衛瓘

字 伯玉 · 220年 ~ 291年 · 司隷河東郡安邑県 · 司馬懿配下

衛瓘の肖像

夜に成都へ入って鄧艾を捕らえ、鍾会の乱をくじいた監軍

能力値

統率69武力45知力79政治86魅力32

カード

攻撃力 3体力 4コスト 3価値 11職分 能吏
挑発 コスト 1
味方1体に挑発 · 棘3(敵はまずその武将を攻撃せねばならず、攻撃するたび3ダメージを受ける)
天運 コスト 3
武将1体の攻撃力と体力をランダムに決め直す

正史

出典 · 『晋書』衛瓘伝と史臣の評 · 文帝紀 · 武帝紀 · 恵帝紀 · 后妃伝 · 『三国志』魏書鄧艾伝 · 鍾会伝と裴松之注の『魏氏春秋』 · 『漢晋春秋』 · 衛覬伝と裴松之注の『晋陽秋』 · 三少帝紀 · 『世説新語』規箴篇

衛瓘は字を伯玉といい、河東郡安邑の人です。『晋書』衛瓘伝によれば、高祖の衛暠が後漢の明帝のとき儒学によって代郡から召されて赴く途中、河東安邑で死ぬと、朝廷がその地を賜って葬らせたので、子孫がそこに住むようになりました。父の衛覬は魏の尚書でした。衛瓘は十歳で父を失いましたが、孝行ぶりは人並み外れており、性格はまっすぐで物静か、道理に明るく、清廉で公正だという評判を得ました。父の爵位である閿郷侯を継ぎました。

二十歳ごろ魏の尚書郎となりましたが、そのころ魏の法は厳しく苛酷で、母の陳氏が案じたので、自ら願い出て通事郎へ移り、続いて中書郎となりました。権臣が政治を牛耳っていた時代でしたが、衛瓘はその間でゆったりと過ごし、誰とも親しくも疎遠にもならず、大臣の傅嘏は彼をたいへん重んじて、春秋時代の衛の大夫甯武子になぞらえました。散騎常侍まで昇った後、陳留王が即位すると侍中となり、節を持って河北を慰撫し、数年後には廷尉卿となって訴訟を実情に即して裁きました。

景元4年(263)、鄧艾と鍾会が蜀を攻めたとき、衛瓘は廷尉卿の官のまま節を受けて二人の軍を監督し、鎮西軍司の職務を代行し、兵1千を与えられました。蜀が平定されると、鄧艾は天子の命にかこつけて勝手に官職を授けました。『三国志』鄧艾伝によれば、司馬昭は監軍衛瓘を通じて、上奏して命を待つよう諭しましたが、鄧艾は聞き入れませんでした。異心を抱いていた鍾会は鄧艾の専横を口実に、衛瓘とともにひそかにその様子を上奏し、詔が下って鄧艾を檻車で召し出すことになりました。

咸熙元年(264)正月、鍾会は衛瓘を先に送って鄧艾を捕らえさせました。衛瓘の兵が少ないので、鄧艾に彼を殺させて鄧艾の罪を重くしようという狙いでした。衛瓘はそれを知りながらも断れず、夜に成都に着くと、鄧艾が率いる将たちに檄文を回しました。詔を奉じて鄧艾だけを捕らえ、残りは一切問わず、官軍のもとに来れば官位と恩賞を元どおり与え、出てこない者は三族を斬るという内容でした。鶏が鳴くころ将たちはみな衛瓘のもとに来て、鄧艾の帳内の者だけが残りました。夜が明けると衛瓘は使者の車に乗ってまっすぐ成都の殿前に至り、まだ起きていなかった鄧艾は子とともに捕らえられました。鄧艾の将たちが彼を奪い返そうと押し寄せると、衛瓘は上表文の草稿をこしらえて見せ、彼らをなだめました。『三国志』鍾会伝は、衛瓘が鍾会より先に行って司馬昭の直筆の令を告げると、鄧艾の兵はみな武器を置いたと記しています。

続いて成都に着いた鍾会は、胡烈ら将たちをすべて呼び集めて閉じ込め、反乱を起こしました。鍾会は衛瓘をそばに引き留め、「胡烈らを殺そうと思う」と板に書いて見せましたが、衛瓘が承知しなかったので、二人は互いに疑い合うようになりました。衛瓘は厠へ行く途中で胡烈のかつての使い走りに会い、三軍に鍾会の反乱を知らせさせ、鍾会と衛瓘は夜通し、それぞれ膝の上に刀を横たえていました。鍾会が兵たちを慰労せよと言うと、衛瓘は「卿は三軍の主ですから、自ら行かれるべきです」と言い、鍾会は「卿は監司なのだから、先に行かれよ」と言いました。衛瓘が殿を下りると鍾会は後悔して呼び戻しましたが、衛瓘はめまいが起きたと言ってわざと倒れ、外の官舎に着くと塩水を飲んで激しく吐きました。もともと痩せた体だったので重篤に見え、鍾会が送った医者も起き上がれまいと言ったので、鍾会は彼を警戒しなくなりました。日が暮れて門が閉じると、衛瓘は檄文を作って諸軍に知らせ、翌日の明け方、諸軍がともに鍾会を攻めて殺しました。『晋書』文帝紀は、衛瓘と胡烈が鍾会を斬ったと記しています。

