羊祜

字 叔子 · 221年 ~ 278年 · 兗州泰山郡南城県 · 司馬懿配下

羊祜の肖像

陸抗と美しい友誼を結び、三国統一の青写真を描いた晋の徳将

能力値

統率90武力64知力85政治87魅力91

カード

攻撃力 4体力 6コスト 4価値 14職分 君主
誘引 コスト 1
敵1体の攻撃力−2(次の手番まで) · 体力−1
一喝 コスト 2
敵1体を敵の手札に戻す · 再登場時は攻撃力半減(召喚物は不可)

正史

出典 · 『晋書』羊祜伝と史臣の評 · 武帝紀 · 景献羊皇后伝 · 杜預伝 · 王濬伝 · 『三国志』呉書陸抗伝 · 呉主伝と裴松之注の『晋陽秋』

羊祜は字を叔子といい、泰山郡南城県の人です。『晋書』羊祜伝は、彼の家が代々二千石の官を務め、彼に至るまで九代にわたり清廉な徳で名高かったと記します。祖父の羊続は漢の南陽太守、父は上党太守で、母方では蔡邕の外孫にあたり、司馬師の妻景献皇后の同母弟です。十二歳で父を亡くしました。長じては博学で文章をよくし、身の丈七尺三寸で鬚と眉が美しく、弁舌に優れていました。郡将の夏侯威が彼を非凡と見て、兄夏侯覇の娘を妻に与えました。州や公府がたびたび招いても応じず、王沈とともに曹爽の招きを受けたときも「身を委ねて人に仕えることがどうして容易であろうか」と言って辞退しましたが、曹爽が失脚すると王沈はその旧吏であったために官を失いました。夏侯覇が蜀へ降ったとき、姻戚はみな縁を切りましたが、羊祜だけは妻を安んじていっそう礼を尽くしました。

文帝司馬昭が大将軍であったとき彼を招きましたが応じず、のちに公車で召されて中書侍郎となり、黄門郎に移りました。陳留王が立つと関中侯となり、秘書監を経て、咸熙元年(264)に五等爵が設けられると鉅平子に封じられました。鍾会の死後は相国従事中郎となって機密を掌り、続いて中領軍となって宮中の宿衛を率いました。咸熙2年(265)に武帝司馬炎が魏の禅譲を受けると、中軍将軍・散騎常侍となり郡公に封じられましたが、固く辞退して侯にとどまり、泰始の初めに尚書僕射・衛将軍となりました。

武帝が呉を滅ぼす志を抱くと、泰始5年(269)に彼は都督荊州諸軍事となって南方に出鎮しました。学校を開き、遠近の民を慰撫して江漢の地の人心を大いに得、呉の人々に大きな信義を示して、投降してきた者が去りたいと望めばみな許しました。襄陽から七百余里離れた呉の石城の守備兵が常に辺境を荒らしていたので、計略を用いて呉にその守備を撤収させ、そこで巡邏の兵を半分に減らして八百余頃の田地を開墾させました。彼が着任したばかりのころ、軍には百日分の兵糧もありませんでしたが、晩年には十年分が蓄えられていました。陣中では軽い皮衣にゆるやかな帯を締め、鎧を着けませんでした。

泰始8年(272)、呉の西陵督歩闡が城を挙げて降ると、呉の将陸抗が急いでこれを攻めました。羊祜は詔を受けて兵五万で江陵に出て、荊州刺史楊肇を遣わして陸抗を攻めさせましたが勝てず、歩闡はついに陸抗に捕らえられました。八万を超える兵を擁しながら三万にも満たない敵を前に江陵にとどまっていたと弾劾され、彼は平南将軍に降格されました。その後、要害に五つの城を築いて肥沃な土地を収めたので、石城以西はすべて晋の領地となりました。呉の人々と戦うときは日を約してから戦い、奇襲はしませんでした。捕らえられてきた呉の子供二人を家へ帰してやると、のちにその父親たちが手勢を率いて投降してきました。呉の地で穀物を刈り取って兵糧に充てると、その分を絹で償い、狩りは晋の領内でのみ行い、呉の人が先に射止めた獣は送り返しました。呉の人々は彼を名ではなく「羊公」と呼びました。

