関羽

字 雲長 · 不詳 ~ 219年 · 司隷河東郡解県 · 劉備配下

関羽の肖像

揺るがぬ忠義と万人に敵する武勇で天下を震わせた、蜀漢の武神

能力値

統率96武力97知力75政治63魅力94

カード

攻撃力 7体力 7コスト 5価値 17職分 猛将
青龍偃月 号令
体力が最も低い敵1体を反撃なしで討つ
義絶 絶命
自身を討った敵は2局面停止し、味方全体の攻撃力+1

正史

出典 · 『三国志』蜀書関羽伝 · 先主伝 · 張飛伝 · 諸葛亮伝 · 費詩伝 · 後主伝 · 魏書武帝紀 · 李通伝 · 于禁伝 · 徐晃伝 · 呉書孫堅伝 · 呉主伝 · 魯粛伝 · 呂蒙伝 · 潘璋伝と裴松之注の『傅子』 · 『蜀記』 · 『呉歴』 · 『江表伝』

関羽は字を雲長、もとの字を長生といい、河東郡解県の人です。故郷を離れて涿郡へ逃れましたが、関羽伝はその理由を記していません。劉備が郷里で人を集めると、張飛とともに彼を護衛し、劉備が平原相となると、二人は別部司馬となって部曲を分けて率いました。劉備は二人と同じ寝台で眠り、兄弟のように慈しみましたが、人の多い場では二人は一日中そばに立って仕え、どんな危険も避けませんでした。張飛は数歳年上の関羽に兄として仕えました。

建安4年(199)、劉備が徐州刺史車冑を殺すと、関羽は下邳城を守って太守の事を執りました。翌年、曹操が自ら攻めてくると劉備は袁紹のもとへ逃れ、曹操は関羽を捕らえて偏将軍とし、厚く遇しました。袁紹が顔良を遣わして白馬を攻めると、曹操は張遼と関羽を先鋒に立て、関羽ははるかに顔良の旗と麾蓋を望み見るや馬を馳せ、万の軍勢の中で彼を刺して首を斬り、戻ってきました。白馬の包囲が解けると、曹操は関羽を漢寿亭侯に封じました。曹操は早くから関羽に長く留まる気がないことを見抜いており、張遼に本心を探らせましたが、関羽は「曹公が私を厚く遇してくださっていることはよく分かっている。しかし劉将軍の厚い恩を受け、ともに死ぬと誓ったのだから、裏切ることはできない。功を立てて報いてから去る」と答えました。裴松之注の『傅子』は、曹操がこの言葉を聞いて天下の義士だと言ったと伝えます。顔良を斬った後、曹操はさらに褒美を与えましたが、関羽は受けたものをすべて封じて残し、書を奉って別れを告げてから袁紹の陣中の劉備のもとへ帰り、曹操は追おうとする左右を「それぞれ自分の主のためにしているのだ」と止めました。

関羽は劉備に従って劉表に身を寄せました。建安13年(208)、曹操が荊州を取ると、関羽は船数百艘を率いて江陵へ向かう途中、漢津で追われていた劉備と出会い、ともに夏口に至りました。赤壁の戦いの後、江陵の曹仁を包囲したときには北の道を断ち、劉備が江南の諸郡を収めると、襄陽太守・盪寇将軍となって江北に駐屯しました。建安16年(211)に劉備が益州へ入ると諸葛亮とともに荊州を守り、建安19年(214)に劉備が益州を平定すると荊州の事を一手に任されました。馬超が降ってきたと聞いて関羽が彼を誰に比べられるかと尋ねると、諸葛亮は関羽が人に後れを取るのを嫌うことを知っていて、「益徳と肩を並べて先を争うほどではあるが、髯殿の抜きん出たところには及ばない」と答え、関羽は大いに喜んでその手紙を客人たちに見せました。

