字 安國 · 不詳 ~ 不詳 · 司隷河東郡解県 · 劉備配下
関羽の後を継ぎ諸葛亮に期待されたが、数年で早世した子
出典 · 『三国志』蜀書関羽伝と裴松之注の『蜀記』
関興は字を安国といい、関羽の子です。『三国志』関羽伝の末尾に数行添えられているだけで、生年も没年も伝わりません。関羽伝は関平と関興のどちらが年長であったかも記していません。一族はもと河東解県の人です。
建安24年(219)、関羽と関平が臨沮で死ぬと、関興が関羽の跡を継ぎました。関羽伝によれば、彼は若い頃から評判が良く、丞相諸葛亮が深く目をかけ、二十歳ほどで侍中・中監軍となりましたが、数年で亡くなりました。関興が夷陵の戦いや諸葛亮の北伐に出陣したという記録はどこにもなく、何が原因で死んだのかも記されていません。
史書に残る関興の事績はこれだけです。息子の関統が跡を継いで公主を娶り虎賁中郎将に至りましたが、子のないまま死んだため、関興の庶子関彝が爵位を継ぎました。関羽伝の裴松之注に引く『蜀記』は、龐徳の子龐会が鍾会・鄧艾に従って蜀を攻め、蜀が滅びると関氏の一族をことごとく滅ぼしたと伝えます。
興字安國,少有令問,丞相諸葛亮深器異之弱冠為侍中、中監軍,數歲卒『三国演義』 第74~102回
演義で関興は第74回に関羽の次男として初めて登場します。樊城の戦いの最中にある父の陣を訪ねた関興は、将たちの立てた功を記した文書を携えて成都の漢中王のもとへ向かい、荊州が崩れるときには成都にいます。第78回では父と兄の死に慟哭して劉備の前に出ます。
第81回で白い戦袍に銀の鎧をまとって劉備の前にひれ伏して泣いていた関興は、張苞が授かった先鋒の印を自分によこせと争います。張苞が百歩先の的の赤い点に三度当てると、関興は飛んでいく雁の群れの三羽目を射落とし、二人が矛と刀を手に戦おうとすると、劉備が叱って一つ年上の張苞を兄とし、矢を折って義兄弟の契りを結ばせます。第83回で関興が呉の周平を斬ると、劉備は虎の父に犬の子なしと喜びます。潘璋を追っていた関興は道に迷い、関羽の神像を祀った農家に泊まりますが、真夜中に潘璋が同じ家に入ってきて関羽の霊が現れると、潘璋を斬って心臓を取り出して祭り、青龍偃月刀を取り戻します。続いて劉備の命により、投降してきた糜芳・傅士仁を関羽の霊位の前で切り刻みます。
第91回の最初の出師で関興は帳前左護衛使・龍驤将軍となって張苞とともに諸葛亮に従い、第92回では鳳鳴山で包囲された趙雲を救いに駆けつけて魏の将董禧を斬ります。第94回では羌族の元帥越吉に追われて馬もろとも谷川に落ちたところを関羽の霊に救われ、のちに越吉を一刀のもとに斬ります。第101回では魏延と交代で戦って負けたふりをし、張郃を木門道へ誘い込みます。第102回で諸葛亮が六度目に祁山へ出ようとするとき、関興が病で死んだという知らせが届くと、諸葛亮は声を上げて泣いて倒れ、忠義の人に天は寿命を与えないと嘆きます。演義で関興が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 関羽 · 兄弟 関平 · 子 関統 · 庶子 関彝
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
関家の次男だ!
父上の名に恥じぬよう戦おう。
関家の子は舌も鈍くはないぞ。
…父上ならどうなさったか。
ここで折れるわけにはいかぬ。
青龍刀の刃はまだ鈍っておらぬ。
父上…不肖の身が至りませなんだ。
父上が見ておられます!
…まだ父上には及びませぬ。
父の名に…及ばなかった。