滕胤

字 承嗣 · 不詳 ~ 256年 · 青州北海国劇県 · 孫堅配下

滕胤の肖像

孫権の遺詔を受けたが、孫綝に三族を滅ぼされた呉の大臣

能力値

統率29武力41知力71政治76魅力64

カード

攻撃力 3体力 2コスト 2価値 7職分 能吏
募兵 コスト 1
召喚物義兵を2体呼ぶ(1/1)

正史

出典 · 『三国志』呉書滕胤伝 · 諸葛恪伝 · 孫峻伝 · 孫綝伝 · 孫亮伝 · 孫休伝 · 呂範伝 · 宗室伝 孫壱 · 呉夫人伝 · 裴松之注の『呉書』 · 『呉録』 · 『呉歴』 · 殷基『通語』

滕胤は字を承嗣といい、北海国劇県の人です。伯父の滕耽と父の滕胄は劉繇と同郷で家同士の付き合いがあり、世が乱れると江を渡って劉繇を頼りました。孫権が車騎将軍になると滕耽を右司馬としましたが、寛厚だと称されながら早く亡くなり、跡を継ぐ子はいませんでした。滕胄は文章に長けていたので孫権は賓客の礼で遇し、軍事と国家の文書や上奏を常に彼に任せて添削させ整えさせましたが、彼もまた長くは生きませんでした。孫権は呉王になると旧恩を顧みて、滕胤を都亭侯に封じました。

滕胤は若いころから節操があり、容姿も立派でした。裴松之注に引く『呉書』は、彼が十二歳で孤児となりながら身を修め、正月の朝賀のたびに彼を見た大臣たちが感嘆したと記します。二十歳ごろに公主を妻に迎え、三十歳で初めて仕官して丹楊太守となり、呉郡・会稽へ移って赴く先々で称賛されました。『呉書』は、彼が上表して正したことが多く、訴えを聴くときは言葉を察し顔色を見て事情と道理を尽くそうとし、無実を訴え苦しみを語る者があれば向き合って涙を流したと記します。諸葛恪伝によれば、孫権が諸葛恪に「そなたは滕胤と比べてどうか」と問うと、諸葛恪は「階を昇り降りし履を履く作法では臣は滕胤に及ばず、算木を回し計略をめぐらすことでは滕胤は臣に及びません」と答えました。

孫和伝の裴松之注に引く殷基の『通語』は、太子孫和と魯王孫覇をめぐって朝廷が二つに割れたとき、会稽太守滕胤が陸遜・諸葛恪・顧譚・朱拠・施績・丁密らとともに礼を奉じて太子に仕える側にいたと記します。

太元元年(251)孫権が病むと、滕胤は都に来てそのまま太常となり、諸葛恪らとともに遺詔を受けて政事を補佐することになりました。諸葛恪伝は、孫権が病が重くなると諸葛恪・孫弘と太常滕胤・将軍呂拠・侍中孫峻を呼んで後事を託したと記します。翌年孫権が崩じて孫亮が即位すると衛将軍を加えられ、孫亮伝は彼を衛将軍・領尚書事としたと記します。

建興2年(253)、諸葛恪が全軍を挙げて魏を攻めようとすると、滕胤は「つらい労役の後に兵を起こせば、民は疲れて力は尽き、遠方の君主は備えております。城を攻めて勝てなければ先の功を失い後の責めを招くことになりますから、甲を収めて兵を休ませ、隙をうかがって動くに越したことはありません」と諫めました。諸葛恪は聞き入れず、滕胤を都下督として都の留守を任せました。滕胤は昼は賓客に応対し、夜は文書を見て、ときに明け方まで眠りませんでした。

