字 元直 · 不詳 ~ 不詳 (228年以後) · 豫州潁川郡 · 劉備配下
諸葛亮を推し、母を捕らわれて曹操のもとへ去った士
出典 · 『三国志』蜀書諸葛亮伝と裴松之注の『魏略』 · 董和伝 · 向朗伝裴松之注の『襄陽記』 · 魏書程昱伝裴松之注の徐衆の評
徐庶は字を元直といい、潁川の人です。『三国志』に自身の伝はなく、その事績は諸葛亮伝本文の数行と、裴松之がその注に引いた『魏略』に見え、『魏略』が最も詳しく伝えます。『魏略』によれば、彼のもとの名は福で、寒門の出身でした。若いころ任侠と撃剣を好み、中平の末に人の仇討ちを請け負い、白土を顔に塗り髪を振り乱して逃げるところを役人に捕らえられました。名を問われても口を閉ざしていると、役人は車の上に柱を立てて彼を縛りつけ、市場で太鼓を打って見覚えのある者を探しましたが、誰も名乗り出られず、彼の仲間がともに奪い返して解き放たれました。
この出来事に深く感じるところがあって、彼は刀や矛を捨て、粗末な頭巾と単衣の姿で志を改めて学問に励みました。初めて学舎へ行ったとき、儒生たちは彼が以前に賊をしていたとして一緒に過ごそうとしませんでしたが、彼は身を低くして早起きし、いつも一人で掃除をし、人の意を先に汲んで動き、経書を学んで義理に明るくなりました。同じ郡の石韜と親しく交わり、初平年間に中原で乱が起こると、石韜とともに南の荊州へ行き、諸葛亮ととりわけ親しくしました。『魏略』は、建安の初めに諸葛亮が荊州で石韜・徐庶・孟建とともに学んだといい、諸葛亮伝は、諸葛亮が自らを管仲・楽毅になぞらえたとき、博陵の崔州平と潁川の徐庶だけがそのとおりだと認めたと記します。裴松之注に引く『襄陽記』は、向朗が若いころ司馬徽を師として仕え、徐庶・龐統らと親しくしたと記します。
新野にいた劉備を訪ねると、劉備は彼を重んじました。徐庶は「諸葛孔明は臥竜です。将軍は会ってみたいと思われますか」と言い、劉備が一緒に連れてくるよう言うと、「この人は訪ねて会うことはできても、屈して呼び寄せることはできません。将軍が身を屈して訪ねるべきです」と言いました。劉備は三度訪ねた末に諸葛亮に会いました。
建安13年(208)、劉表が死に劉琮が曹操に降伏すると、樊にいた劉備は衆を率いて南へ下り、諸葛亮と徐庶も従いました。曹操に追われて崩れたとき、徐庶の母が捕らえられました。徐庶は劉備に別れを告げ、胸を指して「もともと将軍とともに王覇の業を図ろうとしたのは、この方寸の地によるものでした。いま老母を失って心が乱れ、事の役に立ちません。ここでお別れさせてください」と言って、曹操のもとへ行きました。程昱伝の裴松之注に載る徐衆の評は、徐庶の母が曹操に捕らえられると劉備が徐庶を帰したとし、天下を図る者は子の心を思いやるものだと述べました。
『魏略』は、荊州が曹操の手に落ちると、諸葛亮は劉備に従って行き、徐庶は石韜とともに北へ来たと記します。黄初年間に石韜は郡守を経て典農校尉となり、徐庶は右中郎将・御史中丞に至りました。太和年間に隴右へ出た諸葛亮は、二人の官位がその程度だと聞いて「魏にはよほど人材が多いと見える。どうしてあの二人が用いられないのか」と嘆きました。徐庶はその数年後に病で亡くなり、『魏略』が書かれたころにも、彭城に彼の碑が残っていたといいます。
諸葛亮はのちに丞相となって部下に下した文書で、多くの者がともに事に当たるのは多くの考えを集めるためなのに、人々は互いに反駁し尽くさないが、「ただ徐元直だけはこれに惑わされなかった」と言い、「のちに元直と交わり、熱心に教えを受けた」と称えました。彼の生没年は伝わりません。
此人可就見,不可屈致也。將軍宜枉駕顧之今已失老母,方寸亂矣,無益於事,請從此別『三国演義』 第35~39回 · 第41回 · 第47~48回
演義で徐庶は第35回に初めて登場します。蔡瑁を避けて檀渓を越え、司馬徽の家に泊まっていた劉備は、夜中に訪ねてきた元直という客が、劉表は善人を好んでも用いることができず、悪人を憎んでも退けることができないので別れてきたと話すのを立ち聞きします。新野に戻った劉備は、市中で「山谷に賢者がいて明主のもとへ行こうとするが、明主は賢者を求めながら私を知らない」と歌いながら通りかかる人に出会いますが、彼は潁上の人単福と名乗ります。単福は、的盧を仇に与えて凶を移すよう言って劉備の人となりを試し、劉備がこれを退けると彼の軍師となり、曹仁が送った呂曠・呂翔を、関羽・張飛を両翼に置く計略で破ります。
第36回で曹仁が大軍を率いて来て八門金鎖の陣を敷くと、単福は東南の生門から入って西の景門から出れば陣が乱れると指摘して趙雲に破らせ、曹仁が夜に陣営を襲うことを見越して防ぎ、空になった樊城を関羽に奪わせます。曹操が誰が劉備の策を出しているのかと尋ねると、程昱は、単福とは潁川の徐庶であり、若いころ人の仇を討って人を殺し、捕らえられたが解き放たれ、名を変えて逃げたのだと教えます。曹操は徐庶の母を許都へ連れてきますが、母は劉備を英雄と言い、曹操を漢の逆賊と罵って硯を投げつけます。程昱は母の筆跡をまねた偽の手紙を新野へ送り、手紙を受け取った徐庶は劉備に自らの本名を明かして別れを告げます。徐庶は、曹操に迫られても生涯一つの策も献じないと言って去りかけますが、馬を返して戻ってきて隆中の諸葛亮を推挙し、屈して呼び寄せることはできないから自ら訪ねるよう告げます。そして諸葛亮を訪ねてこれを知らせますが、諸葛亮は私を祭りの犠牲にするつもりかと言って、袖を払って奥へ入ってしまいます。
第37回で、許都に来た徐庶を見た母は、偽の手紙一通で明主を捨てて暗きに投じたと大いに叱り、梁に首をかけて死にます。徐庶は母の墓を守り、曹操からの賜り物を受け取りません。第39回では、博望へ向かおうとする夏侯惇に、劉備は諸葛亮を得て虎に翼が生えたようなものだから侮るなと言い、曹操に自分は蛍の光で諸葛亮は明月だと言います。第41回では曹操の命で樊城へ行き、降伏を勧める代わりに劉備に急いで立ち去るよう告げて帰ります。第47回の終わりで、連環の計を献じて帰る龐統を引き止めたのが徐庶であり、第48回で彼は龐統から身を逃れる策を授かって、馬騰・韓遂が攻め寄せるといううわさを広めたのち、散関を守りに出発します。演義で徐庶が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
母(名は伝わらない)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
新野から来た単福と申す。
諸葛亮を推挙したのはわしだ。言葉で競おう。
母のために去った身だ。恥じてはおらぬ。
…単福と呼ばれていた頃を思い出す。
曹操の陣では最後まで口を閉ざした。
八門金鎖の陣もこれほど難しくはなかった。
わが言葉が足りなかった。退こう。
陣を読めば勝てる。人もまた然り。
わしがおらずとも、こうなっておったろう。
母上、不孝をお許しください。