字 子明 · 178年頃 ~ 219年頃 · 豫州汝南郡富陂県 · 孫堅配下
血のにじむ努力で学問を修め、天下の関羽を捕らえた立志伝中の名将
出典 · 『三国志』呉書呂蒙伝 · 呉主伝 · 陸遜伝 · 朱然伝 · 甘寧伝と裴松之注の『江表伝』 · 『呉録』
呂蒙は字を子明といい、汝南郡富陂県の人です。幼くして南へ渡り、孫策の将である姉の夫の鄧当に身を寄せました。十五、六歳のころ、山越を討ちに行く鄧当にこっそりついて行き、叱る母に「虎穴に入らなければ、どうして虎子を得られましょう」と言いました。自分を小僧だと侮った役人を斬って逃げたのち自首しましたが、孫策は彼を非凡だと思ってそばに置き、鄧当が死ぬと張昭の推挙でその地位を継いで別部司馬となりました。
孫権が小部隊を統合しようとすると、呂蒙は掛けで赤い衣と脚絆を作って兵に着せて調練し、かえって兵を増やしてもらいました。丹楊を討ったときに功を立てて平北都尉 · 広徳長となりました。建安13年(208)に黄祖を討ったときは先頭に立ち、黄祖の水軍都督陳就の首を自ら斬って横野中郎将となりました。その年、周瑜 · 程普とともに烏林で曹操を破って南郡の曹仁を包囲し、夷陵で包囲された甘寧を救うよう進言して、逃げる敵の馬三百匹を得たのち、偏将軍 · 尋陽令となりました。
周瑜に代わって陸口へ向かう魯粛は、まだ呂蒙を軽く見ていましたが、呂蒙が、関羽は熊や虎のような者だから前もって計略を定めておかねばならないと言って五つの策を描いて見せると、席を移してその背をたたき、彼の才がここまで至っているとは知らなかったと言い、呂蒙の母に拝礼したのち友となりました。裴松之注に引く『江表伝』は、それより前に孫権が呂蒙と蒋欽に、博士になれというのではなく、過去の出来事を広く見渡せというのだと言って『孫子』 · 『六韜』 · 『左伝』 · 『国語』と三史を読むよう勧め、呂蒙が志を固くして学んだので、昔の儒者でもかなわなかったと記しています。『江表伝』で魯粛が「もはや呉下の阿蒙ではない」と言うと、呂蒙は「士たる者、三日離れていれば、目をこすって改めて見なければなりません」と答えました。呂蒙はまた、関羽は長じても学問を好み『左伝』をほとんど暗誦しているが、自らを高くして人を侮ると教えました。
曹操と濡須で対峙したときは、川の入り口を挟んで塢を築くよう勧めました。裴松之注に引く『呉録』では、足を洗って船に乗ればよいと言う諸将に、戦には常に勝つという法はないと言って意を曲げず、曹操はこれを落とせずに退きました。建安19年(214)、曹操が送った廬江太守朱光が皖城で大々的に田を開くと、呂蒙は早く除くべきだと進言し、甘寧を先に立てて自ら太鼓を打ち鳴らし、朝食のころに城を落として廬江太守となりました。廬陵の賊を討つとき、孫権は「猛禽が百羽いても一羽の鶚には及ばない」と言って彼を送り、呂蒙は首領だけを斬って残りは放免しました。
建安20年(215)、孫権が長沙 · 零陵 · 桂陽を収めさせると、二郡は書状を送っただけで従いましたが、零陵太守の郝普は城を守りました。関羽が三郡を争いに出てくると、孫権は急いで戻って魯粛を助けよという書状を送りましたが、呂蒙はこれを隠し、郝普の旧友鄧玄之を送って、劉備は漢中で包囲され、関羽は孫権を防ぐのに手一杯で救援は来られないと信じ込ませました。郝普が出て降ると、呂蒙は孫権の書状を見せて手を打って笑い、郝普は恥じて地に潜りたいほどでした。その年、合肥から退く途中で張遼の襲撃を受けると、凌統とともに決死で孫権を守り、建安21年(216)の冬に曹操が再び濡須に来ると、塢の上に強弩一万を置いて防ぎ、左護軍 · 虎威将軍となりました。
建安22年(217)に魯粛が死ぬと、呂蒙は陸口へ行ってその兵一万余人を引き継ぎました。魯粛らは曹操がまだいる以上、劉備と助け合うべきだと考えていましたが、呂蒙は、関羽は勇猛で人を併呑する心があり、しかも呉の上流にいると見て、関羽を討って長江をすべて手に入れようと孫権にひそかに勧め、表向きは関羽といっそう友好を深めました。
建安24年(219)、関羽が樊城を攻めながらも公安と南郡に兵を多く残すと、呂蒙は、持病を治すという口実で建業に戻れば関羽は残した兵をすべて襄陽に回すだろうから、その隙を突こうと上書しました。孫権は表立って彼を呼び戻し、ひそかに計略を練りました。陸遜伝によれば、呂蒙はまだ名が知られておらず関羽が警戒しないであろう陸遜を、自分の代わりに推挙しました。関羽が果たして兵を少しずつ樊城に移すと、先頭に立った呂蒙は尋陽で精兵を船の中に隠し、白い衣を着た者たちに櫓をこがせて商人に扮し、昼夜兼行で進んで関羽が川辺に置いた見張り台をすべて捕らえ、南郡に至ると士仁と糜芳が降伏しました。
