字 仲権 · 不詳 ~ 不詳 (255年以後) · 豫州沛国譙県 · 曹操配下
曹爽が死ぬと禍を避けて蜀へ逃れ、姜維とともに戦った夏侯淵の子
出典 · 『三国志』魏書 夏侯淵伝と裴松之注の『魏略』 · 夏侯玄伝の『魏氏春秋』 · 曹爽伝 · 郭淮伝 · 鍾会伝注の『世語』 · 『漢晋春秋』 · 蜀書 後主伝 · 姜維伝 · 趙雲伝 · 張嶷伝注の『益部耆旧伝』 · 『晋書』羊祜伝 · 『華陽国志』劉後主志
夏侯覇は字を仲権といい、定軍山で死んだ夏侯淵の次男です。彼の事績は夏侯淵伝の末尾の数行と、裴松之が引いた『魏略』に最も詳しく残っています。『魏略』は、父が蜀に害されてから、彼が常に歯ぎしりして蜀に仇を討つ志を抱いていたと記します。黄初年間に関内侯の爵位を受けて偏将軍となりました。『魏略』によれば、子午の役のとき先鋒として召し出され、興勢の囲みに至って谷間に陣を敷きましたが、蜀の人々が彼を見知って兵を繰り出して攻めたため、逆茂木の間で自ら戦い、救援が来てようやく脱しました。後に右将軍となって隴西に留まり、兵を養い戎族と和合して広く心をつかみました。
正始年間に討蜀護軍となり、博昌亭侯に爵位が進み、曹爽から厚遇を受けました。『魏略』は、彼が夏侯儒の後を継いで征西将軍に属したと記します。郭淮伝によれば、正始8年(247)に羌族が蜂起して蜀軍を呼び込むと、夏侯覇は諸軍を率いて為翅に陣を敷き、姜維が為翅を攻めましたが郭淮の軍が時宜を得て到着すると退きました。姜維伝もこの年に姜維が洮西で郭淮 · 夏侯覇らと戦ったと記します。翌年には郭淮の命で沓中まで姜維を追撃しました。
当時の征西将軍は夏侯覇の従子(いとこの子)夏侯玄で、夏侯玄は曹爽の母方のいとこでした。嘉平元年(249)正月、司馬懿が曹爽を誅殺して夏侯玄を呼び戻すと、夏侯覇は禍が次々と自分に及ぶと考えて内心恐れました。以前から仲の悪かった雍州刺史郭淮までが夏侯玄に代わって征西将軍となると、いっそう不安になり、ついに蜀へ逃れました。裴松之注に引く『魏氏春秋』は、彼が去るにあたって夏侯玄にともに行こうと誘ったが、夏侯玄は「どうしてかりそめに生きるために敵地に客として身を寄せられようか」と言って洛陽に戻ったと伝えます。夏侯覇は南の陰平へ向かう途中で道に迷って行き止まりの谷に入り込み、食糧が尽きると馬を殺して歩き、足が裂けて岩の下に横たわったまま人を遣わして道を探させました。蜀はこれを聞いて人を送って彼を迎えました。魏は夏侯淵の旧功を考えて夏侯覇の子を殺さず、楽浪郡に移しました。『晋書』羊祜伝は、羊祜の妻が夏侯覇の娘であったので、夏侯覇が蜀に降ると姻戚の多くが縁を切ったが、羊祜だけは妻をいっそう礼遇したと記します。
『魏略』によれば、建安5年(200)に十三、四歳であった夏侯覇の従妹が故郷で薪を取りに出たところ張飛に捕らえられ、張飛は良家の娘と知って妻とし、その娘が劉禅の皇后となりました。そのため夏侯淵が死んだとき張飛の妻が願い出て葬儀を営みました。劉禅は夏侯覇に会って「卿の父は戦場で害されただけで、我が先人が自ら斬ったのではない」となだめ、自分の息子を指して「この子は夏侯氏の外孫である」と言い、爵位と寵愛を厚く与えました。後主伝は延熙12年(249)春正月、魏が曹爽らを誅殺すると右将軍夏侯覇が来降したと記し、『華陽国志』は彼が車騎将軍になったと記します。