その後、鄧艾の本営の将兵が檻車を壊して鄧艾を出し、成都へ戻ろうとしました。衛瓘は、鍾会とともに鄧艾を陥れたことが災いを招くのを恐れ、また鍾会を斬った功を独り占めしたくて、護軍田続を綿竹へ送りました。田続は夜に三造亭で鄧艾を襲い、子の鄧忠とともに斬りました。以前、鄧艾が江由(蜀の地)へ下ったとき、田続が進まないとして斬ろうとし、のちに許したことがありましたが、衛瓘は田続を送り出す際に「江由で受けた辱めを晴らせるぞ」と言いました。事が収まると朝廷は衛瓘を封じようとしましたが、彼は、蜀に勝ったのは諸将の力であり、二将は勝手にのさばって自滅したのであって、自分は策を出しただけで旗を奪う功はないとして固く辞退し、鎮西将軍として関中を任されました。

咸熙2年(265)、魏が晋に禅譲すると衛瓘は晋の臣となり、『晋書』武帝紀はその年に彼を菑陽公に封じたと記しています。青州と幽州を任されて行く先々で治績を残し、幽州では東の務桓と西の力微の仲を裂いて、務桓は降伏し、力微は憂えて死にました。朝廷に入って尚書令と司空を歴任し、尚書郎索靖とともに草書に優れて「一台二妙」(一つの役所の二人の名手)と呼ばれました。

恵帝が太子だったころ、朝臣たちはみな、彼は純朴で政治を任せられないと考えていました。衛瓘はいつも廃するよう申し上げたいと思いながら切り出せずにいましたが、陵雲台の宴で酔ったふりをして武帝の御座の前にひざまずき、申し上げたいことがあると言いました。三度言いかけてはやめ、手で御座をなでながら「この座が惜しゅうございます」と言うと、武帝は意図を察しながらも「公はまことにひどく酔われたな」と言いつくろいました。このことで、のちの賈皇后は衛瓘を恨みました。

太熙元年(290)正月、衛瓘は太保となって家に退きました。恵帝が即位して楊駿が死んだ後、汝南王司馬亮とともに朝政を補佐しましたが、諸王を封国へ帰らせようという意見にただ一人賛成して楚王司馬瑋の恨みを買い、賈皇后は恵帝の手詔を手に入れました。291年6月、司馬瑋は夜に清河王司馬遐を送って衛瓘を捕らえさせました。左右の者は詔が偽りかもしれないから抵抗しようと言いましたが、衛瓘は従わず、子の衛恒 · 衛岳 · 衛裔と孫ら九人とともに殺されました。享年七十二でした。のちに朝廷は蜀討伐の功を追って彼を蘭陵郡公に封じ、諡を成としました。

杜預は衛瓘が鄧艾を殺したと聞いて、「伯玉は禍を免れまい。名士の身で総帥の位にありながら徳ある言葉もなく、下の者を正しく治めもしなかったのだから、小人が君子の器に乗ったのだ」と言い、衛瓘はこれを聞くと車を待たずに駆けつけて謝りました。史臣は「衛瓘は武帝の御座をなで、張華は司馬倫の命を拒んだのだから、諫言では伯玉がまさり、危難に臨んでは茂先が見事であった」と評しました。

衛瓘撫武帝之床,張華距趙倫之命,進諫則伯玉居多,臨危則茂先為美
衛瓘は武帝の御座をなで、張華は趙王司馬倫の命を拒んだのだから、諫言では伯玉がまさり、危難に臨んでは茂先が見事であった『晋書』衛瓘 · 張華伝 史臣の評
身為名士,位居總帥,既無德音,又不御下以正,是小人而乘君子之器
名士の身で総帥の位にありながら徳ある言葉もなく、下の者を正しく治めもしなかったのだから、小人が君子の器に乗ったのである『晋書』衛瓘伝に載る杜預の言葉

三国志演義

『三国演義』 第116~119回

演義で衛瓘は、第116回で鍾会が諸将を集めて命令を下すとき、監軍として初めて名が出ます。第117回では、陰平の橋頭を失って勝手に軍を出した諸葛緒を鍾会が斬ろうとすると、諸葛緒は罪こそあれ鄧艾の率いる者であり、将軍が斬るべきではなく、和を損なうのが心配だと諫めます。鍾会は諸葛緒を檻車に載せて洛陽へ送ります。

