杜預

字 元凱 · 222年 ~ 285年 · 司隷京兆尹杜陵県 · 司馬懿配下

杜預の肖像

破竹の勢いで荊州を平定し、左伝に注を付けた晋の将

能力値

統率86武力30知力85政治80魅力81

カード

攻撃力 3体力 5コスト 3価値 10職分 軍師
招魂 コスト 3
撤退した味方1体を体力半分で復帰させる

正史

出典 · 『晋書』杜預伝と史臣の評 · 武帝紀 · 羊祜伝 · 王濬伝 · 『三国志』魏書杜畿伝と裴松之注

杜預は字を元凱といい、京兆尹杜陵県の人です。祖父の杜畿は魏の尚書僕射、父の杜恕は幽州刺史を務めました。彼は博学で多くのことに通じ、興亡の理に明るく、常々「徳は望んで及べるものではないが、功を立て言を残すことならば、ほぼ望みうる」と言っていました。父の杜恕が宣帝司馬懿と不仲で、幽閉されたまま死んだため、彼は長く仕官できませんでした。『三国志』杜畿伝は、杜恕が嘉平元年(249)に弾劾を受けて庶人となり章武郡に移されたと記し、甘露2年(257)に河東の楽詳が杜畿の功績を上奏すると、杜恕の子杜預を豊楽亭侯に封じたと記します。『晋書』は、文帝司馬昭が跡を継ぐと、杜預がその妹の高陸公主と結婚し、尚書郎として出仕したと記します。

尚書郎を四年務めたのち相国府の参軍事となり、景元4年(263)に鍾会が蜀を攻めた際にはその鎮西長史となりました。翌年鍾会が反乱を起こすと幕僚たちはみな害を受けましたが、杜預だけは知恵で禍を免れ、封邑1,150戸を加えられました。車騎将軍賈充らと律令を定めると、その注解を著して上奏し、「法とは墨縄で断ち切る規範であって、理を究め尽くす書ではない」と述べ、その注解は詔によって天下に頒布されました。泰始年間には河南尹を務め、官吏の成績を評定する法を上奏しました。

司隷校尉石鑑の弾劾で官を失いましたが、隴右が侵されると安西軍司として出て秦州刺史となりました。安西将軍石鑑が出兵を急かすと、彼は、敵は勝ちに乗じて馬も肥えており官軍は手薄なので、力を合わせて春を待つべきだとして「五つの不可と四つの不須」を上奏しました。怒った石鑑は再び彼を弾劾し、檻車で廷尉に送りました。公主の夫であったため侯の爵位で罪を贖いましたが、のちに隴右の事態は結局彼の計略どおりになりました。匈奴の劉猛が反乱を起こすと度支尚書となり、藉田を設け、常平倉を興し、穀価や塩の運搬、課税の法を定めるなど、国を利し辺境を救う五十余条を上奏し、すべて採用されました。

彼は暦が日影と合わないとして『二元乾度暦』を献上し、孟津の渡しが険しく船が転覆する恐れがあったため、富平津に黄河の橋を架けようと提案しました。殷や周の聖賢も架けなかったものだという反対を退けて橋が完成すると、武帝は百官を率いて訪れ、杯を挙げて「卿がいなければ、この橋はできなかった」と言いました。漢末に失われた周の廟の欹器も、彼が考案して作り直し、献上しました。朝廷にあること七年、さまざまな事柄を増減して数えきれないほどであったので、朝野は彼を「杜武庫」と呼びました。武器庫のように何でもそろっているという意味です。

