字 承祚 · 233年 ~ 297年 · 益州巴西郡安漢県 · 劉備配下
三国時代の膨大な歴史を集大成し、正史三国志を著した歴史家
出典 · 『晋書』陳寿伝と史臣の評 · 『華陽国志』後賢志 陳寿伝 · 『三国志』蜀書 譙周伝 · 諸葛亮伝(陳寿の上表と評) · 後主伝 評と裴松之注 · 『宋書』裴松之伝
陳寿は字を承祚といい、巴西郡安漢県の人です。若いころから学問を好み、同郡の譙周に師事しました。『華陽国志』は、彼が『尚書』と『春秋』の三伝を修め、『史記』と『漢書』に深く通じ、聡明で文章が豊かで美しかったと記しています。蜀では観閣令史を務め、『華陽国志』は衛将軍の主簿、東観秘書郎、散騎 · 黄門侍郎を歴任したと記しています。宦官黄皓が権勢をふるい、大臣たちがみな意を曲げて迎合しましたが、陳寿だけは屈せず、そのためにたびたび譴責を受けて官を退けられました。父は馬謖の参軍でしたが、諸葛亮が馬謖を斬ったとき、父も連座して髪を剃られる刑罰を受けました。
父の喪中に病にかかり、侍女に丸薬を作らせていたところ、訪ねてきた客がそれを見たので郷里で非難され、このことで蜀が平定されたのちも何年も仕官の道が閉ざされました。司空張華がその才を惜しみ、嫌疑を避けきれなかったとはいえ事情を察すれば見捨てるほどではないとして孝廉に推挙し、佐著作郎となりました。『三国志』譙周伝には、陳寿自身が泰始5年(269)に本郡の中正となり、務めを終えて帰る際に譙周に別れを告げに行ったと記した一節があり、このとき譙周は、孔子は七十二、劉向と揚雄は七十一で亡くなったので、自分も翌年を越せないだろうと言いました。かつて譙周は彼に「君は必ず才学によって名を成すだろうが、挫折を受けることになろう。それも不幸とばかりは言えない。深く慎みなさい」と告げていました。
『華陽国志』は、彼が先人たちの『巴蜀耆旧伝』では長く伝えるには足りないとして、巴と漢中まで含めて『益部耆旧伝』10篇を著し、散騎常侍文立がこれを献上すると、武帝が良しとしたと記しています。『晋書』は彼が陽平令に出たと記していますが、『三国志』諸葛亮伝に載る彼の上表は、泰始10年(274)2月に平陽侯相陳寿の名で奉ったものです。その上表で陳寿は、中書監荀勖と中書令和嶠の上奏に従って諸葛亮の遺した文章を整理し、重複を除いて部類ごとにまとめ、24篇に編んだと述べ、諸葛亮は軍を治めることに長けていたが奇策には乏しく、民を治める才は将としての智略にまさっていたと記しました。その後、著作郎となり、本郡の中正を兼ねました。
太康元年(280)に呉が平定されると、彼は三国の史書を集めて魏 · 呉 · 蜀の三書65篇を著し、『三国志』と名づけました。魏の君主は「太祖武皇帝」のように皇帝として尊んで記し、劉備と劉禅は「先主」 · 「後主」と記し、後主伝の評では、蜀は国に史官を置かず、記録を担う官がなかったと記しました。当時の人々は、彼が事柄をよく叙述し、優れた史官の才があると称えました。ちょうど『魏書』を著していた夏侯湛は彼の書を見て、自分の書を破り捨ててしまいました。張華は彼を大いに評価し、『晋書』も君に任せようと言いました。『華陽国志』は、荀勖と張華が彼の文章を愛し、班固や司馬遷も及ばないと言ったと記しています。彼は『古国志』50篇も著しました。
『晋書』は彼をおとしめる話もあわせて伝えています。魏で名高かった丁儀 · 丁廙兄弟の子に、米千斛をくれれば父君の立派な伝を書こうと言ったが、くれなかったので伝を立てなかったという話があり、また、父が馬謖の件で罰を受け、諸葛瞻も彼を軽んじていたので、諸葛亮の伝では将としての智略は長所ではないと書き、諸葛瞻は書に巧みなだけで名声が実際より大きかったと書いたとされ、論者たちが彼を低く見たというのです。裴松之注には、蜀の史官常璩が蜀の長老たちの話として、陳寿がかつて諸葛瞻の吏であったときに辱めを受けたと伝えた一節もあります。しかし『三国志』諸葛亮伝の評は、彼を「治を知る良才で、管仲と蕭何に次ぐ」と称えたうえで、毎年軍を動かしながら功を成せなかったのだから、臨機応変の将略は彼の長所ではなかったようだと記しています。
張華が彼を中書郎に推挙しようとすると、張華を嫌っていた荀勖が彼を憎み、長広太守に出させましたが、彼は母が老いているとして赴任しませんでした。『華陽国志』は、彼の『魏志』が荀勖の意に沿わなかったためと記しています。鎮南大将軍杜預が荊州へ赴く際に再び彼を推挙し、治書侍御史となり、『官司論』7篇などを奉りました。母の喪で官を退きましたが、母が洛陽に葬ってほしいと遺言したのでそのとおりにしたところ、故郷に帰葬しなかったとしてまたも非難されました。二度官を失って辱めを受けたのは、すべて譙周の言葉のとおりでした。数年後、太子中庶子に任じられましたが、就任できませんでした。
元康7年(297)に病で亡くなりました。享年六十五でした。梁州大中正范頵らが、彼の『三国志』は勧戒の言葉が多く、得失に明らかで風俗の教化に益があり、「文の華麗さは司馬相如に及ばないが、質の正しさはそれにまさる」として採録を求める上表をすると、詔により河南尹と洛陽令が彼の家へ行って書を書き写させました。『華陽国志』は、彼が洛陽で亡くなり、地位と名望が才能に及ばなかったので当時の人々が無念に思ったと記し、兄の子の陳符も文才があり、彼を継いで著作佐郎になったと記しています。『晋書』の史臣は「前代の規範を明らかに継ぐことのできる者は、陳寿こそそれを得たのであろうか」と述べ、賛では陳寿が輝かしい文章を抱いて卓然と独り立ったと称えました。
可以繼明先典者,陳壽得之乎辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文豔不若相如,而質直過之演義には登場しません。毛宗崗本120回のどこにも陳寿の名は見えません。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父(名は不詳 · 馬謖の参軍) · 甥 陳符 · 陳莅
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
この勝負も書き留めておこう。
貴公のことは、わが筆がすでに書き尽くした。
史官の前では言葉を選ぶがよい。
…この段は書き直さねばならぬな。
記録は負けぬ。
歴史の筆は正確だ。
今日のことは…列伝から外しておこう。
今日のことは正史に残ろう。
…負けたこともそのまま記そう。
この時代を文に遺しておいた。