羊祜は陸抗と対峙しながら使者を往来させました。陸抗は羊祜の徳と度量は楽毅や諸葛亮でも及ばないと言い、陸抗が病むと羊祜が薬を贈りましたが、陸抗は「羊祜がどうして人を毒殺するような者であろうか」と言って疑わずに飲みました。裴松之注に引く『晋陽秋』は、陸抗が酒を贈ると羊祜も疑わずに飲んだと記します。陸抗は常に守備兵たちに「彼らはひたすら徳を用い、我らはひたすら暴を用いている。これでは戦わずして自ら屈するのと同じだ」と言い、境界を守らせるだけにしました。

羊祜は、呉を討つには必ず上流の形勢を借りねばならないと考えていました。「阿童が刀をくわえて江を泳ぎ渡る。岸の上の獣は恐れぬが、水の中の竜だけが恐ろしい」という呉の童謡を聞いて水軍に功があるだろうと考え、咸寧の初めに益州刺史王濬が大司農に召されることになると、彼は任せるに足る人物であり幼名も阿童であるとして、上表して益州にとどめ、ひそかに船を造らせました。咸寧2年(276)に征南大将軍となった彼は上疏して、蜀が平定されてから十三年が過ぎ、孫皓の暴虐は劉禅よりもひどいので、今こそ呉を平定して天下を一つにすべきだと説き、益州の兵は水路から、荊州の兵は江陵へ、東方諸州の兵は秣陵へとともに進む策を奏上しました。武帝は深く受け入れましたが反対の議論が多く、羊祜は「天下の事が思いどおりにならないのは、常に十のうち七、八である」と嘆きました。翌年、南城侯に封じようとすると、彼は固く辞退しました。

彼は良策や正論の草稿をすべて焼いたので世の人は知らず、彼が推挙した人々も誰に推挙されたのかを知りませんでした。「公の朝廷で官を拝し、私の家に来て恩を謝するのは、わたしの取らないところである」というのが彼の言葉でした。景色のよい日には峴山に登って酒を設けて詩を吟じ、俸禄は親族や兵士に分け与えて家に余財はありませんでした。

咸寧4年(278)、病を得た彼は入朝して武帝の前で呉を討つ策を奏上しました。武帝が中書令張華を遣わして策を問わせると、孫皓が死んで呉の人々が賢君を立てれば百万の兵でも長江を越えられないと答え、張華が深く賛同すると「わたしの志を成し遂げるのは君だ」と言いました。病が重くなると杜預を推挙して自分の後任とし、その年の11月に五十八歳で亡くなりました。武帝は白い服を着て悲しみ泣きました。荊州の人々は市の日に訃報を聞くと市を閉じて街ごとに哭し、呉の辺境を守る将兵たちも彼のために泣きました。侍中・太傅を追贈され、諡は成です。襄陽の民は彼が遊んだ峴山に碑を建て廟を設けて四季ごとに祀りましたが、碑を仰ぎ見る者がみな涙を流したので、杜預がこれを堕涙碑と名づけました。荊州の人々は彼の名の字を避けて家屋を「門」と呼び、戸曹という役所の名も辞曹に改めました。

彼の死から二年後の太康元年(280)に呉が平定されると、武帝は杯を手に涙を流して「これは羊太傅の功である」と言い、その廟にこれを告げさせ、夫人の夏侯氏を万歳郷君に封じました。子がなかったため、太康2年(281)に兄羊発の子羊篇が鉅平侯となって後を継ぎました。『晋書』の史臣は「羊公が呉を平定する策を起こしたことに、天地の心を見る」と述べ、南方の地に大いなる信義を垂れて漢水のほとりで呉の人々を心服させながら、功を成し遂げてもその地位にとどまらなかったと評しました。

