字 伯済 · 不詳 ~ 255年 · 并州太原郡陽曲県 · 司馬懿配下
司馬懿を補佐して蜀の北伐を固く阻んだ、魏の雍・涼州の守護者
出典 · 『三国志』魏書 郭淮伝と裴松之注の『郭氏譜』 · 『世語』 · 『晋諸公賛』 · 陳泰伝 · 蜀書 諸葛亮伝 · 魏延伝 · 後主伝 · 姜維伝と裴松之注の『魏略』
郭淮は字を伯済といい、太原郡陽曲県の人です。裴松之注に引く『郭氏譜』は、祖父の郭全が大司農、父の郭縕が雁門太守であったと記します。建安年間に孝廉に推挙されて平原府丞となり、五官中郎将であった曹丕が彼を召して門下賊曹とし、丞相府の兵曹議令史に移って曹操に従い漢中を攻めました。
曹操が帰還するにあたり征西将軍夏侯淵を残して劉備を防がせると、郭淮は夏侯淵の司馬となりました。建安24年(219)、夏侯淵が劉備と戦ったとき郭淮は病で出陣しませんでしたが、夏侯淵が戦死して軍中が動揺すると、散った兵を収め、盪寇将軍張郃を軍の主に推し立てて諸陣営を鎮めました。翌日、劉備が漢水を渡って攻めようとすると、諸将は川に拠って陣を敷こうと言いましたが、郭淮はそれでは弱みを見せるだけで敵をくじくことはできないとして、川から離れて陣を敷き、敵が半ば渡ったところを撃とうと言いました。陣を敷くと劉備は疑って渡らず、郭淮は堅く守って退く意思がないことを示しました。曹操はこれを良しとして張郃に節を授け、郭淮を再び司馬としました。
曹丕が魏王になると(220)関内侯の爵位を受けて鎮西長史となり、征羌護軍の職務を代行して張郃と楊秋を監督し、山賊の鄭甘と盧水の反乱した胡族を平定したので、関中はようやく安定しました。その年、曹丕の即位を祝賀しに行く途中で病になり遅れて着くと、曹丕は禹が塗山に諸侯を集めたとき遅れて来た防風を殺した故事を挙げて叱責しました。郭淮が「五帝は徳によって民を導き、夏の政治が衰えてはじめて刑罰を用いました。いま臣は堯舜の世に巡り合いましたので、防風のように殺されはしないと存じます」と答えると、曹丕は喜んで彼に雍州刺史の職務を任せて射陽亭侯に封じ、黄初5年(224)に正式な刺史となりました。羌族や胡族が降ってくるたびに、郭淮はまず人を遣わしてその親族や男女の数、年齢を調べておき、会ったときに一人ひとり詳しく尋ねたので、皆が彼を神明と称えました。
太和2年(228)、諸葛亮が祁山に出て馬謖を街亭に、高詳を列柳城に置くと、張郃が馬謖を攻め、郭淮は高詳の陣営を攻めて、ともに破りました。また隴西の羌族唐蹏を枹罕で破って建威将軍となりました。『魏略』によれば、この年、諸葛亮が祁山に至ったという知らせを聞いたとき、郭淮は天水太守馬遵とその官属を連れて洛門を視察している途中でしたが、「事態はよくないだろう」と言ってすぐに上邽へ戻りました。馬遵も彼について行ったため、取り残された姜維が諸葛亮のもとへ行くことになったと『魏略』は記します。翌年、蜀の陳式が武都と陰平を攻めると郭淮はこれを討とうとしましたが、諸葛亮が自ら建威に出てきたので退き、建興8年(230)には羌族の地に入った魏延に陽谿で大敗したと蜀書は記します。太和5年(231)、蜀軍が鹵城に出たとき、隴右に穀物がないため関中から大量に運び込もうという議論がありましたが、郭淮が威と恩で羌族と胡族を手なずけて家ごとに穀物を出させたので兵糧は十分になり、揚武将軍となりました。
青龍2年(234)、諸葛亮が斜谷に出て蘭坑に屯田し、司馬懿が渭水の南に陣を敷いたとき、郭淮は諸葛亮が必ず北原を争うので先に押さえるべきだと言いました。皆はそうではないと言いましたが、彼は諸葛亮が渭水を渡って北原に登り、北山まで兵を連ねれば隴への道が断たれ、民と異民族が動揺すると述べ、司馬懿がもっともだとしたので郭淮が北原に陣を敷きました。塹壕と堡塁が出来上がる前に蜀軍が大挙して到来すると、郭淮はこれを迎え撃ちました。数日後、諸葛亮が大軍を展開して西へ向かうと、諸将は西の陣営を攻めるつもりだと言いましたが、郭淮だけは西に姿を見せて官軍をそちらに引きつけようとしているのであり、必ず陽遂を攻めるだろうと見抜き、その夜蜀軍は果たして陽遂を攻めましたが、備えがあったため登れませんでした。
