字 益徳 · 不詳 ~ 221年 · 幽州涿郡 · 劉備配下
長坂橋を塞いだ大喝と義で蜀漢を築いた天下の猛将
出典 · 『三国志』蜀書 張飛伝 · 関羽伝 · 先主伝 · 魏延伝 · 二主妃子伝 · 後主伝 · 魏書 武帝紀と裴松之注の『英雄記』 · 『魏略』 · 『趙雲別伝』 · 『零陵先賢伝』
張飛は字を益徳といい、涿郡の人です。若いころに関羽とともに劉備に仕えましたが、関羽が数歳年上だったので兄として仕えました。関羽伝は、劉備が郷里で人々を集めると関羽と張飛が護衛となり、劉備が平原相になると二人が別部司馬として部曲を分けて率いたと記します。劉備は二人と同じ寝台で眠り、兄弟のように慈しみましたが、人の多い席では二人は終日そばに立って仕えました。
建安元年(196)、劉備が袁術と対峙している間に下邳の守将曹豹が背いて呂布を迎え入れたと先主伝は記します。裴松之注に引く『英雄記』は、下邳を守っていた張飛が陶謙の旧将曹豹を殺そうとしたので曹豹が呂布を呼び込み、張飛は戦いに敗れて逃げたと伝えます。劉備が曹操に従って呂布を破り許へ戻ると、曹操は張飛を中郎将とし、張飛は曹操に背いた劉備に従って袁紹や劉表に身を寄せました。裴松之注に引く『魏略』は、建安5年(200)、夏侯覇の従妹が十三、四歳のとき郷里で薪を取りに出たところを張飛に捕らえられ、張飛は良家の娘であることを知って妻にしたと伝えます。
建安13年(208)、劉表が死に曹操が荊州に入ると、劉備は南へ逃れました。曹操が一昼夜追って当陽の長坂で追いつくと、劉備は妻子を捨てて逃げ、張飛に騎兵二十で後ろを防がせました。張飛は川を盾に橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえて「我こそは張益徳である。来て死を賭して戦おう」と叫び、敵は誰ひとりあえて近づかなかったため、劉備は難を免れました。劉備が江南を平定すると、張飛は宜都太守 · 征虜将軍となって新亭侯に封じられ、のちに南郡へ移りました。
劉備が益州に入ったのち、孫夫人が後主を連れて呉へ帰ろうとしたとき、趙雲と張飛が兵を率いて長江を遮り、後主を取り戻したと裴松之注に引く『趙雲別伝』は伝えます。劉備が葭萌から引き返して劉璋を攻めると、張飛は諸葛亮らとともに長江をさかのぼり、郡県を手分けして平定しました。江州で劉璋の将である巴郡太守厳顔を生け捕りにした張飛が、なぜ降伏せずに抗戦したのかと叱ると、厳顔は「我が州には首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はいない」と答えました。怒った張飛が首を斬れと命じても厳顔が顔色一つ変えなかったので、張飛は彼を立派だと思って釈放し、賓客としました。張飛は通る先々で戦って勝ち、成都で劉備と合流し、益州が平定されると諸葛亮 · 法正 · 関羽とともに金五百斤、銀千斤、銭五千万、絹千匹を賜り、巴西太守となりました。
建安20年(215)、曹操が張魯を破って夏侯淵と張郃を漢中に残すと、張郃は巴西に南下してその民を漢中へ移そうとしました。宕渠 · 蒙頭 · 盪石へ進んだ張郃と五十日あまり対峙した張飛は、精兵一万余りを率いて別の道から出て迎え撃ちましたが、山道が狭いため張郃の兵は前後が互いに助け合えませんでした。張郃は馬を捨てて山を登り、配下十数人と間道から南鄭へ帰り、巴の地は安定しました。先主伝はこの戦場を瓦口と記します。武帝紀によれば、建安22年(217)に張飛は馬超 · 呉蘭らと下弁へ進みましたが、翌年曹洪が呉蘭を破ると漢中へ退きました。
建安24年(219)、劉備が漢中王になると、張飛は右将軍 · 仮節となりました。魏延伝は、漢中を守る人物として誰もが張飛を挙げ、張飛自身もそう思っていたが、劉備は魏延を抜擢したと記します。章武元年(221)、劉備が帝位に就くと、張飛は車騎将軍として司隷校尉を兼ね、西郷侯に昇りました。
張飛は勇猛で荒々しく関羽に次ぎ、魏の謀臣程昱らは関羽と張飛を万人に敵する者と称しました。関羽は兵卒をよく遇しましたが士大夫には驕り、張飛は君子を愛し敬いましたが目下の者をいたわりませんでした。裴松之注に引く『零陵先賢伝』には、張飛が劉巴の家に行って泊まったものの、劉巴が口をきかなかったので張飛が腹を立て、諸葛亮が、張飛は武人ではあるがあなたを敬慕しているのだと劉巴をなだめたという話があります。劉備は常に「そなたは刑罰で人を殺すのが度を越しているうえ、毎日健児を鞭打ちながらそばに置いている。これは禍を招く道だ」と戒めましたが、張飛は改めませんでした。劉備が呉を討とうと出陣すると、張飛は兵一万を率いて閬中から江州へ向かうことになりましたが、出発の直前、帳下の将の張達と范彊が張飛を殺し、その首を持って川を下り孫権のもとへ逃げました。先主伝はこの事件をその年の6月に記します。張飛の陣営の都督が上表したと聞いただけで、劉備は「ああ、張飛が死んだ」と言いました。
