孫休

字 子烈 · 235年 ~ 264年 · 揚州呉郡富春県 · 孫堅配下

孫休の肖像

権臣孫綝を粛清し実権を取り戻したが、国運を救えなかった呉の三代皇帝

能力値

統率57武力39知力78政治75魅力83

カード

攻撃力 3体力 3コスト 2価値 8職分 軍師
離間 コスト 2
敵2体は次の局面行動できない · 2体とも体力−1

正史

出典 · 『三国志』呉書 三嗣主伝(孫休伝 · 孫皓伝) · 孫綝伝 · 濮陽興伝 · 丁奉伝 · 妃嬪伝と裴松之注の『江表伝』 · 『襄陽記』 · 『呉録』

孫休は字を子烈といい、孫権の六男です。母は南陽の人王夫人で、孫和が太子となってその母が尊ばれると、寵愛を受けていたほかの後宮たちとともに宮外へ出され、公安で亡くなりました。孫休は十三歳で中書郎の射慈と郎中の盛沖に学びました。『三国志』妃嬪伝によれば、妻の朱氏は朱拠の娘で、孫休の姉朱公主が産んだ人であり、赤烏の末年に孫権が彼女を孫休の妃に迎えました。

太元2年(252)正月、琅邪王に封じられて虎林に住みました。その年の4月に孫権が死に、弟の孫亮が跡を継いで諸葛恪が政権を握ると、諸葛恪は諸王を長江沿いの軍事の要地に置くまいとして、孫休を丹楊郡に移しました。丹楊太守の李衡がたびたび事を構えて彼を苦しめたので、孫休はほかの郡に移してほしいと上書し、会稽に移りました。そこで数年暮らすうちに、竜に乗って天に昇り、振り返ると尾が見えないという夢を見て、目覚めて不思議に思ったといいます。

太平3年(258)、孫綝が孫亮を廃し、宗正の孫楷と中書郎の董朝を送って孫休を迎えさせました。孫休は初め疑いましたが、二人が孫綝が彼を迎えようとする本意をすべて語ると、一、二日とどまったのちに出発しました。10月に曲阿に着くと、一人の老人が彼の前に進み出て叩頭し、「事が長引けば変事が起こりますから、お急ぎください」と言い、孫休はこれをもっともだとして、その日のうちに布塞亭まで進みました。孫綝の弟孫恩が百官を率いて出迎えると、孫休は三度辞退したすえに玉璽を受け、孫綝が兵千人とともに道ばたで拝礼すると、車から降りて答礼しました。その日のうちに正殿に上って大赦を行い、元号を永安と改めました。孫綝は丞相・荊州牧となり、孫休をそばで助けた長水校尉の張布は輔義将軍・永康侯となりました。かつて自分を苦しめた李衡が自ら獄に入ると、孫休は彼を郡に帰らせて心配しないようにさせました。裴松之注に引く『襄陽記』によれば、李衡は魏へ逃げようとしましたが、妻の習氏が「琅邪王はもともと善を好み名を惜しむ方なので、私怨であなたを殺したりはしないでしょう」と言って自ら罪を請うよう勧めたため、禍を免れました。

しかし孫綝の一門は五人が侯となってみな禁軍を率い、その権勢は君主を傾けるほどでした。孫休は変事を恐れて彼の上奏を恭しく受け入れ、たびたび褒美を与えました。孫綝伝によれば、孫綝が牛肉と酒を献じたのに孫休が受け取らなかったので、それを左将軍張布のもとへ持って行って飲んだ孫綝は、「皇帝はわたしがいなければ立てなかった」と恨み言を言いました。これを聞いた孫休は張布とひそかに謀り、丁奉伝によれば、張布が推挙した丁奉は臘日の集まりに乗じて陛下の兵で斬ろうと言いました。永安元年(258)12月の臘日の集まりに、孫綝は病を口実に来ませんでしたが、使者が十度以上来たのでしぶしぶ参内し、丁奉と張布の目くばせで左右が彼を縛りました。孫綝が交州へ流してほしいと乞うと、孫休は「そなたはなぜ滕胤と呂拠を流さなかったのか」と言って斬らせ、その三族を滅ぼし、孫峻の棺を暴きました。続いて、諸葛恪・滕胤・呂拠は罪なく死んだとして改葬し祀らせました。