建安20年(215)、孫権が荊州の三郡を求めて遣わした役人を関羽がすべて追い払うと、孫権は呂蒙を遣わして長沙・零陵・桂陽を奪いました。関羽は三万を率いて益陽で魯粛と対峙しました。双方の兵を百歩離れた所に立たせ、将軍たちだけが刀を一振りずつ帯びて会見した席で、魯粛は土地を返さないことを関羽に問い詰め、ある者が「土地とは徳のある者のものだ」と言うと、魯粛は激しく叱りつけました。関羽は刀を手に立ち上がり、「これは国家の事だ。この者に何が分かろう」と言って彼を退出させました。曹操が漢中に入ると、両国は湘水を境に荊州を分けました。

関羽はかつて流れ矢に左腕を射抜かれて以来、曇りや雨の日には骨がうずきました。医者が毒が骨に入っているので腕を切開して骨を削らねばならないと言うと、すぐに腕を差し出しましたが、ちょうど将たちと飲み食いしていた席だったため、血が盆にあふれても焼いた肉を切り酒を手に、平然と笑い語っていました。関羽伝はこの出来事の年と医者の名を記していません。

建安24年(219)、劉備が漢中王になると関羽は前将軍となって節鉞を授かりましたが、費詩伝は、彼が黄忠と同列に並ぶのを嫌って「大丈夫は決して老兵と同列にはならぬ」と拒み、費詩に諭されて受けたと記します。この年、関羽は樊城の曹仁を攻めました。秋の長雨で漢水があふれ、救援に来た于禁の七軍がすべて水没すると、関羽は大船に乗って攻め、于禁を降し将軍龐徳を斬りました。呉主伝は、このとき捕らえた歩騎が三万であったと記します。梁・郟・陸渾の群盗のうちには遠くから関羽の印綬を受ける者もいるほどで、その威勢は中原を震わせ、曹操は許都を移してその鋭鋒を避けることを議しました。司馬懿と蒋済は、関羽が志を得ることは孫権も望んでいないのだから、江南を割き与えてその背後を突かせようと勧め、曹操はその言葉に従いました。

これより先、関羽は息子の妻に娘をもらいたいという孫権の使者を罵って辱め、孫権を大いに怒らせていました。南郡太守の糜芳と公安の将軍士仁は、関羽が自分たちを軽んじているとして疎んじていましたが、軍需物資を十分に送れず、関羽から「戻ったら処罰する」と言われて恐れていました。呂蒙は病と称して退き、関羽に後方の守備兵を樊城へ移させ、関羽が兵糧が足りないとして湘関の米を勝手に取ると、孫権は兵を動かしました。呂蒙は精兵を船中に隠したまま白衣の者たちに櫓を漕がせて商人に装い、川辺の見張り台をすべて捕らえました。士仁と糜芳が降り、孫権が江陵を取って関羽の兵たちの妻子を手中に収め、徐晃が樊城の包囲を破ると、関羽は退きました。家族が無事だという知らせに兵たちは戦意を失い、関羽は麦城を守ったのち、偽って降伏するふりをして城上に旗と人形を立てて抜け出しましたが、残ったのは十余騎だけでした。その年の12月、潘璋の司馬馬忠が章郷で関羽と息子の関平を捕らえました。関羽伝は、臨沮で二人を斬ったと記します。

裴松之注の『蜀記』は、孫権が関羽を生かしておこうとしたが左右の言葉で殺したと伝えますが、裴松之は捕らえてすぐに斬ったはずだとして信じませんでした。武帝紀は翌年正月に孫権が関羽の首を送ってきたと記し、『呉歴』はその遺体を諸侯の礼で葬ったと伝えます。景耀3年(260)、蜀漢は壮繆侯という諡を贈りました。息子の関興は諸葛亮に目をかけられましたが早くに亡くなり、孫の関統が子のないまま死ぬと、関興の庶子関彝が跡を継ぎました。『蜀記』は、蜀が滅びるとき龐徳の子龐会が関氏の一族をことごとく滅ぼしたと伝えます。陳寿は、関羽と張飛は一万人に匹敵すると称された当代の虎のような臣であり、関羽が曹操に功で報いたことには国士の風があるとしながらも、関羽は剛毅だが自ら誇り、その短所によって敗れたと評しました。張飛伝は、関羽は兵卒にはよく接したが士大夫には驕っていたと記し、『江表伝』は、彼が『左氏伝』を好んでほとんどそらんじていたと伝えます。

