を見た孫権は喜んで笑い、「わが心は解けた」と言いました。また孫権が校尉殷模を憎み、罪が測り知れないほどになったとき、群臣が彼のために言えば言うほど孫権は怒りましたが、諸葛瑾だけは黙っていました。孫権がなぜ一人だけ何も言わないのかと尋ねると、彼は席を避け、殷模とともに郷里が崩れて流れてきたのに、互いに戒め合えず殷模が罪に陥ったのだから、過ちを詫びるのに精一杯で、とても口添えなどできないと言いました。孫権はこれを聞いて悲しみ、「君のために特別に赦そう」と言いました。

関羽を討ったとき(219)に従軍して宣城侯に封じられ、綏南将軍として呂蒙に代わって南郡太守を務め、公安にとどまりました。劉備が東へ呉を討ちに来ると(221)、呉王孫権は和睦を求め、諸葛瑾は劉備に書を送って「関羽との親しさを先帝と比べればいかがでしょうか。荊州の大きさを天下全体と比べればいかがでしょうか。どちらも仇として憎むべきだとすれば、どちらが先でどちらが後でしょうか」と問いました。裴松之は、この書はあまりに粗雑で劉備を翻意させられなかったと評しました。このとき諸葛瑾が別に親しい者を遣わして劉備と通じているという噂が流れると、孫権は「私と子瑜には死生によっても変わらない誓いがある。子瑜が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じことだ」と言いました。

黄武元年(222)、左将軍となって公安を守り、節を授けられ、宛陵侯に改封されました。『呉録』によれば、魏の曹真 · 夏侯尚らが江陵の朱然を包囲したとき、彼は大軍で救援しましたが、性格がゆったりとして筋道を重んじ、計画に頼って急な事態に対応する機略がなかったので、戦いが長く決着せず、孫権は彼に不満を抱きました。春の水が増して潘璋らが上流に水上の城を築いた後に彼が浮橋を攻めると、曹真らは退き、『呉録』は大きな功はなかったが、軍を全うして境を守ったことを功としたと記します。『三国志』明帝紀は、黄武5年(226)に彼が襄陽を攻めて司馬懿に破られ、将の張覇を失ったと記します。直言によって流された虞翻のためには、ただ彼だけが何度も弁護しました。

彼は容貌と思慮の深さを備え、当時の人々はその寛大さと高雅さに心服し、孫権も彼を重んじて大事を諮りました。孫権が帝位に就くと(229)大将軍 · 左都護となり、豫州牧を兼ねました。嘉禾5年(236)、陸遜とともに襄陽を攻めたとき、計略が敵に漏れたので急いで退こうと言いましたが、陸遜の策に従い船団を率いて無事に退きました。呂壹が死んだ後、孫権が詔を下して彼をはじめ将たちを責めると、彼は事に応じて答え、言葉は恭しく道理は正しいものでした。『呉書』によれば、当時諸葛瑾は大将軍、弟の諸葛亮は蜀の丞相で、二人の子諸葛恪 · 諸葛融が兵を率い、一族の弟諸葛誕は魏で名を馳せ、一家が三国で高位にあったので、世の人々はこれを栄誉としました。『世説新語』は、このことについて当時の人々が「蜀は龍を、呉は虎を、魏は狗を得た」と言ったと記します。『呉書』は、彼の才略は弟に及ばなかったが徳行はいっそう純粋で、妻が死んだ後は再び娶らなかったと記します。

長男の諸葛恪は名声が当代に高く、孫権も大いに目をかけましたが、諸葛瑾はいつも彼を憂い、家を保つ子ではないと心配していました。諸葛恪伝によれば、嘉禾3年(234)に諸葛恪が丹楊の山越を引き出すと名乗り出ると、諸葛瑾は「恪が我が家を大いに興さなければ、我が一族を大いに滅ぼすだろう」と嘆きました。また孫権が大宴会で顔の長い諸葛瑾をからかい、驢馬の顔に「諸葛子瑜」と書いて付けさせると、子の諸葛恪が筆を請うてその下に「之驢」と書き足したので満座が笑い、孫権はその驢馬を諸葛恪に与えました。子のなかった諸葛亮が、諸葛瑾の次男諸葛喬を跡継ぎにしたいと願うと、諸葛瑾は孫権に申し上げて彼を西へ送りました。

赤烏4年(241)、六十八歳で死去し、白木の棺に普段の服で納め、葬儀は質素に行うよう遺言しました。諸葛恪はすでに自ら侯に封じられていたので、弟の諸葛融が爵位を継ぎ、その兵を率いて公安にとどまりました。建興2年(253)に諸葛恪が殺されると、諸葛融も毒を仰いで死に、その三人の子も皆殺されました。諸葛亮伝は、諸葛恪の子孫がすべて絶えたので、諸葛喬の子諸葛攀を改めて諸葛瑾の跡継ぎとしたと記します。

