字 子元 · 208年 ~ 255年 · 司隷河内郡温県 · 司馬懿配下
曹魏の皇帝を廃し、司馬氏の権力を確固たるものにした冷徹な政治家
出典 · 『晋書』景帝紀 · 宣帝紀 · 文帝紀 · 后妃伝 · 文六王伝 · 『三国志』魏書 三少帝紀と裴松之注の『漢晋春秋』 · 『魏書』 · 『魏略』 · 『魏氏春秋』 · 魏書 夏侯玄伝 · 傅嘏伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 毌丘倹伝と裴松之注 · 呉書 諸葛恪伝
司馬師は字を子元といい、司馬懿の長男で、河内郡温県の人です。母の張春華は彼と弟の司馬昭 · 司馬幹を産みました。『晋書』景帝紀は、彼が風采があって沈着剛毅で大きな謀略に富んでいたといい、若い頃から名声があって夏侯玄 · 何晏と名を並べたと記します。何晏は常に「ただ機微を知る者だけが天下の事を成し遂げられる。司馬子元こそその人だ」と言っていました。魏の景初年間に散騎常侍となり、何度か転じて中護軍に至りました。正始8年(247)母が死ぬと喪に服し、至孝で名を知られました。
『晋書』后妃伝によれば、最初の妻夏侯徽は征南大将軍夏侯尚の娘で、見識があり、司馬師が事を企てるたびに前もってともに考えを巡らせました。しかし彼女が夫を魏の純粋な臣ではないと知り、母が魏の徳陽郷主である曹氏であったため、司馬師は彼女を深く忌み、青龍2年(234)彼女はついに鴆毒で死にました。二十四歳で、娘ばかり五人を残しました。司馬師は続いて呉質の娘を迎えたものの離縁し、さらに羊徽瑜を迎えましたが、男子はありませんでした。
嘉平元年(249)司馬懿は曹爽を誅する深謀と密計をただ司馬師とだけひそかに練り、司馬昭は知りませんでした。決行前日の夕方になってようやく司馬昭に知らせ、人に様子を見させると、司馬師はいつものように眠っていましたが、司馬昭は床に安らかに横たわれませんでした。明け方、司馬師が司馬門に兵を集めて内外を鎮め、陣を極めて整然と敷くと、司馬懿は「この子はついにやり遂げられる」と言いました。彼がひそかに養って民間に散らしておいた決死の士3千がこの日一朝にして集まりましたが、誰も彼らがどこから来たのか知りませんでした。事が平定されると長平郷侯に封じられて食邑千戸を受け、まもなく衛将軍を加えられました。
嘉平3年(251)司馬懿が死ぬと、論者たちはみな「伊尹が死ぬと伊陟が事を継いだ」と言い、天子は彼を撫軍大将軍 · 録尚書事として政治を補佐させました。翌年(252)正月、大将軍となり侍中 · 持節 · 都督中外諸軍 · 録尚書事を加えられ、制度を改めようと言う者には、軍事でなければ三祖の法度をみだりに改めてはならないと言いました。その年の12月、呉を討った魏軍が東関で諸葛恪に大敗しました。『漢晋春秋』によれば、朝廷が諸将を罷免しようとすると、彼は「これはわしの過ちだ。諸将に何の罪があろうか」と言ってみな許し、監軍だった弟司馬昭の爵位だけを削りました。習鑿歯は、敗北を自分の過ちとしたことで業績がかえって高まったとして、智者であると評しました。