その年の冬、軍を引いて戻った諸葛恪は孫峻に殺されました。諸葛恪伝は、諸葛恪が宮門に至って腹が痛いと引き返そうとしたとき、孫峻の謀を知らなかった滕胤が「お戻りになってからまだお目通りしておらず、今主上が酒を賜ってお招きなのに門まで来られたのですから、努めてお入りになるべきです」と言ったと記します。裴松之注に引く『呉歴』はこれと異なり、諸葛恪が張約・朱恩の密書を滕胤に見せると滕胤は帰るよう勧めたが、諸葛恪が「孫峻のような小僧に何ができようか」と言って入ったと記し、孫盛は二人が親しかったのだから『呉歴』のほうがよいと見ました。孫峻が丞相となると、滕胤は諸葛恪の子諸葛竦の岳父であるとして官を退こうとしました。孫峻が「鯀と禹の罪は互いに及ばないのに、滕侯はなぜそうなさるのか」と言うと、二人は内心では打ち解けませんでしたが表向きは互いに包容し合い、孫峻は彼の爵位を高密侯に進めて以前どおりともに政務を執りました。『呉録』は、臣下たちが滕胤を司徒に推そうとしたが、孫峻におもねる者が、名望の高い彼を亜公に置くことはできないと言って阻んだと記します。

五鳳2年(255)孫峻が広陵に城を築こうとすると、臣下たちは築けないと知りながら恐れて誰も言い出せませんでしたが、滕胤だけが諫めました。孫峻は聞き入れず、工事は結局成りませんでした。太平元年(256)孫峻が文欽の言に従って呂拠・文欽らを江都から淮水・泗水へ送るとき、滕胤は孫峻とともに石頭まで出て見送りました。九月に孫峻が死に従弟の孫綝が後を継ぐと、呂拠は大いに恐れ、諸将と連名で滕胤を丞相に推しました。孫綝は滕胤を大司馬とし、呂岱に代わって武昌に駐屯させることにしました。呂拠が兵を返しながら滕胤に人を送り、ともに孫綝を廃そうと持ちかけると、孫綝は華融・丁晏を送り、滕胤に呂拠を捕らえて速やかに出立するよう告げさせました。滕胤は禍が及んだと悟って二人を留め置き、兵を集めて自らを守り、孫綝は滕胤が謀反したと上表して将軍劉丞を送り、彼を包囲させました。滕胤は偽の詔を書けという強要に従わなかった華融らを殺しました。

それでも滕胤は顔色を変えず、ふだんどおり談笑しました。ある者が、兵を率いて蒼龍門へ行けば将兵は公が出てきたのを見て孫綝を捨てて来るだろうと勧めましたが、夜はすでに更けており、滕胤は呂拠との約束を頼みとし、宮に向けて兵を挙げることもためらいました。彼は部曲に呂侯の軍が近くの道まで来ていると告げ、皆が彼のために死ぬと決めて離散する者はいませんでした。その夜は大風が吹き、夜が明けても呂拠は来ませんでした。孫綝の兵が大挙して集まり、滕胤と将兵数十人を殺して三族を滅ぼしました。呂範伝は、呂拠が魏に降るよう勧められると「叛臣となるのは恥だ」と言って自害したと記します。呉夫人伝は、呉纂の妻が滕胤の娘であったためともに害されたとし、宗室伝は、夏口督孫壱は妹婿が滕胤と呂拠であったため、禍が自分に及ぶのを恐れて滕胤の妻を連れて魏へ逃げたと記します。

永安元年(258)孫休は孫綝を捕らえたとき、交州へ流してほしいと乞う彼に「そなたはなぜ滕胤と呂拠を流さなかったのか」と叱りつけました。続いて詔を下し、諸葛恪・滕胤・呂拠が罪なくして孫峻兄弟に害されたのは痛ましいとして、皆を改めて葬って祭祀を行わせ、その件で遠くへ流された者たちをすべて呼び戻しました。陳寿は「滕胤は士の操を努めて修め規矩に従ったが、孫峻の時にもなおその貴い地位を保ったのは、必ず危うくなる道理である」と評しました。裴松之は、孫綝と滕胤の間にもともと確執はなかったのだから、その意に従って武昌へ出ていれば禍を免れたであろうと悲しみました。

滕胤厲修士操,遵蹈規矩,而孫峻之時猶保其貴,必危之理也
滕胤は士の操を努めて修め規矩に従ったが、孫峻の時にもなおその貴い地位を保ったのは、必ず危うくなる道理である『三国志』呉書 諸葛滕二孫濮陽伝 評
登階躡履,臣不如胤;回籌轉策,胤不如臣
階を昇り降りし履を履く作法では臣は滕胤に及ばず、算木を回し計略をめぐらすことでは滕胤は臣に及びません『三国志』呉書 諸葛恪伝