裴松之注に引く『世語』によれば、蜀の朝廷が司馬懿の人となりを尋ねると夏侯覇は「自分の家を立てようとするでしょう」と言い、都の優れた士を尋ねると「鍾士季(鍾会)という者がいて、朝廷の政務を担えば呉と蜀の憂いとなるでしょう」と言いました。『漢晋春秋』はこれを姜維が尋ねたこととして記していますが、裴松之は習鑿歯が『世語』を取って付け加えたものだと指摘しました。『益部耆旧伝』は、延熙17年(254)ごろ、車騎将軍夏侯覇が張嶷に旧友のように心を託したいと言うと、張嶷は互いにまだよく知らないのだから三年後にその言葉を言ってくれと答えたと伝えます。延熙18年(255)、彼は姜維とともに狄道に出て、洮西で魏の雍州刺史王経を大いに破り、王経の兵のうち死者は数万に上りました。
彼がいつ死んだかは史書にありません。趙雲伝は、遠方から国に帰順した夏侯覇が諸葛亮 · 蒋琬 · 費禕 · 陳祗と同じく諡を受けた後に、関羽 · 張飛らが諡を受けたと記しており、それが景耀3年(260)です。
淵爲蜀所害,故霸常切齒,欲有報蜀意卿父自遇害於行間耳,非我先人之手刃也『三国演義』 第102~115回
演義で夏侯覇は第102回に初めて登場します。諸葛亮が再び祁山に出てくると司馬懿は夏侯淵の四人の息子を推挙しますが、演義は夏侯覇を長男で字は仲権、弟の夏侯威とともに弓馬に熟達し、常に父の仇を討とうとしていると紹介し、二人を左右の先鋒とさせます。第103回と第104回で彼は司馬懿の命で五丈原の蜀軍を探って魏延に追われ、諸葛亮の死後、車上の木像の諸葛亮を見て驚き逃げる司馬懿を夏侯恵とともに引き止めて落ち着かせます。第106回では遼東で公孫淵の部将卑衍を斬ります。
第107回で曹爽を誅殺した司馬懿が、曹爽の一族として雍州を守っていた征西将軍夏侯覇を洛陽に呼び寄せると、夏侯覇は大いに驚いて率いる兵3千で反旗を翻します。雍州刺史郭淮が大魏の皇族がどうして背くのかと責めると、彼は司馬懿が曹氏の一族を滅ぼし自分まで捕らえようとしているので、遠からず簒奪するだろうと言い返します。郭淮を追って陳泰の挟撃に遭い兵の大半を失った彼は漢中へ行って降伏し、疑っていた姜維は人を遣わして確かめてからようやく彼を迎え、微子の故事で慰めます。宴で夏侯覇は、司馬懿父子はまだ外に目を向ける余裕がないとしながらも、魏には若い盛りの鍾会と鄧艾がいるので、彼らが兵を率いれば呉と蜀の大きな憂いとなるだろうと警告します。姜維は彼を道案内として北伐に出て、麹山の二城が包囲されると、夏侯覇は手薄になっているはずの雍州の背後を突く策を出します。
その後、夏侯覇は姜維の北伐のたびに策を出します。第109回では魏軍の兵糧輸送兵を捕らえ、その衣服と旗で魏の陣営を奇襲させ、同じ回で魏の太常夏侯玄は「臣の兄夏侯覇が蜀に降ったのは、司馬兄弟に害されるのを恐れたからです」と言います。第110回では洮西で張翼とともに王経の背後を突き、鄧艾に気をつけるよう姜維に繰り返し告げます。第115回、景耀5年(262)に姜維が洮陽を攻めると、先鋒となった夏侯覇は四方の門が開いた空城だと思って入り込みますが、城上から雨のように降り注ぐ矢と石に、五百の兵とともに死にます。姜維は彼の死をひどく悲しみます。演義で夏侯覇が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 夏侯淵 · 兄 夏侯衡 · 弟 夏侯威 · 夏侯恵 · 夏侯和 · 娘(羊祜の妻) · 子(楽浪へ移される)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
魏に背いても槍はそのままだ。
帰る所のない男だ。前だけを見る。
昔の家の話はしまっておかれよ。
…ここでも押されるか。
亡命した身に退く場所などあるものか。
魏の内情はわしが一番よく知っておる。
…二国のどこにも立つ瀬がないな。
魏に背いた槍が通じたぞ。
…行き場がまた減ったか。
魏に背いた身が…蜀で果てる。