字 士治 · 206年 ~ 286年 · 司隷弘農郡湖県 · 司馬懿配下
益州で楼船を築き長江を下って呉を滅ぼした、統一の最後の一手
出典 · 『晋書』王濬伝と史臣の評 · 武帝紀 · 羊祜伝 · 杜預伝 · 王渾伝 · 吾彦伝
王濬は字を士治といい、弘農郡湖県の人です。家は代々二千石の官を務めていました。経典を広く読み、容貌も美しかったものの、身持ちを修めなかったので郷里で褒められず、遅くなってから心を改め、闊達で寛大になり大志を抱きました。家を建てる際に門前の道を数十歩も広く取ったので、人々がやり過ぎだと言うと、彼は長い矛と旗が入れるようにしたいのだと言い、嘲る者には陳勝の言葉を借りて「燕や雀にどうして鴻鵠の志がわかろうか」と言いました。河東従事に召されると、清廉でない県令たちは噂を聞いただけで自ら辞めていきました。刺史の徐邈が才ある娘の婿を選ぼうと属吏を集め、娘に奥から見させたところ、娘が王濬を指したので、徐邈は彼を婿としました。
のちに軍事に参与しましたが、羊祜が彼を深く認めていました。羊祜の甥の羊暨が、彼は志が大きすぎて奢侈なので単独で任せてはならないと言うと、羊祜は「王濬には大才がある。その望みをかなえてやれば、必ず役に立つ」と言いました。巴郡太守となったとき、呉と接する郡なので兵士が賦役に苦しみ、男児が生まれても育てないことが多かったのですが、彼は法を厳しくして賦役を軽くし、子を産み育てる家は賦役を減じて数千人を救いました。広漢太守を経て、泰始8年(272)に益州の張弘が刺史の皇甫晏を殺すと、益州刺史となって張弘らをすべて斬り、関内侯に封じられました。これより前、彼は梁に刀が三本掛かり、さらに一本加わる夢を見ましたが、主簿の李毅は、刀三本は「州」の字で、一本増えたのだから益州に臨むことになると解いたといいます。のちに右衛将軍を経て大司農となりましたが、羊祜は彼に奇策があることを知って、ひそかに上表して彼を益州に留めさせました。
武帝が呉討伐を計画して船の修理を命じると、彼は大船を連結して百二十歩四方とし、二千余人が乗れるようにしました。木で城を築いて望楼を上げ、四方に門を設けて、その上を馬で駆けて行き来できるようにしました。船首には鷁首と怪獣を描いて江の神を恐れさせたので、船の盛大さは古来なかったほどでした。蜀で船を造るために削った木屑が江を覆って流れていくと、呉の建平太守吾彦がそれを拾って孫皓に献じ、晋は必ず呉を攻めるので建平の兵を増やすべきだと言いましたが、孫皓は聞き入れませんでした。『晋書』吾彦伝は、その後吾彦が自ら鉄鎖を作って江の水路を断ったと記しています。王濬は「阿童」の童謡によって龍驤将軍 · 監梁益諸軍事となりました。朝廷の議論がみな征討に反対すると、彼は上疏して「臣が船を造って七年、日々朽ちていきます。臣の年もすでに七十で死ぬ日も遠くありません。三つのうち一つでも狂えば、事を図るのは難しくなります」と述べ、時機を逃さぬよう求めました。
太康元年(280)正月、王濬は成都を発ち、巴東監軍の唐彬とともに丹楊城を破りました。呉は江の険所ごとに鉄鎖を張り渡して塞ぎ、一丈余りの鉄錐を水中にひそかに打ち込んでいましたが、彼は百余歩四方の大筏数十を作って、鎧を着せ矛を持たせた藁人形を立て、泳ぎの上手な者たちに先導させたので、鉄錐は筏に刺さって一緒に流されていきました。また長さ十丈余り、太さ数十囲の松明に麻油を注いで船の前に置き、鉄鎖に出会うと焼いたので、たちまち溶けて切れました。2月に西陵を破り、荊門 · 夷道 · 楽郷を相次いで落とし、平東将軍 · 都督益梁諸軍事となりました。夏口と武昌も持ちこたえられず、船を漕いで真っすぐ三山に至ると、孫皓が送った游撃将軍張象の水軍1万が旗を見ただけで降伏しました。孫皓は降伏の文書を送り、3月に王濬が石頭城に入ると、白い車に白い馬で、後ろ手に縛り、璧を口にくわえ、棺を車に載せるという亡国の礼を整えて、太子孫瑾ら二十一人とともに軍門に出てきました。王濬は自らその縛めを解き、璧を受け取って棺を焼いた後、彼を都へ送りました。地図と文書を収め、倉庫を封じたので、兵士たちが私物にしたものはありませんでした。