羊公起平吳之策,其見天地之心焉
羊公が呉を平定する策を起こしたことに、天地の心を見る『晋書』羊祜 · 杜預伝の史臣の評
望其碑者莫不流涕,杜預因名為墮淚碑
その碑を仰ぎ見る者はみな涙を流したので、杜預はそれにちなんで堕涙碑と名づけた『晋書』羊祜伝

三国志演義

『三国演義』 第120回

演義で羊祜は最終回の第120回に登場します。孫皓が陸抗に襄陽をうかがわせると、賈充の進言により司馬炎が都督の羊祜にこれを防がせます。襄陽を守る羊祜は、降ってきたのちに去ろうとする呉の人々をみな送り返し、巡邏の兵を減らして八百余頃を開墾し、百日分もなかった兵糧を翌年には十年分蓄えます。呉軍が弛んでいるので攻めようと言う部将たちには、陸抗は智謀に富む将だとして境界を守らせるだけにします。

狩りの際に境界を越えず、呉の人が先に射止めた獣を送り返すと、陸抗が長く寝かせた酒を贈ってきます。部将の陳元が用心するよう言いますが、羊祜は陸抗は人を毒殺するような者ではないと言ってそのまま飲みます。陸抗が病んでいると聞いて羊祜が調合しておいた薬を贈ると、陸抗も「どうして人を毒殺する羊叔子がいようか」と言って飲み、翌日には治ります。孫皓が陸抗の兵権を奪うと、羊祜は呉を討つ時だと上表しますが、賈充・荀勗・馮純が反対して立ち消えとなり、「天下の事が思いどおりにならないのは十のうち八、九」と嘆きます。

咸寧4年に入朝した羊祜は、孫皓が死んで賢君が立てば呉は得られないと奏上し、その年の11月に病が危篤になると、司馬炎が自ら彼の家を訪れます。羊祜は右将軍杜預を推挙し、推挙の文を焼いて人に知られないようにする理由を問われると、公の朝廷で官を拝し私の家で恩を謝するのは取らないところだと答えて息を引き取ります。南州の民は市を閉じて泣き、江南の辺境の将兵も泣き、襄陽の人々が峴山に廟と碑を建てると碑文を見る者がみな涙を流したので堕涙碑と呼ばれたと演義は記します。呉が平定されたのち、司馬炎は杯を手に泣いて「これは羊太傅の功であるのに、彼が自ら見られなかったのが惜しまれる」と言います。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 260陳留王が立つと関中侯に封じられました。
  2. 264五等爵が設けられると鉅平子に封じられました。
  3. 265武帝が禅譲を受けると中軍将軍となり、郡公を辞退して侯にとどまりました。
  4. 269都督荊州諸軍事となって南方に出鎮しました。
  5. 272西陵の歩闡を救いに出ましたが陸抗に阻まれ、平南将軍に降格されました。羊陸の交わり
  6. 276征南大将軍となり、呉を平定する策を上疏しました。
  7. 277南城侯に封じようとされると固く辞退しました。
  8. 278入朝して呉を討つ策を奏上し、杜預を推挙したのち五十八歳で亡くなりました。
  9. 280呉が平定されると、武帝は杯を手に泣いて「これは羊太傅の功である」と言いました。晋の統一
  10. 281兄羊発の子羊篇が鉅平侯となって後を継ぎました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 羊衜(后妃伝は羊茞) · 姉 景献皇后 · 妻 夏侯氏(夏侯覇の娘) · 異母兄 羊発 · 跡を継いだ甥 羊篇

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

戦えど、礼を失うな。

口を開くとき

争うより、心を得たい。

言い返すとき

敵であろうと礼は失わぬ。

言葉に詰まって

…急いてはならぬのだが。

言葉に詰まって

時はまだ熟しておらぬか。

舌戦に勝って

徳で得たものは崩れぬ。

舌戦に敗れて

…わが代では見られぬか。

勝ったあと

勝ったが、誇ることではない。

敗れたあと

…負けたが、恥じてはおらぬ。

倒れるとき

杜預に…残りを託す。

同じ旗の下

司馬懿郭淮司馬師司馬昭王濬孫礼陳泰衛瓘王基王昶賈充杜預