程普

字 徳謀 · 不詳 ~ 不詳 (210年以後) · 幽州右北平郡土垠県 · 孫堅配下

程普の肖像

孫堅・孫策・孫権の三代に仕え、赤壁の戦いを率いた呉随一の宿老

能力値

統率85武力79知力79政治74魅力86

カード

攻撃力 5体力 5コスト 4価値 12職分 君主
懐柔 コスト 3
体力2以下の敵1体を味方にする

正史

出典 · 『三国志』呉書程普伝と裴松之注の『呉書』 · 孫破虜伝と裴松之注の『呉録』 · 孫討逆伝 · 呉主伝 · 周瑜伝と裴松之注の『江表伝』 · 魯粛伝 · 孫皎伝

程普は字を徳謀といい、右北平郡土垠県の人です。『三国志』程普伝は、彼がはじめ州郡の役人となり、容貌が立派で計略があり、応対に優れていたと記します。孫堅に従って征伐に出て、宛と鄧で黄巾を討ち、陽人で董卓の軍を破り、城を攻め野で戦って身に傷を負いました。

孫堅が死ぬと、今度は孫策に従って淮南にあり、ともに廬江を攻め取ったのち、戻って長江を渡り東へ向かいました。孫策が横江と当利に至って張英・于麋らを破り、秣陵・湖孰・句容・曲阿を次々と落としたとき、程普はいずれも功を立て、兵2千と馬50匹を加増されました。続いて烏程・石木・波門・陵伝・余杭を破ったときも、彼の功が最も多くありました。裴松之注に引く『呉録』によれば、厳白虎が余杭へ逃れて許昭に身を寄せると、程普は許昭を討つよう願い出ましたが、孫策は、許昭は旧主に義があり旧友に誠を尽くしている、これは丈夫の志だとして彼を捨て置きました。

孫策が会稽に入ると、程普を呉郡都尉として銭唐を治めさせ、のちに丹楊都尉に移して石城に駐屯させました。程普は宣城・涇・安呉・陵陽・春穀の諸賊を再び討ち、すべて破りました。孫策が祖郎を攻めて大いに包囲されたことがありましたが、程普は一騎とともに孫策をかばって守り、馬を駆って大声を上げ、矛で敵を突いて斬り込みました。敵が割れると、孫策はその後に続いて抜け出しました。のちに盪寇中郎将となって零陵太守を兼ね、尋陽で劉勲を討ち、沙羨で黄祖を討ったのち、石城に戻って守りました。『呉録』に載る孫策の上表は、建安4年(199)12月に沙羨で黄祖を討ったとき、零陵太守程普が周瑜・呂範・孫権・韓当・黄蓋らとともに進んだと記します。

建安5年(200)に孫策が死ぬと、程普は張昭らとともに孫権を補佐し、三郡を巡って服従しない者たちを討ちました。建安8年(203)、孫権が江夏の黄祖を討ったときに従い、帰途に豫章を通って別に楽安を攻めて平定し、太史慈に代わって海昏を守りました。建安13年(208)に曹操が南下すると、周瑜とともに左右の都督となりました。呉主伝は、二人がそれぞれ1万人を率いて劉備とともに進み、赤壁で曹操の軍を大いに破ったと記し、程普伝は烏林で曹操を破ったと記します。続いて南郡を攻めて曹仁を敗走させ、裨将軍となって江夏太守を兼ね、沙羨を治所とし、四県を食邑として受けました。

周瑜伝は、周瑜は度量が広くおおむね人の心をつかんだが、ただ程普とだけは仲が悪かったと記します。『江表伝』によれば、程普は年長であることを笠に着てたびたび周瑜を侮りましたが、周瑜が身を低くして最後まで争わなかったので、のちに自ら敬い親しむようになり、「周公瑾と交わると、濃い酒を飲んだように知らぬ間に酔ってしまう」と人々に語りました。後年、呂蒙は孫権に、かつて周瑜と程普が左右の部督となってともに戦ったとき、事は周瑜が決めていたが、程普が長く将であったことを頼み、また二人とも都督であったために仲が悪く、国事を誤りかけたと申し上げました。

古参の諸将のなかで程普が最も年長であったため、当時の人々はみな彼を「程公」と呼びました。彼は施しを好み、士大夫と交わることを楽しみました。建安15年(210)に周瑜が死ぬと、代わって南郡太守を務め、孫権が荊州を分けて劉備に与えると再び江夏太守に戻り、盪寇将軍に移ったのち死にました。裴松之注に引く『呉書』によれば、程普は背いた者数百人を殺してすべて火の中に投げ込ませましたが、その日のうちに疫病にかかり、百日あまりで死にました。孫権は令を下し、故将軍周瑜と程普の家に属する食客はすべて不問にせよと命じました。

黄龍元年(229)、孫権は皇帝となると程普の功を振り返り、子の程咨を亭侯に封じました。陳寿は程普・黄蓋・韓当をはじめこの伝の将たちについて、「みな江東の虎のような臣で、孫氏が厚く遇した者たち」と評しました。

