闞澤

字 徳潤 · 不詳 ~ 243年 · 揚州会稽郡山陰県 · 孫堅配下

闞澤の肖像

人の書を写して学び、太子の師に昇った呉の儒者

能力値

統率43武力49知力83政治86魅力73

カード

攻撃力 3体力 3コスト 3価値 10職分 能吏
餓死 コスト 2
敵の次の局面の指揮力−2
伝令 コスト 2
使用済みの自分の計略1枚を再使用可能にする

正史

出典 · 『三国志』呉書闞沢伝 · 薛綜伝 · 孫登伝 · 孫和伝 · 趙達伝 · 呉主伝と裴松之注の『呉録』

闞沢は字を徳潤といい、会稽郡山陰県の人です。家は代々農民でしたが、闞沢の代になって学問を好みました。貧しくて元手がなかったので、いつも人の書物を書き写す賃仕事で紙と筆の費用をまかない、写し終えるとその書をすべて暗誦しました。師を訪ねて講論を聞き、多くの書を広く読み、暦数にも通じて名を知られました。孝廉に推挙されて銭唐の県長となり、郴の県令に移りました。

建安24年(219)、孫権が驃騎将軍になると彼を召して西曹掾に充て、黄龍元年(229)に孫権が皇帝になると尚書としました。嘉禾年間には中書令となり、侍中を加えられました。『三国志』孫和伝は、孫権の子孫和が十四歳で別に宮の護衛をつけられると、孫権が中書令の闞沢に学問と書を教えさせたと記しています。赤烏5年(242)に孫和が太子になると、闞沢は太子太傅となって中書の職をそのまま兼ね、薛綜が少傅となりました。

闞沢は経伝とその注釈の文があまりに多く、すべてを用いるのは難しいと考え、諸家の説を斟酌して礼の書と諸注を要約し、二宮、すなわち太子孫和と魯王孫覇に教え、出入りの際や賓客に会う際の礼儀を定めました。また『乾象暦注』を著して暦日を正しました。朝廷で大きな議論があって経典に疑わしいところがあれば、いつも彼に諮りました。儒学に尽くした功で都郷侯に封じられました。

人柄は謙虚で恭しく、篤実で慎み深い人でした。宮中や役所の小役人に呼ばれて問われても、みな対等の礼で接し、人の過ちを口にしたことがありませんでした。風貌は物足りなく見えましたが、彼の知らないことはまれでした。孫権が書物や文章のうち何が最も美しいかと尋ねると、闞沢は治乱の理をそれとなく悟らせようと、賈誼の『過秦論』が最も優れていると答え、孫権はその文を読みました。

赤烏元年(238)、校事の呂壱の悪事が露見すると、担当の官は徹底して取り調べて死刑を奏上し、焼いて引き裂き大悪人であることを明らかにせよという声まで上がりました。孫権が尋ねると、闞沢は「明るく栄える世に、再びこのような刑があってはなりません」と言い、孫権はその言葉に従いました。諸官庁が憂いを抱き、法令を重くして臣下を取り締まろうとした時にも、闞沢はいつも礼と律に従うべきだと言いました。陳寿は、彼が穏やかでありながら正しさを守ったのはみなこの類いであったと記しています。

裴松之注に引く『呉録』は、虞翻が闞沢について「闞生は傑出しており、蜀の揚雄というべきだ」と言い、また「闞子の儒術と徳行は、今の董仲舒である」と言ったと記しています。同じ書によれば、魏の文帝曹丕が即位したとき、孫権が曹丕は盛年で即位したので自分は及ばないのではないかと案じると、闞沢は十年もたたずに曹丕は死ぬだろうと言いました。孫権がその理由を問うと、闞沢は曹丕の名の字を「不」と「十」に分け、それがその数だと答え、文帝は果たして七年で崩じました。裴松之は、孫権は文帝より五歳年上にすぎず、年の差は小さいと付け加えています。

趙達伝は、闞沢や殷礼のような名高い儒者が身を低くして算術を学ぼうとしたが、趙達はその術を惜しんで教えなかったと記しています。薛綜伝には、蜀の使者張奉が孫権の前で尚書闞沢の姓名を字解きしてからかったとき、闞沢が答えられずにいると、薛綜が酒を勧めながら「蜀」という字を解いてやり返し、満座が笑ったという話があります。赤烏4年(241)、太子孫登は死を前に奉った上疏で、諸葛瑾 · 歩騭 · 朱然 · 全琮 · 朱拠 · 呂岱 · 吾粲 · 闞沢 · 厳畯 · 張承 · 孫怡を、国のために忠を尽くし政治の根本に通じた臣として挙げました。

赤烏6年(243)冬に闞沢が死ぬと、孫権はひどく悲しみ、数日間食事がのどを通りませんでした。陳寿は厳畯 · 程秉 · 闞沢について「一時代の儒林」と評しました。

嚴、程、闞生,一時儒林也
厳畯 · 程秉 · 闞先生は、一時代の儒林であった『三国志』呉書 巻53の評
盛明之世,不宜復有此刑
明るく栄える世に、再びこのような刑があってはなりません『三国志』呉書 闞沢伝