景耀3年(260)、蜀漢は張飛に桓侯の諡を贈りました。長男の張苞は早世し、次男の張紹が跡を継いで侍中 · 尚書僕射に至り、張苞の子の張遵は尚書として景耀6年(263)、諸葛瞻に従って綿竹で鄧艾と戦って死にました。張飛の長女は章武元年に皇太子妃となり、建興元年(223)に後主の皇后となりましたが、彼女が死んだのちは妹が再び皇后となりました。陳寿は、関羽と張飛はともに万人に敵すると称された当代の虎臣であり、張飛が厳顔を義によって釈放したことには国士の風があったとしながらも、関羽は剛直だが自らを誇り、張飛は荒々しく恩愛に欠け、短所によって身を滅ぼしたと評しました。
關羽、張飛皆稱萬人之敵,為世虎臣。羽報效曹公,飛義釋嚴顏,並有國士之風飛據水斷橋,瞋目橫矛曰:「身是張益德也,可來共決死!」敵皆無敢近者『三国演義』 第1~81回 · 第83回 · 第85回
演義で張飛が初めて登場するのは第1回です。黄巾討伐の義兵を募る高札の前でため息をつく劉備に大声で呼びかけて近づいた彼は、身の丈八尺、豹の頭に丸い目、燕のあごに虎のひげ、雷のような声を持つ男で、代々涿郡に住み、酒を売り豚を屠ってきた者と紹介されます。演義は彼の字を「翼」の字を用いて翼徳と記します。彼の屋敷の裏の桃園で劉備 · 関羽と兄弟の契りを結んで末弟となり、丈八点鋼矛を鍛え、戦場ではこの矛を丈八蛇矛とも呼びます。第2回では賄賂を求めて劉備を責め立てた督郵を杭に縛りつけて柳の枝で打ち据え、第5回の虎牢関では公孫瓚を追う呂布を「三姓の家奴」と罵って立ちはだかり、五十余合渡り合います。
第14回で徐州を任された張飛は、酒を慎めという劉備の言いつけに背いて大いに酔い、酒を断る曹豹を鞭打ちます。恨みを抱いた曹豹が娘婿の呂布を呼び込んで徐州を失うと、第15回で張飛は兄嫁たちを城に残して出てきたことを恥じ、剣で自分の首を突こうとして劉備に止められます。第22回では、わざと鞭打った兵を逃がして偽りの知らせを流す策で劉岱を生け捕りにし、第28回の古城では曹操に身を寄せていた関羽を疑って矛を向け、太鼓が三度鳴る間に追ってきた将を斬れと言います。第38回では草堂で昼寝をする諸葛亮を見て、家の裏に火をつけてやると腹を立てます。
第41回と第42回の長坂で、張飛は二十騎ほどの騎兵に木の枝を馬の尾に結びつけて林の中を走らせ、伏兵がいるように見せかけ、ひとり橋の上で矛を横たえて三度叫び、曹操のそばにいた夏侯傑の肝をつぶして落馬させ、曹操の兵を退かせます。しかしすぐに橋を落としてしまい、かえって追撃の口実を与えたと劉備に叱られます。第61回では趙雲とともに長江の上で孫夫人の船を遮り、阿斗を取り戻します。
第63回で道を分けて蜀へ入った張飛は、城を固く守る巴郡の厳顔を、間道をひそかに通り過ぎるふりをする策でおびき出して生け捕りにします。「首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はいない」と屈しない厳顔の縄を自らほどき、上座に据えて拝礼すると厳顔は感服し、第64回で厳顔が先導して関所四十五か所を開いてくれたおかげで、張飛は諸葛亮より先に劉備と合流し、張任を生け捕りにします。第65回の葭萌関では松明をともして馬超と夜まで戦います。第70回では五十日あまり対峙した張郃の前で毎日酒に酔って罵るふりをし、諸葛亮が送ってきた成都の美酒を並べてわら人形を座らせておき、夜襲をかけてきた張郃を破り、民が教えてくれた間道から瓦口関の背後を突いて、張郃に馬を捨てて逃げさせます。第73回では五虎大将の一人となります。
第81回で関羽の死を聞いた張飛は昼夜泣き続け、酔っては部下を鞭打ち、白旗と白い鎧を三日のうちに作れという命令に猶予を願った范彊 · 張達を木に縛りつけ、背中を鞭で五十回ずつ打ちます。その夜、酒に酔って目を開けたまま眠る張飛を二人が短刀で刺し殺し、享年五十五でした。二人はその首を持って東呉へ逃げます。後に添えられた詩は、長坂橋のほとりで水が逆流したと詠みます。第83回で呉が二人を縛って張飛の首とともに送ってくると、息子の張苞が霊前で彼らを殺して祭り、第85回では死を目前にした劉備の夢に関羽とともに現れます。演義で張飛が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
妻 夏侯氏 · 子 張苞 · 張紹 · 娘 二人(敬哀皇后 · 張皇后) · 孫 張遵
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
長坂橋の一喝を知らぬか!
燕人張翼徳ここにあり!誰が出てくる。
口喧嘩か…よかろう、声ならわしがでかい。
…長坂橋ではこうではなかった。
酒が抜けておらぬか。しゃんとせねば。
わしの一喝で橋が落ちたのだぞ。
兄者たちに合わせる顔がない。
燕人張飛を侮ったか!
…酒が抜けておらなんだらしい。
…己の部下の刃とは。