武帝はひそかに呉を滅ぼす計画を抱いていましたが、朝廷の議論の多くはそれに反し、杜預と羊祜・張華だけが武帝の意に適っていました。咸寧4年(278)、病んだ羊祜が自分の後任に彼を推挙すると、彼は平東将軍の職務を代行して征南軍司を兼ね、羊祜が死ぬと鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となりました。任地に着くと呉の西陵督張政を奇襲して大いに破り、張政が敗北を孫皓に隠すと、捕らえた者たちを孫皓のもとへ送り返して、張政が召還され将が交代するように仕向けました。翌年、武帝が大征伐を次の年に延ばそうとすると、杜預は繰り返し上表して、今回の企ては十のうち八、九が利であり、その害は功がないことにとどまるだけで、いま中止すれば孫皓は都を武昌に移して城を修築し、来年には手が出せなくなるだろうと述べました。上表が届いたとき武帝と碁を打っていた中書令張華が碁盤を押しのけて征伐を勧めると、武帝は許可しました。

太康元年(280)正月、杜預は江陵に軍を展開し、諸将を送って長江沿いに西へさかのぼらせ、十日のうちに次々と城を落としました。牙門将周旨らに精兵8百を与えて夜に船で長江を渡らせ、楽郷を襲わせて山に火を上げさせると、呉の都督孫歆は「北から来た諸軍は、飛んで江を渡ったのか」と震え上がりました。周旨らは潜伏したのち、王濬を防ぎに出て敗れて戻る孫歆の兵に紛れ込み、彼を幕舎の下で生け捕りにしました。続いて江陵に進み、偽って降伏しつつ城壁に兵を並べた伍延を攻めて城を落とすと、沅水・湘水以南から交州・広州に至る呉の州郡が風を望んで印綬を差し出してきました。このとき諸将が集まった席で、ある者が、暑さが来て水かさが増し疫病が起こるので冬を待とうと言うと、杜預は「いま兵の威勢はすでに奮っている。竹を割るようなもので、数節が割れたあとはみな刃を迎えておのずと裂ける」と言い、諸将に道を指し示してまっすぐ秣陵へ進ませました。孫皓が平定されると、彼は当陽県侯に進み、以前の分と合わせて9,600戸を受け、子の杜耽は亭侯となりました。

任地に戻った彼は、天下が安泰でも戦を忘れれば危ういとして武芸を修めさせ、学校を建てました。古い水路を修復して滍水と淯水の水を引き、田畑1万余頃に注いだので民は彼を「杜父」と呼び、楊口を開いて巴陵まで千余里の水路を通し、長江の険しさを避けて南方の漕運を通じさせました。後世に功を残すことを好み、功績を刻んだ碑を二つ作って、一つは万山の麓の水中に沈め、一つは峴山の上に立てました。『晋書』は、彼は自ら馬に乗らず、弓を射ても鎧の札を貫けなかったが、大事を任されるたびに将帥の列に並んだと記します。功を立てたのちは経書に心を注ぎ、『春秋左氏経伝集解』と『釈例』・『盟会図』・『春秋長暦』を著し、老年になってようやく一家の学を成しました。彼が、馬をよく見分ける王済には馬癖、財を蓄える和嶠には銭癖があると言うと、武帝は卿にはどんな癖があるのかと尋ね、彼は「臣には『左伝』癖がございます」と答えました。

その後、司隷校尉として召される途中、鄧県に至って死にました。太康5年(284)閏12月のことで、西暦では285年初めにあたり、享年六十三でした。征南大将軍・開府儀同三司を追贈され、諡は成です。生前に遺した言葉どおり洛陽の東、首陽山の南に洛水の丸石で質素に葬られ、子の杜錫が跡を継ぎました。『晋書』の史臣は、彼が「長い鞭を振るって攻め取りながら、儒者の風を兼ねて転戦した」と言い、『春秋』の五伝のうち、ひとりで一つを占めたと評しました。

振長策而攻取,兼儒風而轉戰
長い鞭を振るって攻め取りながら、儒者の風を兼ねて戦場を転々とした『晋書』羊祜 · 杜預伝の史臣の評
今兵威已振,譬如破竹,數節之後,皆迎刃而解,無復著手處也
いま兵の威勢はすでに奮っている。竹を割るようなもので、数節ののちはみな刃を迎えて裂け、もはや手を加えるところがない『晋書』杜預伝