城に入った呂蒙は、関羽と将兵の家族を慰撫し、民家に手を出すなと命じました。配下の汝南の者が民家の笠一つを持ち出して官の鎧を覆うと、呂蒙は同郷の者だからといって法を捨てることはできないとして、涙を流しながら彼を斬り、軍中は道に落ちた物さえ拾わなくなりました。関羽が送った使者を手厚くもてなして家々に安否を尋ねさせると、家族が無事だと聞いた関羽の将兵は戦意を失いました。麦城へ逃げたのち章郷で兵を失った関羽父子は、孫権が送った朱然と潘璋に道を断たれて捕らえられました。
呂蒙は南郡太守となり孱陵侯に封じられましたが、封爵がまだ下される前に病が再発しました。公安にいた孫権は彼を内殿に入れてあらゆる治療を施し、疲れさせるのを恐れて壁に穴を開けて様子をうかがい、少しでも食べると喜びました。病が少しよくなると恩赦まで出しましたが、再び重くなり、呂蒙は42歳で内殿で亡くなりました。彼は賜った金銀財宝をすべて倉に納め、葬儀は質素にするよう言い残しました。朱然伝は、彼が朱然を後を任せる人物として推挙したと記しています。息子の呂覇が爵位を継ぎ、その後は兄の呂琮と、呂琮の弟の呂睦が順に継ぎました。
呂蒙は幼いころ文字を学ばなかったので、大事を上奏するときは口述して書き取らせました。甘寧伝は、彼が母に至孝を尽くしたと記しています。自分の部曲のことを上奏した蔡遺をかえって豫章太守に推挙し、荒々しい甘寧のことも得がたい将だとかばいました。孫権は陸遜に、呂蒙は長じて学問が開け、計略は周瑜に次ぐほどで、関羽を討ったことは魯粛にまさると語りました。陳寿は、呂蒙は勇敢で謀があり、郝普を欺き関羽を捕らえたことが最も優れており、初めは軽はずみでみだりに人を殺したが、ついには己に打ち勝って国士の度量を備えたのだから、どうしてただの武将にすぎないであろうかと評しました。
初雖輕果妄殺,終於克己,有國士之量,豈徒武將而已乎士別三日,即更刮目相待『三国演義』 第38~77回
演義で呂蒙は第38回に、孫権が得た良将たちのうちの汝陽の人として初めて名が挙がります。北平都尉として、黄祖のもとを離れてきた甘寧を孫権に引き合わせ、黄祖を討つときは先鋒となって小舟に飛び降り、自ら櫓をこいで敵船に火を放ち、陳就を刀で斬り捨てます。第49~50回の赤壁では烏林へ行き、甘寧の炎に呼応して曹操を追い、第51回では夷陵に閉じ込められた甘寧を救おうと、凌統に後を任せるよう周瑜に勧めます。第61回では濡須の入り口に塢を築こうと言い、足を洗って船に乗ればよいと言う諸将に、戦に必ず勝つという法はないと反論し、孫権は先を見通していると称賛します。
第66回の単刀会では甘寧と兵を伏せて関羽を討とうとしますが、関羽が魯粛の手をつかんでいるので手を出せません。第67回では皖城を先に攻める策を出し、土山を築こうと言う諸将に、勢いが鋭いうちに攻めたてるべきだと言って、自ら太鼓を打ち鳴らして城を落とします。続く宴で凌統が剣舞をしながら甘寧に近づくと、盾と刀を手に二人の間に入って引き離します。
第75回で呂蒙は、関羽が樊城を攻める隙に荊州を討とうと孫権に勧めますが、川辺ごとに烽火台が立っていると聞いて策に詰まり、病を口実に床に伏します。すると陸遜が訪ねてきて、病を口実に退いて名もない者に地位を譲り、関羽を驕らせる策を教え、呂蒙は建業に戻って陸遜を推挙します。孫権がいとこの孫皎とともに行けと言うと、周瑜と程普の例を挙げて一人に任せるよう求めて大都督となり、水に慣れた兵を白い衣の商人に扮させて櫓をこがせ、精兵を船の中に隠して川を渡ります。烽火台の兵をすべて捕らえ、彼らを先に立てて荊州の城門を開かせたのち、民の物を一つでもみだりに取れば罰すると命じます。大雨の日、同郷の者が民家の笠で官の鎧を覆うと、涙を流しながら斬り、遺体を収めて葬ります。第76回では関羽の将兵の家族に食糧と薬を与え、関羽の使者を手厚くもてなして家族の便りを伝えさせたので、関羽の兵たちは戦意を失います。
第77回で呂蒙は、関羽が麦城の北の小道へ逃げると見越して朱然と潘璋を伏せさせます。関羽が死んだ後、孫権が宴で呂蒙を上座に据えて自ら酒を注ぐと、呂蒙は杯を投げ捨てて孫権につかみかかり、「碧眼の小僧、紫髯の鼠め」と罵ったのち孫権の席に座り、自分は漢寿亭侯関雲長だと叫ぶと、倒れて七つの穴から血を流して死にます。孫権は彼を葬り、南郡太守 · 孱陵侯を贈り、息子の呂覇に爵位を継がせます。演義で呂蒙が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
母、姉の夫 鄧当、子 呂覇 · 呂琮 · 呂睦(順に爵位を継いだ)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
白衣を脱いで参った。
無学と申されるか?三日で変わったのだ。
聞いて学ぶのがわしの才だ。
…もっと書を読んでおくべきであったか。
江を渡ったときもこれほど苦しくはなかった。
士別れて三日、刮目して相待すべしと言う。
…まだ呉下の阿蒙を脱せぬか。
刮目して見ていただかねばな。
…まだまだ読まねばならぬな。
関公…あの目がわしを見ておるのか。