正始元年(240)、蜀将姜維が隴西に出てくると彊中まで追撃し、姜維が退くと羌族の迷当らを討ち、氐族3千余部落を慰撫して関中へ移し、左将軍となりました。正始5年(244)に夏侯玄が蜀を攻めたときには先鋒となりましたが、形勢が不利と見て取るとすぐに兵を引き、大敗を免れました。正始8年(247)、隴西 · 南安 · 金城 · 西平の羌族が蜂起して蜀軍を呼び込むと、人々はまず枹罕を平定しようと言いましたが、郭淮は姜維が必ず為翅の夏侯覇を攻めるだろうと見て南へ回って夏侯覇を迎えに行き、為翅を攻めていた姜維は郭淮の軍が到着すると退きました。続いて羌族の首領餓何と焼戈を斬ると、降った部落は1万余に上り、翌年には上流で渡るふりをして下流からひそかに渡り、白土城の羌族を大いに破りました。姜維が西へ胡族の治無戴を迎えに行く際、陰平太守廖化を成重山に残して城を築かせると、郭淮は兵を分けるべきではないという諸将の意見を退け、「廖化を攻めれば姜維は必ず振り返るから、一度に二つを全うする策だ」として廖化を攻めました。姜維が果たして急ぎ戻って廖化を救ったので、すべて郭淮の策のとおりとなり、彼は都郷侯に進みました。
嘉平元年(249)に征西将軍 · 都督雍涼諸軍事となり、この年、雍州刺史陳泰と策を合わせて、麹山に城を築いた蜀の牙門将句安らを降伏させました。陳泰伝によれば、城を包囲して水を断つ策と、牛頭山へ行って姜維の退路を断つ策は陳泰が出したもので、郭淮がこれに従って洮水へ進むと姜維は逃走しました。嘉平2年(250)の詔は、漢川の戦いで郭淮が危機を救い、関西に三十年以上いて外では敵を討ち内では民と異民族を安んじたとして、彼を車騎将軍 · 儀同三司とし、陽曲侯に進めました。『世語』によれば、郭淮の妻は王凌の妹であったため、王凌が誅殺されると連座して連行されることになりました。郭淮は初め妻を引き留めませんでしたが、五人の息子が頭を打ちつけて血を流しながら嘆願すると見るに忍びず、人を遣わして連れ戻し、「五人の子がいなければ、この郭淮もありません」という書を司馬懿に送り、司馬懿も彼を許しました。
正元2年(255)に郭淮が死去すると大将軍を追贈され、諡を貞侯といいました。子の郭統が跡を継いで荊州刺史に至り、咸熙年間には前朝で立てた功によって孫の郭正が汾陽子に改封されました。『晋諸公賛』は、弟の郭配が城陽太守に至り、裴秀と賈充がともに郭配の婿であったと記します。陳寿は「郭淮は方策が精密で周到であった」と評しました。
郭淮方策精詳若亮跨渭登原,連兵北山,隔絕隴道,搖盪民、夷,此非國之利也『三国演義』 第70回 · 第93~95回 · 第97~99回 · 第101~103回 · 第107~109回
演義で郭淮は第70回に曹洪の行軍司馬として初めて登場します。瓦口関で兵をすべて失って戻った張郃を曹洪が斬ろうとすると、「三軍は得やすいが一将は求めがたい」と止め、再び兵を与えて葭萌関を攻めさせようと進言します。
第93回で曹真は諸葛亮を防ぎに出るにあたり、太原陽曲の人で雍州刺史の郭淮を副都督に推挙します。王朗が死んだ後、郭淮は蜀軍が喪に服している隙を狙って陣営を襲う策を立てますが、かえって大敗し、第94回では西羌に救援を求めようと進言して二人の先鋒曹遵と朱讃を失います。第95回では街亭の功を司馬懿に奪われることを恐れて列柳城へ向かいますが、城上にすでに司馬懿が立っているのを見て「仲達の神算には我は及ばぬ」と驚き、曹真とともに三郡を取り戻して自分の功とします。
第98回では諸葛亮を堅く守って防げという詔を見て「後日蜀軍を防ぐ者は必ず仲達だ」と言い、郝昭が病に伏すと張郃を送って代わらせます。第99回では孫礼とともに武都と陰平を救いに行って諸葛亮に大敗し、第101回では鹵城を攻めて敗れます。第102回では司馬懿に、蜀軍が渭水を渡って北原に登れば隴への道が断たれると説いて北原を守ることになりますが、王平が捨てていった木牛流馬を引いて帰ろうとして舌をひねっておく仕掛けにかかり、「神の助けだ」と驚きます。
第107回で雍州刺史郭淮は、反旗を翻した夏侯覇と戦い、陳泰とともに彼を攻めて追い払い、麹山に二城を築いた蜀軍を陳泰と包囲して水脈を断ち、陳泰の言に従って洮水を押さえて姜維の糧道を断ちます。最後は第109回です。鉄籠山に閉じ込められた司馬昭を救いに行く途中、陳泰の偽りの降伏の策で羌の王迷当を捕らえて手なずけ、先に立てて姜維の陣を崩します。しかし矢の尽きた姜維を追って弓を射たところ、姜維がその矢を受け止めて射返したものに当たって落馬し、陣に戻って鏃を抜きましたが血が止まらずに死にます。演義で郭淮が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
祖父 郭全 · 父 郭縕 · 妻 王氏(王凌の妹) · 子 五人(郭統) · 弟 郭配 · 郭鎮
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
雍州の兵はここにあり。
郭伯済だ。西の国境はわしが預かった。
まず形勢を見てから答えよう。
…また越えてくるか。
守りを立て直さねばな。
守りに抜かりはない。
…一か所破られたか。
関西の門は開かなかった。
…一角を明け渡したか。
関西の門は…閉ざすな。