曹爽

字 昭伯 · 不詳 ~ 249年 · 豫州沛国譙県 · 曹操配下

曹爽の肖像

権力に酔い、司馬懿に一族ごと明け渡した愚かな権臣

能力値

統率42武力35知力30政治66魅力55

カード

攻撃力 3体力 3コスト 2価値 6職分 能吏

正史

出典 · 『三国志』魏書 曹真伝に付された曹爽伝と裴松之注の『魏末伝』 · 『世語』 · 『魏氏春秋』 · 『漢晋春秋』 · 魏書 明帝紀 · 三少帝紀 · 郭淮伝 · 蜀書 王平伝 · 費禕伝注の『通語』 · 『晋書』宣帝紀

曹爽は字を昭伯といい、大司馬曹真の子です。父の曹真は曹操の族子です。若いころから宗室として慎み深く重みがあり、東宮にいた明帝は彼をたいへん可愛がりました。明帝が即位すると散騎侍郎となり、城門校尉と散騎常侍を経て武衛将軍に昇り、格別の寵愛を受けました。太和5年(231)曹真が死去すると、その跡を継ぎました。

景初2年(238)12月、明帝が病に伏すと、はじめは燕王曹宇を大将軍としましたが、まもなく取り消して曹爽を代わりに据えました。裴松之注に引く『漢晋春秋』は、中書監劉放と中書令孫資が曹宇の一派を嫌い、主君のそばにひとり残っていた曹爽を推挙し、司馬懿をともに用いるよう申し上げたと記します。明帝は曹爽を寝室に呼んで大将軍・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事とし、曹爽は太尉司馬懿とともに幼い君主を補佐せよとの遺詔を受けました。景初3年(239)正月、明帝が死去して斉王曹芳が即位すると、侍中を加えられ武安侯に改封されて食邑は一万二千戸となり、剣を帯びて殿上に上る礼遇を受けました。

はじめ曹爽は、司馬懿が年長で徳が高いとして常に父のように仕え、勝手に事を行いませんでした。しかし丁謐が策を出すと、天子に申し上げて司馬懿を太傅に昇らせました。表向きは名を高めながら、内実は尚書の事務がまず自分を経るようにするためでした。弟の曹羲は中領軍、曹訓は武衛将軍、曹彦は散騎常侍となり、ほかの弟たちも列侯として宮中に出入りしました。明帝がうわべばかりを追う浮華の徒として抑えていた南陽の何晏・鄧颺・李勝、沛国の丁謐、東平の畢軌を、曹爽は再び呼び寄せて腹心としました。彼らが権力を人に任せてはならないとけしかけると、何晏・鄧颺・丁謐は尚書となって何晏は人事を握り、畢軌は司隷校尉、李勝は河南尹となって、政務はほとんど司馬懿を経なくなりました。

鄧颺らは、曹爽が天下に威名を立てるべきだとして蜀討伐を勧め、司馬懿が止めたものの防げませんでした。正始5年(244)曹爽は長安で兵六~七万を起こし、駱谷に入りました。関中と氐族・羌族は輸送に耐えられず、牛や馬、ラバやロバが多く死に、民や異民族が道で泣き叫びました。谷に数百里入りましたが、蜀軍が山に拠って固く守ったため進めませんでした。参軍楊偉が、急いで引き返さなければ敗れるとして「鄧颺と李勝は国家の大事を誤るでしょうから、斬るべきです」と言うと、曹爽は不快に思いながらも軍を返しました。『漢晋春秋』は、費禕が三嶺を断つと曹爽は険しい道で苦戦してようやく抜け出し、連れて行った牛馬はほとんど死んで関中の西が空っぽになったと記します。蜀書王平伝は、王平が興勢を守り費禕の援軍が到着すると魏軍が退いたと記し、魏書郭淮伝は、先鋒の郭淮が形勢の不利を見て軍を引いたので大敗には至らなかったと記します。

