字 元宗 · 242年 ~ 284年 · 揚州呉郡富春県 · 孫堅配下
残虐な暴政で呉を破滅させた三国時代最後の皇帝
出典 · 『三国志』呉書三嗣主伝(孫皓伝) · 妃嬪伝 · 濮陽興伝 · 陸凱伝 · 陸抗伝 · 王蕃伝 · 賀邵伝と裴松之注の『江表伝』 · 『呉録』 · 『晋書』武帝紀 · 王濬伝 · 王済伝
孫皓は孫権の孫で孫和の子、字は元宗といい、別名を彭祖、別の字を皓宗といいます。母の何姫は丹陽句容の人で騎兵の娘でしたが、孫権が軍営を巡る途中、道端で彼女を見て奇異に思い孫和に与え、男子が生まれると喜んで彭祖と名づけました。建興2年(253)、父の孫和が孫峻によって死を賜り、正室の張氏も後を追って死ぬと、何姫は「皆が後を追って死んだら、誰が子供たちを育てるのか」と言って孫皓と三人の弟を育てました。孫休が即位すると彼は烏程侯に封じられて封国へ赴き、西湖の民景養が彼の人相を見て大いに貴くなると言うと、ひそかに喜びながらも表には出しませんでした。
永安7年(264)に孫休が亡くなったとき、蜀は滅んだばかりで交阯は背いており、国中が恐れていたので、人々は年長の君主を望みました。かつて烏程令として孫皓と親しかった左典軍万彧が、彼は才識が明晰で決断力があり、長沙桓王(孫策)と同類で、学問を好み法度に従うと丞相濮陽興と左将軍張布に何度も説き、二人が孫休の皇后朱氏を説得して23歳の孫皓を迎え立てました。『江表伝』によれば、彼は初め寛大な詔を下して倉を開いて貧しい者を救い、宮女を出して妻のない者と娶せたので、明君と称えられました。しかし志を得ると粗暴で驕慢になり、忌み嫌うことが多く、酒色を好んだので、上下ともに失望しました。彼を立てたことをひそかに後悔していた濮陽興と張布は讒言を受け、その年の11月、広州へ流される途中で殺され、三族を滅ぼされました。
その年の9月、孫皓は朱太后を景皇后に降し、父を文皇帝と追尊し、甘露元年(265)7月には景皇后を迫害して死なせ、孫休の息子のうち年長の二人を殺しました。その年の9月、西陵督歩闡の上表に従って武昌に都を移し、12月には魏が晋に位を譲りました。翌年の大宴会で常侍王蕃が酒に酔って倒れると、疑ってその場で斬らせ、山賊の施但が弟の孫謙を担いで蜂起するとこれを鎮めたのち、12月に建業へ戻りました。宝鼎2年(267)には顕明宮を大規模に造営しましたが、『江表伝』によれば二千石以下の官吏が自ら山に入って伐採を監督し、費用は億万を数え、陸凱が強く諫めても聞き入れませんでした。
建衡3年(271)正月、彼は母や妻子、後宮数千を率いて華里へ出かけましたが、東観令華覈らが強く諫めたので引き返しました。『江表伝』によれば、彼は「呉の天子が上る」という寿春の童謡を聞いて天命だと喜び、「青蓋が洛陽に入る」と言って西へ向かいましたが、大雪で道が崩れ、甲冑の兵百人で車一台を引いて凍え死にそうになり、兵たちが「敵に会ったら矛を逆さに向けよう」と言ったので、ようやく引き返しました。鳳凰元年(272)、西陵督歩闡が晋に降ると陸抗がこれを包囲して打ち破り、この年、丞相万彧が叱責を受けて憂いのうちに亡くなりました。『江表伝』は、華里でひそかに語った言葉が漏れて恨みを抱いた孫皓が毒酒を与え、万彧が自ら命を絶ったと記します。
孫皓は宴のたびに臣下を皆酔わせ、酒を与えない黄門郎十人を立てて過ちを見張らせました。宴が終わると彼らが目つきの誤りや失言を余さず報告し、大きなものは重い刑罰で、小さなものも罪として処断しました。水を引き込んだ宮殿で意にかなわない宮人を殺して流し、人の顔の皮を剥いだり目をえぐったりもしました。寵愛する妾の手の者を法で裁いた司市中郎将陳声は焼いた鋸で首を斬られ、天冊元年(275)には口がきけなくなった中書令賀邵を仮病と疑い、千回近く鞭打った末に殺しました。瑞兆が現れたという報告が相次ぐたびに年号を改めて大赦を行い、天璽元年(276)には陽羨の国山で封禅を行いました。正史は、このため上下の心が離れ、彼のために尽力する者はいなかったと記します。