これより前、詔は王濬が建平を下れば杜預の指揮を、秣陵に至れば王渾の指揮を受けるよう定めていました。杜預は、王濬が建平を下れば流れに乗って長駆するはずだから自分の指揮を受けさせるべきではないとして、西陵の王濬に直ちに秣陵を攻めよという書状を送りました。秣陵の近くに至ると、王渾がしばし立ち寄って事を協議しようと言いましたが、彼は帆を揚げて真っすぐ進みながら「風が良く、船を止められない」と答えました。孫皓の中軍を破りながら兵を止めて進まなかった王渾は、恥じて怒り、王濬が詔に背いて指揮を受けなかったと上奏しました。有司は檻車で彼を召還するよう求めましたが、武帝は許さず、叱責の詔を下すにとどめ、王濬は上書して自らを弁明しました。王渾の側がさらに、彼の兵が呉の宝物を手に入れたと上奏すると、王濬は軍紀を厳しくして民の物を毛ほども犯さず、違反した十三人を斬ったと反論しました。
都に着くと、有司は再び大不敬として廷尉に引き渡すよう求めましたが、武帝は一度の過ちで征伐の功を覆い隠すことはできないとして、彼を輔国大将軍とし、襄陽県侯に封じて一万戸を与え、子の王彝を楊郷亭侯に封じました。それでも彼は、自分の功は大きいのに王渾父子と権勢家に抑えられていると考え、武帝に謁見するたびに戦功と無念を並べ立て、怒って挨拶もせずに退出することもありました。外戚の范通が、帰還してからは呉平定のことを口にせず、誰かに尋ねられたら聖主の徳と諸将の力だと言うよう勧めると、彼は、はじめは鄧艾のように禍が及ぶのを恐れて言わずにはいられなかったのだと答えました。当時の人々は彼の功が大きいのに報いが軽いと考え、武帝は彼を鎮軍大将軍 · 散騎常侍に昇進させました。呉平定の後、彼はかつてのように質素には暮らさず、美食と絹の衣で贅沢をし、召し抱える者はたいてい蜀の人で、旧知を捨てないことを示しました。
太康6年(285)に撫軍大将軍 · 開府儀同三司となり、その年の12月に80歳で死去しました。西暦では286年初めにあたります。諡は武で、柏谷山に葬られ、子の王矩が跡を継ぎました。『晋書』の史臣は、呉を討った戦いに将は多かったが、呉平定の功は王渾と王濬が筆頭だとしながらも、功を誇り気勢を張って互いにそしり合ったことを惜しみ、賛では「王渾は善人を害し、王濬は功を誇った」と記しました。
于時討吳之役,將帥雖多,定吳之功,此焉為最濬舉帆直指,報曰:「風利,不得泊也。」『三国演義』 第120回
演義で王濬は最終回の第120回に登場します。陸抗と丁奉が死んだ後、益州刺史王濬は、孫皓は荒々しく暴虐だから急いで討つべきだとし、孫皓が死んで賢君が立てば強敵となる、船を造って七年で日に日に朽ちていく、自分の年は七十で死ぬ日も遠くないので時機を逃すなという上疏を奉ります。司馬炎は王公の議論が羊都督の考えとぴったり合うとして心を決めますが、王渾の上奏でいったん取りやめ、杜預の上表が届くと、龍驤将軍王濬と広武将軍唐彬に江に沿って東へ下らせます。
孫皓が憂えると、宦官の岑昏が江の要害ごとに鉄鎖を張り渡し、鉄錐数万本を水中に置こうと言います。王濬はこれを聞いて大笑いし、大筏数十に鎧を着て槍を持った藁人形を立てて流れに浮かべると、呉の兵は生きた人と思って逃げ、鉄錐は筏に刺さって一緒に流されます。また筏の上に長さ十丈余りの松明を作って麻油を注いでおき、鉄鎖に出会うと焼いてたちまち断ち切ります。三山を通るとき、船頭が風と波が激しいので待とうと言うと、剣を抜いて叱りつけ、太鼓を鳴らして進みます。呉の将張象が降伏して石頭城の門を開けます。孫皓は自ら身を縛り、棺を車に載せて王濬の軍門に出て降伏し、王濬は縛めを解いて棺を焼き、王の礼で遇します。演義はここに、王濬の楼船が益州を下ると金陵の王気が暗く消えたという唐人の詩を添えます。王濬は孫皓を連れて洛陽に帰り、司馬炎は彼を輔国大将軍に封じます。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
妻 徐氏(徐邈の娘) · 子 王矩 · 王暢 · 王彝 · 孫 王粋(王暢の子)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
益州から船を率いて来た。
長江を下ればよいだけのこと。
船はすでに造り終えてある。
…鉄鎖にかかったか。
水路が塞がるな。
鉄鎖も筏の火には溶ける。
…功を争って事を誤りそうだ。
水路を最後まで行った。
…水路が塞がったか。
楼船が江を下ったのだ、それでよい。