その月、孫休は詔を下して「古に国を建てるときには、教え学ぶことを先にした」として、古い制度どおり学官を設けて五経博士を置き、官吏や将の子弟のうち志ある者に学ばせ、毎年試験して褒美を与えるようにしました。永安2年(259)には、官吏や民が長江を上り下りして商売に出かけ、良い田が荒れていくとして、田を広げ税を軽くして農業と養蚕を奨励するよう命じました。永安3年(260)、会稽に孫亮が再び天子になるという噂が流れ、孫亮が巫女に呪詛させたという告発が入ると、彼を候官侯に落として送り出しましたが、孫亮は道中で自ら命を絶ちました。『呉録』は、孫休が彼を毒殺したという説もあると記します。

永安5年(262)、朱氏を皇后に、息子を太子に立て、旧恩のある濮陽興を丞相として軍国の事を、左将軍張布に宮中の事を任せました。孫休は書物に志があり、諸学者の書をすべて読もうとし、雉狩りを好みました。博士祭酒の韋曜・博士の盛沖と学問を講論しようとすると、自分の過ちが露見するのを恐れた張布が言葉を繕って妨げました。孫休は「書を読むことは、人が好まないのが心配なのであって、好んで害になることなどない」と叱りましたが、彼が恐れて疑うのを心配し、結局その意に従って講論をやめました。『呉録』によれば、この年孫休は四人の息子の名と字を世にない文字で付けましたが、裴松之はこれについて「墓の土も乾かぬうちに妻子が皆殺しにされた」と非難しました。

永安6年(263)、交阯の役人呂興らが太守の孫諝を殺して魏に寝返りました。孫諝が先に郡の職人千人余りを建業へ送っていたところへ、孔雀と大きな豚を取り立てに察戦が来たので、また連れて行かれるのを恐れたのです。その年の10月、蜀が魏の侵攻を知らせてくると、大将軍丁奉を寿春へ、留平を南郡へ、孫異らを沔中へ送って蜀を救わせましたが、劉禅が魏に降伏したという知らせが届くと軍を引き揚げました。永安7年(264)7月、孫休は三十歳で死に、景皇帝と諡されました。『江表伝』によれば、病で口がきけなくなると、手で字を書いて丞相の濮陽興を呼び、太子を出てこさせて拝礼させたのち、彼の腕を取り太子を指さして後事を託しました。しかし蜀が滅んだばかりで交阯が背き、国中が恐れていたので、臣下たちは年長の君主を望んで孫和の子孫皓を立て、孫皓は翌年朱太后を追い詰めて死なせ、孫休の息子のうち年長の二人も殺しました。

陳寿は、孫休が旧情と恩義によって濮陽興・張布に任せ、賢才を選んで用いることができなかったのだから、志が良く学問を好んだとしても、乱世を救ううえで何の足しになっただろうかと評しました。また、すでに廃した孫亮に天寿を全うさせなかったのは、兄弟の義が薄かったとも付け加えました。

休以舊愛宿恩,任用興、布,不能拔進良才,改絃易張,雖志善好學,何益救亂乎
旧情と恩義によって濮陽興・張布に任せ、賢才を選んで弦を張り替えることができなかったのだから、志が良く学問を好んだとしても、乱世を救ううえで何の足しになろうか『三国志』呉書 三嗣主伝 評
古者建國,教學爲先,所以道世治性,爲時養器也
古に国を建てるときには教え学ぶことを先にした。それは世を導き性を治め、その時代に役立つ器を育てるためであった『三国志』呉書 孫休伝に載る永安元年の詔