天紀3年(279)冬、晋は司馬伷 · 王渾 · 王戎 · 胡奮 · 杜預 · 王濬らを複数の道から送り、呉を攻めました。翌年、王濬と杜預の至るところで城が崩れ、長江を渡って迎え撃った丞相張悌は敗れて死にました。3月、宮中の近臣数百が叩頭して宦官岑昏を殺すよう求めると、孫皓は慌てて従い、陶濬に節を授けて大船で迎え撃たせましたが、出発するはずの夜に兵たちは皆逃げ去りました。孫皓は薛瑩 · 胡沖の策に従い、王濬 · 司馬伷 · 王渾に印綬を差し出して降伏の書を送り、『江表伝』に載る舅の何植に宛てた手紙では「天が呉を滅ぼしたのではなく、私が招いたのだ」と述べました。『晋書』王濬伝によれば、王濬が石頭に入ると、孫皓は白い車と白い馬で肌脱ぎになり、後ろ手に縛られて玉を口に含み、棺を車に載せる亡国の礼を整えて、太子孫瑾ら21人とともに軍門に出頭し、王濬は自ら縛めを解いて棺を焼きました。
彼は一族を率いて太康元年(280)5月に洛陽に着き、武帝は帰命侯の号を与え、田30頃と毎年穀物5千斛などを賜りました。『晋書』王済伝は、武帝と王済が碁を打っていた席で、そばにいた孫皓に、なぜ人の顔の皮を剥ぐのを好んだのかと問うと、「君主に無礼な者を見れば剥いだのです」と答え、碁盤の下に足を伸ばしていた王済を当てこすったと記します。太康5年(284)、彼は洛陽で亡くなり、『呉録』は太康4年12月に42歳で亡くなったと記します。陳寿は、彼が凶悪で頑迷、残虐な行いをほしいままにし、正しく諫める者を殺してへつらう者を登用したのだから、腰と首を斬られて民に謝すべきであったのに、殺さないとの詔に加えて帰命侯の恩寵まで受けたのは、あまりに厚い恩恵であったと評しました。
皓凶頑,肆行殘暴,忠諫者誅,讒諛者進,虐用其民,窮淫極侈,宜腰首分離,以謝百姓天匪亡吳,孤所招也『三国演義』 第113回 · 第120回
演義で孫皓は第113回、孫休が兄の子孫皓を烏程侯に封じたというところで初めて名が出ます。第120回で孫休が亡くなると丞相濮陽興は太子を立てようとしますが、左典軍万彧が太子は幼くて政務を担えないとして孫皓を立てるよう言い、左将軍張布も「才識が明晰で決断力があり、帝王たるにふさわしい」と後押しします。朱太后が卿らで考えて立てよと言うと、濮陽興が彼を迎えて立てます。演義は彼を大帝孫権の太子孫和の子と紹介し、即位後に父を文皇帝と追尊し、母の何氏を太后に尊んだと記します。
しかし彼は日に日に凶暴になって酒色に溺れ、中常侍岑昏を寵愛し、諫めた濮陽興 · 張布を斬って三族を滅ぼし、朝廷を沈黙させます。武昌に留まって揚州の民が物資の供給に苦しむと陸凱が上疏しますが喜ばず、昭明宮を大規模に造営し、術士尚広から「庚子の年に青蓋が洛陽に入る」という占いを聞いて大いに喜びます。蜀のために仇を討つと言ってどこを先に攻めるべきか尋ねながら、徳を修めよと言う華覈を追い出し、陸抗に襄陽をうかがわせたものの、晋は攻められないという彼の上疏に、敵と内通しているとして兵権を奪います。丞相万彧 · 将軍留平 · 大司農楼玄が諫めて死ぬなど、十年余りで忠臣四十人余りを殺し、出入りのたびに鉄騎5万を従えたので、臣下たちは恐れおののきます。
丁奉 · 陸抗が亡くなった後は、宴のたびに臣下を酔わせ、黄門郎十人に過ちを報告させて、背いた者の顔の皮を剥いだり目をえぐったりします。晋の大軍が迫ると、岑昏の策で長江の要害ごとに鉄鎖を張り渡し、鉄錐を打ち込みますが、王濬の筏と松明に破られ、臣下たちが押し入って岑昏を八つ裂きにします。張象が石頭城の門を開くと、孫皓は自ら首を刺そうとしますが、胡沖と薛瑩が「どうして安楽公劉禅に倣わないのですか」と言うと、棺を車に載せ、身を縛って王濬の軍門に降ります。洛陽で司馬炎が「朕はこの席を設けて卿を待つこと久しかった」と言うと、「臣も南方にこの席を設けて陛下をお待ちしておりました」と切り返して司馬炎を笑わせ、人の目をえぐり顔の皮を剥いだ理由を問う賈充には、主君を弑した臣や奸悪で不忠な者に用いた罰だと答えて彼を恥じ入らせます。帰命侯に封じられた彼は、演義の末尾で太康4年に亡くなったと記されます。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
祖父 孫権 · 父 孫和 · 母 何姫 · 妻 滕皇后 · 太子 孫瑾
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
呉の皇帝が来た。
呉の天子だ。ひざまずけ。
朕の前で顔を上げるな。
…朕に向かって、よくも。
誰かこやつを引きずり出さぬか。
逆らう者は生き残れぬ。
…朕もその席を用意しておったのだ。
誰が朕に刃向かうか!
…南にも席を設けねばなるまい。
南にもその席を設けて待っておったのだ。