何晏らは政治を専らにして、洛陽と野王の典農部の桑畑数百頃を分け取り、官の物を横領しました。曹爽の食事や車馬、衣服は天子に比肩するほどで、尚方の珍しい品が屋敷に満ちていました。先帝の才人七、八人をひそかに連れ去り、長吏や楽人、良家の子女三十三人を伎楽としました。太楽の楽器や武庫の禁兵をほしいままに持ち出し、四方を絹の窓で囲った地下室を造って何晏らと酒を飲みました。弟の曹羲はこれを大いに憂えてたびたび諫め、驕りが禍を招くという文を三篇作り、弟たちを戒める形で兄に見せましたが、曹爽は不快に思いました。『晋書』宣帝紀は、正始8年(247)曹爽が何晏・鄧颺・丁謐の策で太后を永寧宮に移し、兄弟で禁兵をともに率いると、司馬懿が5月から病を口実に政務に出なくなったと記します。

正始9年(248)冬、李勝が荊州刺史として赴任するにあたり司馬懿のもとへ挨拶に行くと、司馬懿は病が重いふりをしてやつれた姿を見せ、李勝はそれに気づきませんでした。裴松之注に引く『魏末伝』は、曹爽らが李勝に挨拶にかこつけて司馬懿の様子を探らせたと記し、李勝は戻って「太傅の病はもう治らないでしょう。心が痛みます」と伝えました。

嘉平元年(249)正月、天子が明帝の陵である高平陵に参拝に出かけると、曹爽兄弟はみな随行しました。司馬懿は兵を率いてまず武庫を押さえ、洛水の浮橋に陣を敷いたうえで、曹爽が顧命に背き国法を乱したとして、太后の令によって曹爽兄弟の兵権を取り上げ、侯の身分で屋敷に帰らせるよう求める上奏をしました。曹爽はその上奏文を天子に奉ることができないまま、どうしてよいか分かりませんでした。大司農桓範が城門を抜け出して駆けつけ、天子を奉じて許昌へ行き外の兵を呼び集めようと勧め、曹羲に「天子とともに天下に令を下せば、誰があえて従わないでしょうか」と繰り返し説きましたが、兄弟はためらいました。侍中許允と尚書陳泰は早く罪を請うよう勧め、『世語』は、司馬懿が曹爽の信頼する殿中校尉尹大目を遣わし、官職を返上しさえすればよいと洛水を指して誓ったと記します。『魏氏春秋』によれば、曹爽は兵を解きながら「私は富豪の老人にはなれる」と言い、桓範は泣きながら曹真の息子たちを子牛にたとえ、今日彼らのせいで一族皆殺しになると嘆きました。

曹爽兄弟は官職を失って屋敷に戻りました。『魏末伝』は、民八百人が屋敷を取り囲み、四隅の高楼から見張ったこと、食糧を求める曹爽の手紙に司馬懿が米百斛と干し肉・塩・味噌・豆を送ると、曹爽兄弟は死なずに済むと思って喜んだことを伝えます。まもなく黄門張当が才人たちを曹爽に送った件で捕らえられ、曹爽が何晏らとひそかに謀反を企て、兵を訓練して3月に決起しようとしていたと白状しました。曹爽・曹羲・曹訓と何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当がみな処刑されて三族が滅ぼされ、『晋書』宣帝紀は男女も年齢も問わなかったと記します。蒋済が曹真の功を思えば祭祀を絶やすべきではないと述べましたが、司馬懿は聞き入れませんでした。

陳寿は曹爽について、徳が薄いのに位が高く、満ちあふれる過ちに陥ったのであり、『易』が明らかにし道家が忌むところだと評しました。費禕伝の注に引く殷基の『通語』には、蜀の費禕がこの事件の是非を二篇に分けて論じた文が載っており、一方は曹爽兄弟を宗室というだけの理由で顧命を受けた凡庸な人々とし、もう一方は曹爽に大きな悪がなかったのに司馬懿がその一族を皆殺しにしたのは行き過ぎだとしました。

爽德薄位尊,沈溺盈溢,此固大易所著,道家所忌也
曹爽は徳が薄いのに位が高く、満ちあふれる過ちに陥った。これは『易』が明らかにし、道家が忌むところである『三国志』魏書 諸夏侯曹伝 評
曹子丹佳人,生汝兄弟,犢耳!何圖今日坐汝等族滅矣!
曹子丹は立派な人物だったのに、お前たち兄弟を生んだとは、子牛にすぎぬ! 今日お前たちのせいで一族皆殺しになろうとは思いもよらなかった!『三国志』魏書 曹爽伝 裴松之注の『魏氏春秋』 · 桓範の言葉