第118回で司馬昭は、鄧艾に専横の心があると疑って、まず衛瓘に直筆の手紙を送り、鄧艾が太尉に任じる詔を受けると、衛瓘はその手紙を取り出して読み上げ、上奏して待てという意向を伝えます。鄧艾が「将が外にあるときは、君命にも受けざるところあり」と言って従わないと、司馬昭は鍾会を司徒に昇らせ、衛瓘に二手の軍を監督させて鄧艾を見張らせます。

第119回で姜維は鍾会に、監軍衛瓘を先に送って鄧艾を捕らえさせ、鄧艾が衛瓘を殺せば謀反が明らかになるから、そのとき兵を挙げよと勧めます。衛瓘の部下たちは、これは鄧艾に将軍を殺させようという計略だと止めますが、衛瓘は「わしに策がある」と言って、鄧艾だけを捕らえて残りは問わず、出てこない者は三族を滅ぼすという檄文を二十通、三十通と回し、檻車二台を用意して夜道を成都へ向かいます。鶏が鳴くころ、檄文を見た将たちはみな彼の馬前に来て拝し、衛瓘は数十人を率いて踏み込み、「詔を奉じて鄧艾父子を捕らえる」と叫びます。驚いて寝台から転げ落ちた鄧艾と、後から出てきた鄧忠が車に縛りつけられます。

鍾会が反乱を起こすと、衛瓘は胡淵が立てた策を喜んで兵を整え、鍾会と姜維が死んだ後、諸軍にそれぞれ陣営に戻って王命を待つよう命じます。鄧艾の部下たちが檻車を追って彼を救い出そうとしていると聞くと、衛瓘は「鄧艾を捕らえたのはわしだ。彼を生かしておけば、わしには葬られる地もない」と言い、江油を取ったとき自分を殺そうとした恨みを晴らしたいという護軍田続に兵5百を与えて綿竹へ送ります。田続は、檻車から解き放たれて成都へ戻ろうとしていた鄧艾を一刀のもとに斬ります。十日後に賈充が来て民を安んじ、衛瓘は成都を守って残ります。演義で衛瓘が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 260陳留王が即位すると魏の侍中となり、節を持って河北を慰撫しました。
  2. 263廷尉卿として節を受け、鄧艾と鍾会の軍を監督して蜀征伐に出ました。
  3. 263司馬昭の意を奉じて、勝手に官職を授ける鄧艾を諭しました。
  4. 264夜に成都に入り、檄文で将たちを寝返らせて鄧艾父子を捕らえました。
  5. 264鍾会が反乱すると病を装って抜け出し、檄文を回して諸軍に鍾会を討たせました。
  6. 264護軍田続を綿竹へ送り、鄧艾と子の鄧忠を斬らせました。
  7. 264功を辞退し、鎮西将軍 · 都督関中諸軍事となりました。
  8. 265魏が晋に禅譲すると晋の武帝に仕えることになり、菑陽公に封じられました。
  9. 269征東大将軍として青州の軍を任されました。
  10. 271征北大将軍 · 都督幽州諸軍事となって北の辺境を任されました。
  11. 278朝廷に入って尚書令となりました。
  12. 282司空となりました。
  13. 290太保となって家に退きました。
  14. 291楊駿が死んだ後、汝南王司馬亮とともに恵帝の朝廷を補佐しました。
  15. 291楚王司馬瑋が送った兵により、子や孫ら九人とともに殺されました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 衛覬 · 弟 衛実 · 子 衛恒 · 衛宣ら六人 · 孫 衛玠

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

衛瓘である。二将の軍を監督いたす。

口を開くとき

詔は一人を捕らえよと仰せだ。残りは一切問わぬ。

言い返すとき

弁舌に淀みがないな。だが法はその言葉には従わぬ。

言葉に詰まって

…刀を膝に置いて夜を明かしたこともある。この程度は耐えられる。

言葉に詰まって

この座が惜しいという言葉、あのときもついに言い切れなかったな。

舌戦に勝って

策は出したが、旗を奪った功ではない。辞退いたそう。

舌戦に敗れて

小人が君子の器に乗ったと言われたが…その言葉どおりであったか。

勝ったあと

鶏が鳴く前に、将たちはみなわしのもとへ来た。

敗れたあと

めまいの芝居も、今度ばかりは通じぬか。

倒れるとき

詔とあらば…従おう。

同じ旗の下

司馬懿羊祜郭淮司馬師司馬昭王濬孫礼陳泰王基王昶賈充杜預