陳寿は「諸葛瑾と歩騭はともに徳と度量、規範によって当代に器を認められた」と評しました。潁川の周昭は彼について、「望めば厳然としているが、近づけば温かく、その言葉を聞けば厳しい」という『論語』の言葉を身をもって示したと称えました。

諸葛瑾、歩騭並以德度規檢見器當世
諸葛瑾と歩騭はともに徳と度量、規範によって当代に器を認められた『三国志』呉書 諸葛瑾伝 評
孤與子瑜有死生不易之誓,子瑜之不負孤,猶孤之不負子瑜也
私と子瑜には死生によっても変わらない誓いがある。子瑜が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じことだ『三国志』呉書 諸葛瑾伝に載る孫権の言葉

三国志演義

『三国演義』 第29~108回

演義で諸葛瑾は第29回に初めて登場します。魯粛が孫権に推挙した人物で、演義は彼が博学で母に至孝を尽くし、琅邪南陽の人であると紹介します。彼は孫権に、袁紹と通じず、ひとまず曹操に従って機を見て事を図るよう勧めます。第43回では、江東に来た弟の諸葛亮と中門で出くわし、なぜ先に訪ねてこなかったのかと問い、諸葛亮は公の用務を終える前に私事はできないと答えます。第44回では周瑜に「降る者は安んじやすく、戦う者は保ちがたい」と言い、周瑜の頼みを受けて弟に伯夷 · 叔斉を引いてともに呉に仕えようと説きますが、かえってともに劉備に仕えようと言われて戻ってきます。

第66回では、張昭の策に従って孫権が彼の家族を偽って捕らえた後、彼を西川へ送って荊州を返すよう求めさせます。劉備は三郡を先に返すという書状を書いてやりますが、関羽が刀を手にして拒み、彼は恥をかいただけで戻ってきます。第73回では孫権の子と関羽の娘の縁組を申し込みに行って「虎の娘をどうして犬の子にやれようか」と叱りつけられ、第76回では麦城に追い込まれた関羽に降伏を勧めて関平に斬られかけ、追い返されます。

第81~82回で劉備が大軍を率いて来ると、自ら使者を買って出て白帝城へ行き、関羽の仇は小義であり、漢室を奪った曹丕を討つのが大義であるとして和睦を勧めますが、劉備は首を斬るぞと言って彼を追い返します。張昭が彼は蜀へ寝返るつもりだと言うと、孫権は「私と子瑜には生死によっても変わらない誓いがある」と言って信じ、果たして彼は戻ってきます。第85回では曹丕の三路からの侵攻に南郡で曹真を防ぎ、第98回では孫権が彼の長い顔をからかって驢馬の顔に「諸葛子瑜」と書かせると、六歳の子諸葛恪が「之驢」と書き足す逸話が紹介されます。第103回では魏の奇襲に大敗して陸遜に兵を退こうと言いますが、豆を植えて平然としている陸遜の策に従って船を率いて退きます。第108回で諸葛恪が死ぬとき、演義は生前の諸葛瑾が息子について「家を保つ子ではない」と嘆いていたと付け加えます。演義で諸葛瑾が自ら登場するのは第103回までです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 200孫策が死んだ頃、弘咨の推挙で魯粛らとともに孫権の賓客となりました。江東に来た北の人
  2. 215蜀に使者として赴き、弟の諸葛亮とは公の席でだけ会いました。
  3. 219関羽を討つときに従軍して宣城侯となり、呂蒙に代わって南郡太守として公安にとどまりました。
  4. 221呉を討ちに来た劉備に、関羽と天下のどちらが先かと問う書を送りました。
  5. 222左将軍となって公安を守り、宛陵侯となりました。
  6. 226襄陽を攻めましたが司馬懿に破られ、将の張覇を失いました。
  7. 229孫権が帝位に就くと大将軍 · 左都護となり、豫州牧を兼ねました。江東を支えた二文臣
  8. 234山越を討つと名乗り出た諸葛恪について、一族を滅ぼすのではないかと嘆きました。諸葛家の二筋
  9. 236陸遜と襄陽を攻めた際に計略が漏れると、陸遜の策に従って船を率いて退きました。
  10. 241六十八歳で死去し、白木の棺に普段の服で質素に葬るよう言い残しました。
  11. 253諸葛恪が殺されると、爵位を継いだ諸葛融も死に、家は絶えました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

弟 諸葛亮 · 子 諸葛恪 · 諸葛喬(諸葛亮の跡を継ぐ) · 諸葛融

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

呉の臣として参った。

口を開くとき

呉の臣、諸葛子瑜だ。私情はない。

言い返すとき

弟とは公私を分ける男だ。

言葉に詰まって

…顔が長いせいか。

言葉に詰まって

兄弟でも立場は違うものだ。

舌戦に勝って

公は公、私は私だ。

舌戦に敗れて

…弟に合わせる顔がない。

勝ったあと

江東の務めは果たした。

敗れたあと

…弟ならどう打ったであろうか。

倒れるとき

弟とはついに同じ側に立てなかった。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普