三国志演義

『三国演義』 第106~107回

演義では、曹爽は第106回に初めて登場します。病が重くなった明帝が燕王曹宇を大将軍に立てようとしましたが、曹宇が固く辞退すると、曹真の恩を受けた劉放と孫資が「曹子丹の子曹爽」を推挙し、燕王を帰らせたので、曹爽は大将軍となって朝政を握ります。明帝は司馬懿と曹爽に八歳の曹芳を託して死にます。はじめ曹爽は、大事は必ず先に司馬懿に知らせるほど彼に慎んで仕えましたが、門下の何晏が、先公曹真は司馬懿に何度も屈辱を受けて死んだとけしかけると、司馬懿を太傅に昇らせて兵権を取り上げます。弟たちに禁軍を任せ、何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝と毎日酒を飲み、衣服や器物は朝廷と変わらず、先帝の侍妾まで屋敷に入れます。

弟の曹羲が、狩りにふけって人の計略にかかることを心配し、桓範も諫めますが聞き入れません。荊州刺史として赴く李勝を遣わして司馬懿の様子を探らせ、耳が遠いふりをして湯をこぼす司馬懿の姿を伝え聞くと「この老いぼれが死ねば私は心配がない」と大喜びします。天子を奉じて高平陵に参拝に出るとき、兄弟そろって出てはならないと馬を引き止める桓範を、鞭で指して叱りつけます。

第107回で、鷹を放ち犬を走らせて狩りをしていた曹爽は、司馬懿の上奏を受けて落馬しそうになります。弟の曹羲は自ら身を縛って行き死を免れようと言い、桓範は天子を奉じて許都へ行き兵を呼び集めようと言いますが、曹爽は洛水を指して誓ったという尹大目の言葉を信じます。一晩中剣を握って嘆き泣いたあげく「兵を起こさず官を捨てて富豪の老人になればそれでよい」と剣を投げ捨て、桓範は「曹子丹は智謀を誇ったのに、今この兄弟三人はまことに豚と子牛だ」と慟哭します。屋敷に閉じ込められた曹爽は食糧を求め、司馬懿が米百斛を送ってくると害する気はないのだと喜びますが、張当の供述によって兄弟と一味は市で斬られ、三族が滅ぼされます。演義で曹爽が登場するのはここまでで、第110回で文欽と尹大目が曹爽の仇を討とうとした人物として描かれます。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 238明帝が病むと、燕王曹宇に代わって大将軍となりました。
  2. 239司馬懿とともに遺詔を受けて幼い曹芳を補佐し、武安侯となりました。
  3. 239丁謐の策で司馬懿を太傅に昇らせ、表向きは尊びつつ実権を取り上げました。
  4. 244兵六~七万で駱谷を経て蜀を攻めましたが、興勢で阻まれて軍を返しました。
  5. 247何晏らの策で太后を永寧宮に移し、兄弟で禁兵をともに率いました。
  6. 248荊州刺史として赴く李勝の話を聞き、司馬懿がまもなく死ぬと思い込んで備えを解きました。
  7. 249正月、兄弟そろって天子に従い高平陵へ出た間に、司馬懿が洛陽を握りました。高平陵の前の二人
  8. 249桓範の許昌の策を退け、官職を返上しさえすればよいという誓いを信じて兵を解きました。高平陵
  9. 249張当の供述で謀反の罪を着せられ、兄弟と一味はみな処刑されて三族が滅ぼされました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 曹真 · 弟 曹羲 · 曹訓 · 曹彦 など · 妻 劉氏

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

大将軍のお出ましだ。

口を開くとき

大将軍の言葉を軽んじるでない。

言い返すとき

権勢はわが手にある。手短に申せ。

言葉に詰まって

…城を出るべきではなかったか。

言葉に詰まって

あの老人、まことに病んでおったのか。

舌戦に勝って

権勢を握る者こそが正しいのだ。

舌戦に敗れて

…富貴さえ守れればそれでよい。

勝ったあと

大将軍の威光よ。

敗れたあと

…富家の翁では生きられぬのか。

倒れるとき

…富家の翁としても生きられぬのか。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真