三国志演義

『三国演義』 第120回

演義で杜預は最終回の第120回に登場します。病の重い羊祜が司馬炎に右将軍杜預を推挙し、司馬炎は彼を鎮南大将軍・都督荊州事とします。演義は、彼が老練で学問を怠らず、左丘明の『春秋伝』を最も好んで読み、座っても寝ても手元に置き、出入りの際にも人に『左伝』を持たせて馬前に掲げさせたので、人々が「左伝癖」と呼んだと紹介します。

王渾の上奏で司馬炎が出兵を止めさせたとき杜預の上表が届き、張華が碁盤を押しのけて勧めると、司馬炎は杜預を大都督とし、兵10万で江陵へ出陣させ、諸道の軍をすべて彼の指揮下に置きます。杜預は牙将周旨に水軍8百を与え、ひそかに長江を渡って楽郷を襲い、巴山に潜んで旗を立て火を上げさせます。孫歆と戦って退くふりをしておびき出したのち四方から攻めて大勝し、紛れ込んでいた周旨が「北の兵は飛んで江を渡ったのか」と驚く孫歆を斬ります。城を捨てて逃げた伍延が捕らえられるとこれを斬って江陵を得、沅水・湘水一帯がことごとく降伏し、武昌も降ります。

諸将が集まった席で胡奮が、春の水かさが増して長くとどまるのは難しいので来年の春を待とうと言うと、杜預は楽毅の故事を挙げ、「いま兵の威勢は大いに奮い、竹を割る勢いのようである。数節ののちはみな刃を迎えて裂ける」と言い、建業を攻める日を諸将と約します。賈充が兵を収めようと言ったときも彼の上表が届いて進撃が続きます。孫皓が王濬に降伏した翌日に杜預も到着し、三軍を大いにねぎらい、倉を開いて呉の民を救います。演義で杜預が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 257祖父杜畿の功績が上奏され、豊楽亭侯に封じられました。
  2. 263鍾会が蜀を攻めた際、その鎮西長史となりました。
  3. 264鍾会の反乱で幕僚がみな害を受けるなか、ひとり知恵で禍を免れました。
  4. 268賈充らと定めた律令に注解を著して上奏し、天下に頒布されました。
  5. 271匈奴劉猛の反乱のころ度支尚書となり、五十余条の方策を上奏しました。
  6. 274富平津に黄河の橋を架け、武帝の称賛を受けました。
  7. 278羊祜の推挙でその後を継ぎ、鎮南大将軍・都督荊州諸軍事となりました。
  8. 279繰り返し上表して呉の征伐を請い、武帝が許しました。晋を開いた二人
  9. 280江陵を落とし、竹を割る勢いだとして、まっすぐ秣陵へ進ませました。破竹の勢い
  10. 280呉が平定されると当陽県侯に進み、9,600戸を受けました。晋の統一
  11. 285司隷校尉として召される途中、鄧県で六十三歳で死にました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

祖父 杜畿 · 父 杜恕 · 妻 高陸公主(司馬昭の妹) · 子 杜錫 · 杜耽

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

晋の杜元凱である。

口を開くとき

杜元凱である。竹を割るがごとく参ろう。

言い返すとき

書で読んだことをそのまま使おう。

言葉に詰まって

…節ひとつが引っかかるな。

言葉に詰まって

ここさえ過ぎれば割れる。

舌戦に勝って

数節さえ割れれば、あとはおのずと裂ける。

舌戦に敗れて

…刃が鈍ったか。

勝ったあと

阻むものはなかった。

敗れたあと

…竹が強靭であったな。

倒れるとき

破竹の勢いと言うた。成し遂げた。

同じ旗の下

司馬懿羊祜郭淮司馬師司馬昭王濬孫礼陳泰衛瓘王基王昶賈充