嘉平5年(253)5月、呉の太傅諸葛恪が新城を囲むと、朝廷は彼が淮水と泗水の方面を狙うのではと憂えましたが、司馬師は彼が合肥に力を集めるだろうと言い、果たしてそのとおりでした。毌丘倹と文欽が出戦を請うと、彼は「諸葛恪は深く入り込み死地に軍を投じたので、その鋒先に当たるのは容易ではなく、新城は小さくとも堅固で攻め落とせないだろう」と言い、塁を高くして敵を疲れさせました。数か月のうちに諸葛恪の軍は死傷者が大半となり、『三国志』諸葛恪伝は呉軍に暑さで下痢やむくみを病む者が大半だったと記します。退く諸葛恪を文欽が大いに破り、1万余の首を斬りました。
嘉平6年(254)春、中書令の李豊が皇后の父張緝らと謀り、太常の夏侯玄に彼の地位を任せようとしました。『三国志』夏侯玄伝は、彼らが貴人を冊立する日に大将軍を斬ろうとしたと記します。司馬師はひそかにこれを知り、舎人の王羨を遣わして車で李豊を連れて来させて詰問し、禍が及ぶと悟った李豊が罵声を浴びせると、勇士に刀の環で打ち殺させました。夏侯玄 · 張緝らは捕らえられてみな三族が滅ぼされ、3月に皇后張氏が廃されました。天子がこの件で心を安んじられずにいると、司馬師も乱が起きるのを恐れてひそかに廃立を謀りました。9月、皇帝が政務を見ず俳優たちと遊んで人倫を乱したという太后の令が下ると、彼は群臣を集めて涙を流しながら「太后の令はこのとおりだ。諸君は王室をどうするか」と言い、群臣は伊尹と霍光の故事を挙げて命に従うと言いました。そこで皇帝の璽綬を取り上げて斉王として送り返し、河内の重門に住まわせました。裴松之注に引く『魏略』は、太后が大将軍に会って話したいことがあると言うと、彼の遣わした郭芝が「どうしてお会いになれましょう。早く玉璽をお出しください」と言って阻んだと記します。司馬師は彭城王曹拠を立てようとしましたが、太后が高貴郷公曹髦にこだわると固く争ったのちに従い、新しい天子が授けた相国の位は固辞しました。
正元2年(255)正月、鎮東将軍毌丘倹と揚州刺史文欽が太后の令を偽って兵を挙げ、2月に6万の兵で淮水を渡りました。裴松之注に載る二人の上表は司馬師の罪を十一挙げました。諸将を派遣しようという議論が多かったものの、王粛 · 傅嘏 · 鍾会は自ら出陣するよう勧めました。『漢晋春秋』は、この時彼が目の瘤を切ったばかりで傷がひどかったが、諸将が敗れれば大勢を失うという傅嘏の言葉を聞いて跳ね起き、「病身を車に載せてでも東へ行く」と言ったと記します。彼は中軍の歩騎10余万を率いて出陣し、塁を深く高くして、長く持ちこたえれば戦わずして勝つと言い、兗州刺史の鄧艾を楽嘉に送って弱いふりをさせ敵を誘いました。鄧艾を討ちに来た文欽と楽嘉で遭遇すると、十八歳で勇猛が三軍随一であった文欽の子文鴦が三度太鼓を打ち鬨の声を上げましたが、文欽は呼応できませんでした。司馬師は「一たび鼓すれば気が起こり、再びすれば衰え、三たびすれば尽きる」と言って精鋭で追撃して大いに破り、文欽は呉へ逃れ、毌丘倹は安風津の都尉に斬られました。
『晋書』は、これより前に彼の目に瘤があって医者に切らせていたが、文鴦が攻め込んでくると驚いて目玉が飛び出したと記します。彼は兵たちが恐れるのを案じて布団をかぶってそれを嚙み、痛みに耐えたので、そばの者も気づきませんでした。閏月に病が重くなると弟の司馬昭に諸軍を統べさせ、辛亥の日に許昌で死にました。四十八歳でした。諡は忠武でした。晋が建てられると景王に、甥の司馬炎が禅譲を受けた後には景皇帝と追尊され、陵は峻平、廟号は世宗でした。男子がなかったので司馬昭の子司馬攸が彼の跡を継ぎました。『晋書』の史臣は「世宗(司馬師)は明察な謀で基を開き、太祖(司馬昭)は優れた才で業を成し遂げた」と評し、賛では「世宗が後を継ぐと国の権勢は分かれず、三千の士が雲のように従った」と述べました。