三国志演義

『三国演義』 第113回 · 第117回 · 第119~120回

演義で孫休は第113回に初めて登場します。孫綝は孫亮を廃したのち、宗正の孫楷と中書郎の董朝を虎林に送って琅邪王孫休を迎えさせますが、演義は彼を孫権の六男と紹介し、虎林で竜に乗って天に昇り、尾が見えないという夢を見たと記します。曲阿では姓は干、名は休と自ら名乗る老人が急ぐよう言い、孫休は恐れ多くて御輦に乗れず、小さな車で入り、道ばたの百官に車を降りて答礼します。即位した彼は孫綝を丞相・荊州牧とし、兄の子孫皓を烏程侯に封じますが、孫綝一門の五侯が禁軍を握ると、表向きは恩寵を示しながら内心では警戒します。

12月、孫綝が献じた牛肉と酒を受け取らなかったので、孫綝は張布に恨みを並べ立て、張布がこれを申し上げると孫休はひどく恐れます。孫綝が武昌へ兵と武器を移しているという衛邈・施朔の密告に、張布は老将の丁奉を推挙し、丁奉は臘日に盛大な宴を開くとして孫綝を呼ぼうという策を出します。一晩中大風が吹き、朝にわけもなく転んだ孫綝がしぶしぶ参内すると、孫休は座を降りて迎え、酒が何巡かしたのち宮外で火事だという知らせに孫綝が立ち上がろうとすると、引き止めます。張布が剣を抜いて武士三十人余りとともに上がってきて彼を捕らえ、孫休は交州へ送ってほしいと乞う孫綝に「おまえはなぜ滕胤・呂拠・王惇を流さなかったのか」と言って斬らせます。続いて孫綝の兄弟と一族数百人を斬り、孫峻の墓を暴き、諸葛恪らの墓を建て直してやります。

第113回の終わりでは、蜀から戻った薛珝が、宦官の黄皓が権勢を握って直言が聞こえないと報告すると、「諸葛武侯が生きていれば、どうしてこんなことになっただろうか」と嘆きます。第117回では、諸葛瞻が送った使者の救援要請に「どうして座して見ていられようか」と言って丁奉に兵5万を与え、三方面から蜀を救わせ、第119回では蜀が滅ぶと華覈の言葉に従って陸抗に長江の河口を守らせ、丁奉に川沿いの陣営を率いさせます。第120回で彼は、司馬炎が魏を奪ったという知らせに、必ず呉を攻めてくるだろうと憂えて病に伏し、丞相の濮陽興を呼んで太子を出てこさせて拝礼させたのち、彼の腕を取り太子を指さして息を引き取ります。演義で孫休が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 247十三歳で中書郎の射慈と郎中の盛沖に学びました。
  2. 252琅邪王に封じられましたが、諸葛恪によって丹楊郡に移され、李衡に苦しめられて会稽に移りました。
  3. 258孫綝が孫亮を廃して彼を迎え入れたので、皇帝に即位し、元号を永安と改めました。
  4. 258張布とひそかに謀り、丁奉の策を受け入れて孫綝を除くことを決めました。宴席で取り戻す
  5. 25812月の臘日の集まりで孫綝を縛って斬り、その三族を滅ぼしました。君主が臣を斬る
  6. 258古い制度どおり学官を設け、五経博士を置くよう詔を下しました。
  7. 259田を広げ税を軽くして、農業と養蚕を奨励するよう詔を下しました。
  8. 260孫亮を候官侯に落とし、孫亮は道中で自ら命を絶ちました。
  9. 262濮陽興を丞相とし、張布が妨げると韋曜・盛沖との講論をやめました。
  10. 263交阯が背き、蜀を救うために軍を出しましたが、劉禅降伏の知らせに引き揚げました。
  11. 264三十歳で死に、景皇帝と諡されました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 孫権 · 母 王夫人 · 妻 朱皇后(朱拠の娘) · 子 四人

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

権臣はすでに除いた。

口を開くとき

書物で学んだ手を今日使ってみよう。

言い返すとき

朕を傀儡と思うておるのか?

言葉に詰まって

…権臣の下で耐えていた頃のようだ。

言葉に詰まって

時を待てばよい。

舌戦に勝って

孫綝もこうして捕らえたのだ。

舌戦に敗れて

もっと書を読んでまいろう。

勝ったあと

権臣を除き、国を立てる。

敗れたあと

…国運は戻せぬのか。

倒れるとき

孫綝は斬ったが、国は救えなんだ。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普