羽報效曹公,飛義釋嚴顏,並有國士之風。然羽剛而自矜,飛暴而無恩,以短取敗,理數之常也
関羽は曹操に功で報い、張飛は厳顔を義によって釈した。国士の風がある。しかし関羽は剛毅だが自ら誇り、張飛は荒々しく恩愛に欠け、その短所によって敗れた。これは当然の道理である『三国志』蜀書 関羽伝 評
吾極知曹公待我厚,然吾受劉將軍厚恩,誓以共死,不可背之
曹公が私を厚く遇してくださっていることはよく分かっている。しかし私は劉将軍の厚い恩を受け、ともに死ぬと誓ったのだから、裏切ることはできない『三国志』蜀書 関羽伝

三国志演義

『三国演義』 第1~78回 · 第83回

演義で関羽は第1回に初めて登場します。涿郡の居酒屋に車を引いて入ってきた彼は、身の丈九尺、ひげの長さ二尺、棗のように赤い顔をした河東解良の人で、郷里で権勢をふるっていた者を殺し、五、六年さすらっていたと明かします。翌日、張飛の家の裏の桃園で黒牛と白馬を供えて天地を祭り、同じ日に死ぬことを願うと誓って劉備・張飛と兄弟の契りを結び、冷艶鋸とも呼ばれる八十二斤の青龍偃月刀を鍛えます。

第5回では馬弓手の身で名乗り出て、曹操が注いだ酒が冷めぬうちに華雄の首を斬ってきて、虎牢関では張飛とともに呂布と戦います。第20回の許田の巻狩りでは、天子の前に立ちはだかる曹操を斬ろうとして劉備の目配せに思いとどまります。第25回で下邳を守るうち計略にはまって土山に閉じ込められた関羽は、漢の皇帝にのみ降るということをはじめとする三つの約束を取りつけて曹操に身を寄せます。曹操から贈られた新しい戦袍を古い戦袍の内に着込み、ひげ袋を贈られて美髯公と呼ばれ、呂布が乗っていた赤兎馬を賜ると、兄の消息を聞けば一日で駆けつけられると拝謝します。白馬で顔良を一刀のもとに刺し落とした彼は、第26回で延津の文醜まで斬ったのち、金銀を封じ漢寿亭侯の印を掛けたまま、二人の兄嫁を奉じて去ります。

第27回で通行証を持たない関羽は、東嶺関・洛陽・汜水関・滎陽・黄河の渡しで行く手を阻む六人の将を斬ります。第28回では古城で彼を疑う張飛の前で、太鼓が一通り鳴り終わらぬうちに蔡陽の首を斬り、関定の子関平を養子とし、周倉を迎え入れます。

第49回で関羽は軍令状を書いて華容道に出ますが、第50回で旧恩を訴える曹操と泣き伏す兵たちを見て馬首を返し、曹操と張遼を見逃します。第51回では軍令どおり彼を斬ろうとする諸葛亮を劉備が止めます。第53回では長沙の黄忠と戦い、馬が倒れた彼を見逃してやり、黄忠は兜の纓の根元だけを射当てて恩に報います。第63回で荊州を任されるにあたり諸葛亮から「北は曹操を拒ぎ、東は孫権と和せよ」という八文字を授かり、第66回では周倉と従者八、九人だけを連れて魯粛の宴に渡り、魯粛の手をつかんだまま悠々と帰ってきます。

第73回で五虎大将の筆頭になると、老兵と同列には立てぬと腹を立てますが費詩の言葉で受け入れ、孫権の縁談には虎の娘を犬の子にやれるものかと罵ります。第74回で棺を担いで出てきた龐徳の矢を左腕に受けますが、秋雨を見越して川の流れをせき止めておいて堰を切り、于禁の七軍を水没させて于禁を降し龐徳を斬ります。樊城を攻めるうちに毒矢を右腕に受けると、第75回で華佗が腕を切開して骨を削る間、酒と肉を口にしながら馬良と碁を打ちます。しかし陸遜のへりくだった手紙に安心して兵を樊城へ移した隙に、呂蒙が白衣の商人に装って江を渡り荊州を奪います。