凡此諸將,皆江表之虎臣,孫氏之所厚待也
そもそもこの諸将はみな江東の虎のような臣であり、孫氏が厚く遇した者たちである『三国志』呉書 程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 評
與周公瑾交,若飲醇醪,不覺自醉
周公瑾と交わると、濃い酒を飲んだように知らぬ間に酔ってしまう『三国志』呉書周瑜伝 裴松之注の『江表伝』

三国志演義

『三国演義』 第5~7回 · 第15回 · 第29回 · 第39回 · 第44~45回 · 第49~53回 · 第55~56回

演義で程普は、第5回に孫堅の四将の筆頭として登場します。演義は彼を右北平土垠の人で、背に鉄の稜を立てた蛇矛、鉄脊蛇矛を使うと紹介します。汜水関の前で華雄の副将胡軫が兵5千を率いて出てくると、程普は馬を駆って数合のうちに胡軫の喉を突いて殺します。第6回で孫堅が洛陽の井戸から玉璽を引き上げると、程普はそれが伝国璽であると見抜いてその由来を語ったのち、天が授けたものであるから急いで江東に帰り大事を図るよう勧めます。

第7回で程普は、袁術の書状を受けた孫堅に、袁術は偽りが多く信用できないと諫めます。樊城では黄蓋とともに黄祖の陣営を攻め、峴山の前では鉄脊蛇矛で蔡瑁を追い払います。孫堅が峴山で死んだ夜には孫策を守って道を探すうちに、孫堅をおびき出した呂公に出会い、数合で槍で突き殺します。第15回では孫策に従って長江を渡り、神亭嶺の廟に登った十三騎の一人として、太史慈と組み合った孫策を救いに駆けつけ、翌日には陣前で太史慈と三十合を戦います。第29回では許貢の食客たちに傷つけられた孫策のもとへ駆けつけ、刺客を斬ります。第39回では江夏から逃れる黄祖を追いますが、功を奪われるのを恐れた甘寧が先に黄祖を射殺します。

第44回で孫権が曹操と戦うか迷うと、程普は黄蓋・韓当ら諸将を率いて周瑜を訪ね、降伏は恥であるから戦おうと勧めます。孫権は周瑜を大都督、程普を副都督としますが、程普は年若い周瑜が上に立ったのを不快に思い、病と称して出仕せず、長子の程咨を代わりに遣わします。程咨から周瑜が兵を法度正しく割り振ったと聞いた程普は大いに驚き、「わしは周郎を侮っていたが、まことの将の器だ」と言って自ら訪ねて謝罪します。第49回で程普は周瑜とともに大船に乗って戦いを指揮し、その用兵に感服します。

第51回の南郡の戦いで程普は後軍を受け持ち、周瑜が毒矢を受けると兵を守って戦いに出ません。周瑜が死んだふりをする計略を打ち明けると、大いによい策だとして軍中に哭声を上げさせます。第53回では合肥で張遼に追われる孫権を救い、第55回では劉備を追いに行った諸将が孫夫人を見れば手出しできないだろうと見通します。第56回では曹操が孫権と劉備を離間しようと上表して程普を江夏太守とします。演義で程普が直接登場するのはここまでで、その死は描かれません。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 191孫堅に従い、陽人で董卓の軍を破りました。
  2. 195孫策に従って長江を渡り、張英らを破って秣陵・曲阿を落とし、兵2千を加増されました。江東の二老将
  3. 196孫策が会稽に入ると呉郡都尉となり、銭唐を治めました。
  4. 199零陵太守として孫策に従い、尋陽で劉勲を討ち、沙羨で黄祖を討ちました。
  5. 200孫策が死ぬと、張昭らとともに孫権を補佐しました。
  6. 203孫権に従って江夏を討ち、帰途に楽安を平定したのち海昏を守りました。
  7. 208周瑜と左右の都督となり、劉備とともに赤壁で曹操を破りました。江東三代の老将
  8. 209南郡を攻めて曹仁を敗走させ、裨将軍・江夏太守となりました。
  9. 210周瑜が死ぬと、代わって南郡太守を務めました。
  10. 229皇帝となった孫権が彼の功を振り返り、子の程咨を亭侯に封じました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 程咨

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

老いた身なれど、まだ立てる。

口を開くとき

孫氏三代に仕えた老骨である。

言い返すとき

若い者の言葉も最後まで聞こう。

言葉に詰まって

…歳は隠せぬな。

言葉に詰まって

昔のようにはいかぬ。

舌戦に勝って

長く見てきた者は遠くまで見通すものだ。

舌戦に敗れて

…もはや身を引く時か。

勝ったあと

老いた目もまだ確かでござる。

敗れたあと

…若い者たちに任せる時か。

倒れるとき

孫氏三代を見届けたなら十分だ。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権丁奉