三国志演義

『三国演義』 第108回 · 第111回 · 第113回

演義で滕胤は第108回に太常卿として初めて登場します。新城で敗れて戻った諸葛恪が病を口実に朝会に出ず、腹心の張約・朱恩に御林軍を任せると、御林軍を奪われた孫峻は大いに怒ります。演義はこのとき、もともと諸葛恪と確執のあった滕胤が隙をついて孫峻に「諸葛恪は権勢をほしいままにして公卿を殺し、臣下らしからぬ心があります。公は宗室であられるのに、なぜ早く手を打たないのですか」とけしかけたと描きます。二人は呉主孫亮のもとに入って密かに奏上し、滕胤は「宴を開いて諸葛恪を招き、壁に張った帳の中に武士を伏せておき、杯を投げるのを合図にその場で殺そう」という策を出します。

宴の日、さまざまな凶兆に驚いた諸葛恪が張約の言を聞いて車を返すと、孫峻と滕胤が馬で車の前に来て「太傅はなぜお帰りになるのですか」と問います。諸葛恪が腹が痛いと言うと、滕胤は「朝廷は太傅が軍から戻られてもお顔を合わせられなかったので、わざわざ宴を開いてお招きし、大事も議しようとしております。お体が優れずとも、努めてお越しになるべきです」となだめ、ともに宮中へ入ります。酒が数巡したのち、孫峻が刀を手に「天子の詔により逆賊を斬る」と叫んで諸葛恪を斬ります。

第111回で孫峻が病で死に、従弟の孫綝が政を補佐しますが、演義は、孫綝が凶暴で大司馬滕胤と将軍呂拠・王惇らを殺し、権柄をすべて握ったと一行で記します。第113回で孫休が宴席で孫綝を捕らえると、孫綝は交州へ送ってほしいと乞い、孫休は「お前はなぜ滕胤・呂拠・王惇を流さなかったのか」と叱りつけて斬ります。続いて孫休は、害された諸葛恪・滕胤・呂拠・王惇らの墓を改めて築き、その忠節を顕彰します。演義で滕胤が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 209孫権が車騎将軍になると、劉繇を頼っていた一族から伯父の滕耽がその右司馬となりました。
  2. 221孫権が呉王になると、旧恩を顧みて滕胤を都亭侯に封じました。
  3. 251会稽太守を務めていましたが、孫権が病むと都に来て太常となり、遺詔を受けました。
  4. 252孫権が崩じて孫亮が即位すると衛将軍となり、尚書の事を司りました。
  5. 253諸葛恪の魏遠征を諫めましたが聞き入れられず、都下督として都の留守を任されました。
  6. 253孫峻が諸葛恪を殺して朝廷を握ると官を退こうとしましたが、高密侯に進んで孫峻とともに政務を執りました。
  7. 255孫峻が広陵に城を築こうとすると、朝廷でただ一人諫めました。
  8. 256孫峻が死んで孫綝が朝廷を継ぐと、孫綝は彼を大司馬として武昌へ送ろうとしました。
  9. 256呂拠とともに孫綝を追い落とそうとしましたが、包囲されて殺され、三族を滅ぼされました。
  10. 258孫休は孫綝を斬ったのち詔を下し、彼を改めて葬って祭祀を行わせました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 滕胄 · 伯父 滕耽 · 婿 諸葛竦(諸葛恪の子) · 呉纂

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

太常、滕胤である。

口を開くとき

法度を守るのが士の道。言葉で競おうではないか。

言い返すとき

民は疲れておる。まずその声を聞かれよ。

言葉に詰まって

…夜は更けたが、まだ待っておる。

言葉に詰まって

階を昇る作法だけは誰にも負けぬ。

舌戦に勝って

甲を収めて隙をうかがうのが勝つ道だ。

舌戦に敗れて

風が吹き、夜が明けるまで来なんだか。

勝ったあと

兵を惜しんだおかげだ。

敗れたあと

宮に向けて刃を取ることはできなんだ。

倒れるとき

呂侯はついに来なんだか。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普