第76回で旧友徐晃から「国家の事」と言われて押し返された関羽は荊州を失い、小さな麦城に入りますが、劉封と孟達は救援を拒みます。第77回で麦城を抜け出す途中、決石で馬忠に捕らえられた関羽は、降伏を勧める孫権を碧眼の小児と罵り、息子の関平とともに死にます。建安24年12月、五十八歳でした。その魂は玉泉山で「わが首を返せ」と叫んでいましたが僧の普静の言葉で悟り、孫権の宴で呂蒙に取り憑いて、呂蒙は七つの穴から血を噴いて死にます。首の入った箱を開けた曹操の前で口と目が動くと、曹操は沈香木で体を彫って継ぎ、王侯の礼で葬ります。第78回で曹操は夜ごと関羽を見て病が重くなり、第83回では息子の関興が仇の潘璋を追うとき関羽の霊が現れ、関興が潘璋を斬ります。演義で関羽が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 184黄巾が起こった頃、劉備が郷里で集めた手勢の中で、張飛とともに彼を護衛しました。桃園の誓い
  2. 199劉備が徐州刺史車冑を殺すと、下邳城を守って太守の事を執りました。
  3. 200曹操が劉備を討つと捕らえられ、偏将軍となりました。土山の三約
  4. 200白馬で顔良を刺して首を斬り、漢寿亭侯に封じられました。白馬
  5. 200受けたものをすべて封じて残し、書を奉って別れを告げたのち、袁紹の陣中の劉備のもとへ帰りました。五関に六将を斬る
  6. 208船数百艘を率いて進む途中、漢津で追われていた劉備と出会い、夏口へ向かいました。
  7. 209劉備が江南の諸郡を収めると、襄陽太守・盪寇将軍となって江北に駐屯しました。
  8. 211劉備が益州へ入ると、諸葛亮とともに荊州を守りました。
  9. 214劉備が益州を平定すると、荊州の事を一手に任されました。
  10. 215三郡をめぐって益陽で魯粛と対峙し、湘水を境に荊州を分けました。単刀の会
  11. 219前将軍となり、黄忠と同列に並ぶのを嫌いましたが、費詩に諭されて受けました。五虎大将
  12. 219樊城の曹仁を包囲し、水没した于禁を降して龐徳を斬りました。棺を担いで
  13. 219呂蒙が江を渡って江陵を奪い、糜芳・士仁が降伏して荊州を失いました。
  14. 219麦城を抜け出す途中、12月に章郷で捕らえられ、息子の関平とともに死にました。麦城
  15. 220孫権が彼の首を曹操に送りました。
  16. 260蜀漢が壮繆侯という諡を贈りました。
  17. 263蜀が滅びるとき、龐徳の子龐会が関氏の一族をことごとく滅ぼしたと『蜀記』は伝えます。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 関平 · 関興、娘(孫権が息子の嫁に求めた)、孫 関統 · 関彝(関興の庶子)

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

関雲長、ここにあり!

口を開くとき

桃園で結んだ義を懸けて申そう。

言い返すとき

この赤ら顔を恥じたことは一度もない。

言葉に詰まって

骨を削られる間も碁を打っておった。

言葉に詰まって

荊州を失った日の風が吹いておる。

舌戦に勝って

義ある言葉の前に屈せぬ者はおらぬ。

舌戦に敗れて

…麦城への道はかくのごときであったか。

勝ったあと

義の軍勢を誰が阻めようか。

敗れたあと

…義をもってしても防げぬものがあるか。

倒れるとき

…麦城の月が冷たい。

同じ旗の下

諸葛亮趙雲張飛魏延龐統蒋琬徐庶王平関索馬謖法正李厳