三国志演義

『三国演義』 第38回 · 第46~47回 · 第49回 · 第66回 · 第83回

演義で闞沢の名は第38回に初めて出てきます。孫権が江東を継いで呉会に賓館を開き、顧雍 · 張紘に四方の客を迎えさせると、集まった士人の中で「会稽の闞沢、字は徳潤」が先頭に立ちます。

第46回、周瑜に杖で打たれた黄蓋が帳中に横たわっていると、参謀の闞沢が訪ねてきて左右を下がらせ、都督と仇があるのでなければ、これは苦肉の計ではないかと問います。周瑜の振る舞いを見て八、九分は察していたというのです。黄蓋が、孫氏三代の恩に報いるためにこの計を献じたが、軍中に心を打ち明けられる者がおらず、公だけは忠義があると打ち明けると、闞沢は偽りの降伏の書状を届けよという意味だと悟り、快く引き受けます。

第47回は闞沢を、家は貧しかったが学問を好み、賃仕事をしながら書を借りて読み、一度見れば忘れず、弁舌と胆力があったので孫権が参謀として召し、黄蓋と最も親しかったと紹介します。闞沢は「大丈夫が世に生まれて功を立てられなければ、草木とともに朽ちるのと何が違おうか」と言って、その夜のうちに漁師に扮して小舟を漕いで北岸へ向かい、三更に曹操の水寨に着きます。書状を十回以上も読み返した曹操が黄蓋の苦肉の計だとして斬れと命じると、闞沢は顔色も変えず天を仰いで大笑いします。まことに降伏するならなぜ日取りを書かないのかと言う曹操に、主君に背いて抜け出す事は日取りを決められず、前もって日を定めておいて手を下せなければ事が漏れると論じ、曹操が席を下りて詫びるようにさせます。折しも蔡中 · 蔡和が黄蓋の打たれた件をひそかに知らせてくると、曹操は降伏を信じ、闞沢は再び江東へ行ってほしいという頼みを何度か辞退した末に引き受け、下賜された金と絹は受け取りません。戻った闞沢は甘寧の陣営で一緒に周瑜を恨むふりをして、蔡和 · 蔡中が自ら曹操の送った偽りの投降者だと打ち明けるよう仕向け、別に曹操へ書を送って、舳先に青い旗を立てた船が黄蓋の船だと知らせます。

第49回で闞沢は甘寧とともに蔡和 · 蔡中を水寨に引き留めて毎日酒を飲み、出陣の日には魯粛とともに陣営を守ります。引き出された蔡和が「お前たちの闞沢と甘寧も共に謀った」と叫ぶと、周瑜はそれは自分がさせたことだと答えます。第66回では、魯粛が関羽を宴に招いて刀斧手を伏せておこうという計を出すと、関羽は世の虎将であり、事がしくじれば逆に害を受けると言って止め、孫権の怒りを買います。

第83回、劉備の大軍が押し寄せて孫権がうろたえると、闞沢は天を支える柱があるのになぜ用いないのかと言って荊州にいる陸遜を推挙し、彼がしくじれば同じ罪を受けると言います。張昭 · 顧雍 · 歩騭が陸遜は書生だと反対すると、闞沢は陸遜を用いなければ東呉はおしまいだと言って一族の命を懸けて保証し、古の法にならって壇を築いて大都督に立てるよう勧め、孫権はそれに従います。演義で闞沢が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 219孫権が驃騎将軍になると、その召しを受けて西曹掾となりました。
  2. 220曹丕が即位すると、彼は十年ともたないと孫権に言いました。
  3. 229孫権が皇帝になると、尚書となりました。
  4. 237中書令として、十四歳の孫和に学問と書を教えました。
  5. 238呂壱を焼いて引き裂けという声に、明るい世にそのような刑はならないと申し上げました。
  6. 241太子孫登が死に際に奉った上疏で、国に忠実な臣として彼の名を挙げました。
  7. 242孫和が太子になると太子太傅となり、中書の職を兼ねました。
  8. 243冬に死ぬと、孫権はひどく悲しみ、数日間食事がのどを通りませんでした。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

中書令、闞沢である。

口を開くとき

書は賃仕事で写したものだ。一字たりともおろそかには読んでおらぬ。

言い返すとき

明るき世には、過ぎた言葉も似合わぬ。

言葉に詰まって

…主に背く事に、どうして日取りを定められようか。

言葉に詰まって

貴公の言葉はすでに前後が合わぬ。写した書のごとく、すべて覚えておるぞ。

舌戦に勝って

字を解けば、答えはおのずと見えるもの。

舌戦に敗れて

…言葉に詰まった。こんな日もあるものだ。

勝ったあと

文で勝った戦だ。剣は収められよ。

敗れたあと

写した書のどこにも、この道はなかった。

倒れるとき

礼と律に従われよ。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普