世宗以睿略創基,太祖以雄才成務惟幾也能成天下之務,司馬子元是也『三国演義』 第94回 · 第102~104回 · 第106~110回 · 第119回
演義で司馬師は第94回に司馬懿の長男として初めて登場します。字は子元で、弟の司馬昭とともに大志を抱き兵書に通じていたと紹介され、孟達の謀反を知った父に、上表して天子に奏上するよう言うと「聖旨を待てば一月かかる」という答えを聞きます。第102回では鄭文の書状だけを信じて自ら蜀の陣営を攻めようとする父を止めて別の将を先に送らせ、第103回では蜀軍が渭水のほとりで魏の民に交じって屯田するのを憂え、魏延を追って父 · 弟とともに上方谷の炎に閉じ込められます。第106回では襄平で弟とともに公孫淵の道を塞ぎ、李勝の前で病のふりをした父が二人の息子を率いて曹爽を討ちに出ます。
第107回の終わりで演義は彼を、丸顔に大きな耳、左目の下に黒い瘤があり、瘤の上に黒い毛が数十本生えた驃騎将軍として描きます。姜維の退路を断ったものの三合で敗れ、第108回では陽平関で連弩に追われてかろうじて命拾いします。司馬懿が「慎め、慎め」と言い残して死ぬと大将軍となり、尚書の機密をすべて掌握します。孫権が死ぬと、傅嘏が止めるのも聞かず「天道は三十年に一度変わる」と言って呉を討たせますが東興で敗れ、新城を囲んだ諸葛恪に対しては、呉軍は遠来で兵糧が少ないので尽きれば退くという虞松の言葉に従います。
第109回で司馬師は弟とともに朝廷を握り、曹芳は彼を見るたびに震え、彼は剣を帯びたまま殿上に上ります。曹芳が血で書いた密詔を夏侯玄 · 李豊 · 張緝に渡すと、東華門で彼らに会って赤い目を問いただし、張緝の身から密詔を見つけ出して三人を市で腰斬にし、三族を滅ぼします。続いて張皇后を白絹で絞め殺し、伊尹と霍光の法を挙げて曹芳を斉王として送り返します。彭城王曹拠を立てようとしたものの、太后の意向に従って高貴郷公曹髦を立てます。
第110回で毌丘倹 · 文欽が挙兵した時、彼は左目の瘤を切って家で休んでいましたが、鍾会の言葉に跳ね起きて自ら出陣します。楽嘉で夜に文鴦が陣営に躍り込むと、驚いて瘤を切った跡から目玉が飛び出し、軍心が揺らぐのを恐れて布団をかみ、布団はずたずたになります。許昌に退いた彼は毎夜、李豊 · 張緝 · 夏侯玄が枕元に立っているのを見たあげく、駆けつけた司馬昭に「大事を軽々しく人に任せるな」と言って印綬を渡し、大声を上げた後、目玉が飛び出して死にます。演義はその日を正元2年2月と記します。演義で司馬師が登場するのはここまでで、第119回で甥の司馬炎が帝位に就き、彼を景帝と追尊します。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 司馬懿 · 母 張春華 · 弟 司馬昭 · 司馬幹 · 妻 夏侯徽 · 呉氏 · 羊徽瑜 · 娘 五人 · 跡を継いだ甥 司馬攸
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
道を空けよ。
話は短くされよ。わしは決断のみを残す。
役に立つ言葉なら聞こう。
…目がうずく。
この程度で揺らぐわしではない。
決断こそ権力だ。
…弟に任せるほかないか。
道を阻む者は片付けた。
…弟に任せる事が残ったか。
…目が破れた。昭に伝えよ。