夏侯玄

字 太初 · 209年 ~ 254年 · 豫州沛国譙県 · 曹操配下

夏侯玄の肖像

顔色ひとつ変えず刑場に立った正始の名士

能力値

統率54武力39知力75政治92魅力65

カード

攻撃力 3体力 3コスト 3価値 10職分 能吏
消耗 コスト 2
敵全体の体力−1(永続)。反撃も共に弱まる
攻城 コスト 2
敵1体が自軍のランダムな1体を攻撃する(攻撃力半分)。返す反撃で討つ

正史

出典 · 『三国志』魏書夏侯尚伝に付された夏侯玄伝と裴松之注の『世語』 · 『魏略』 · 『魏書』 · 『魏氏春秋』 · 『漢晋春秋』 · 魏書三少帝紀 · 諸葛誕伝注の『世語』 · 傅嘏伝注の『傅子』 · 郭淮伝 · 『晋書』景帝紀 · 文帝紀 · 后妃伝 · 『世説新語』容止篇 · 文学篇注

夏侯玄は字を太初といい、征南大将軍夏侯尚の子です。家は沛国譙県の夏侯氏で、母の徳陽郷主曹氏が曹真の妹であったため、夏侯玄は曹爽の母方のいとこでした。妹の夏侯徽は司馬師の妻となりましたが、『晋書』后妃伝は、彼女が魏の皇室の外孫であったため司馬師にひどく忌まれ、青龍2年(234)に毒で死んだと記します。黄初6年(225)に父の夏侯尚が死ぬと、その後を継ぎました。

夏侯玄は若くして名を知られ、二十歳ごろに散騎黄門侍郎となりました。あるとき明帝に拝謁しに入って皇后の弟毛曾と並んで座ることになると、これを恥じて不快な色を見せたので、明帝は彼を憎んで羽林監に左遷しました。『世説新語』は、このとき人々が「葦が玉樹に寄りかかったようだ」と言ったと伝え、人々が夏侯玄を日月が懐に入るように明るいと評したと記します。『世語』によれば、そのころ夏侯玄・諸葛誕・鄧颺らは互いに名を付け合い、夏侯玄ら四人を「四聡」、諸葛誕ら八人を「八達」と呼びましたが、明帝は彼らが浮華を助長するとして、みな官を奪って退けました。『傅子』は、夏侯玄が貴臣の子として早くから名声が高く、何晏・鄧颺の一党の頭目であったとし、彼が交わりを求めたものの、傅嘏は彼を志は大きいが虚名を集めるばかりで実際の才がないとして受け入れなかったと記します。

正始年間の初め、曹爽が政事を補佐すると、夏侯玄は散騎常侍と中護軍を歴任しました。『世語』は、彼が人をよく見抜き、中護軍として武官を選んだとき、選んだ者がみな優れていて、のちに州や郡を任されたと記します。太傅司馬懿が時局を尋ねると、夏侯玄は三つのことを書にして上りました。人を選ぶ権限は朝廷に置き、地方の中正には品行だけを評価させること、郡守を廃して州と県の二段に減らすこと、衣服と車の制度を質素に正して奢侈を防ぐことでした。司馬懿は、みなとてもよいが賢者を待ってこそ成し遂げられようと答え、夏侯玄は再び書を上って今こそ改める時だと反論しました。

ほどなく夏侯玄は征西将軍・仮節・都督雍涼州諸軍事となり、中護軍の職は司馬師が継ぎました。正始5年(244)、彼は曹爽とともに駱谷から蜀を討ちましたが、当時の人々はこれを嘲笑しました。『漢晋春秋』によれば、司馬懿が夏侯玄に、興勢への道はきわめて険しく蜀が先に押さえているので、進んで戦えず退路まで断たれれば軍を失うと告げ、夏侯玄は恐れて曹爽に言って軍を退かせました。『晋書』文帝紀は、夏侯玄の部将だった司馬昭が、興勢で蜀が険要を守っているので急いで軍を返すよう勧めたと記し、郭淮伝は、先鋒の郭淮が形勢の不利を見て軍を引き、大敗には至らなかったと記します。『魏略』によれば、李勝がこのころ夏侯玄の長史でした。

嘉平元年(249)に司馬懿が曹爽を殺すと、夏侯玄は召されて大鴻臚となり、数年後に太常に移りました。『魏氏春秋』によれば、蜀へ逃れようとした従叔父の夏侯覇がともに行こうと誘いましたが、夏侯玄は「私がどうしておめおめと生き延びるために敵地に客として身を寄せようか」と言って洛陽に戻りました。『魏略』は、彼が西方から戻ったのち人と交わらず、華美なものを置かなかったと記します。『魏氏春秋』はまた、嘉平3年(251)に司馬懿が死ぬと許允がこれで心配はないと言いましたが、夏侯玄は、司馬懿はそれでも自分を旧友の家の若者として遇したが、司馬師と司馬昭は自分を受け入れないだろうと嘆いたと伝えます。

夏侯玄は曹爽のために退けられ、常に心穏やかではありませんでした。中書令李豊は司馬師の信任を受けながらも心は夏侯玄にあり、皇后の父の光禄大夫張緝とともに夏侯玄に政事を補佐させようとしました。嘉平6年(254)2月、貴人を封じる日に宮門に並ぶ兵に乗じて大将軍司馬師を殺し、夏侯玄に代わらせ、張緝を驃騎将軍にしようとしたのです。『世語』によれば、李豊が息子の李韜を送ってこの謀を知らせると、夏侯玄は「よく考えるべきことだ」とだけ言って告げ知らせませんでした。謀に気づいた司馬師は李豊を呼び出して殺し、夏侯玄と張緝らを廷尉に引き渡しました。

『世語』によれば、夏侯玄は廷尉で供述を拒み、廷尉鍾毓がみずから取り調べると、顔色を正して君が代わりに書けと叱りました。鍾毓は彼の節操を曲げられないと知って夜に供述書を作り、涙を流して見せると、夏侯玄はうなずくだけでした。李豊・夏侯玄・張緝らはみな三族を滅ぼされました。夏侯玄は度量が広く、東市で斬られるときも顔色を変えず、振る舞いは普段と同じであり、そのとき四十六歳でした。『魏氏春秋』は、彼が『楽毅論』・『張良論』と『本無肉刑論』を著して世に伝えたと記します。

陳寿は、夏侯玄は規範と度量で世に名を知られたが、曹爽と姻戚として深く結びついており、あれほどの栄えある地位にありながら曹爽の過ちを正したり賢者を引き入れたりしたという話を聞かないのだから、どうして禍を免れられただろうかと評しました。

玄以規格局度,世稱其名,然與曹爽中外繾綣;榮位如斯,曾未聞匡弼其非,援致良才
夏侯玄は規範と度量で世に名を知られたが、曹爽と姻戚として深く結びつき、そのような栄えある地位にありながら、その過ちを正したり賢者を引き入れたりしたという話を聞かない『三国志』魏書 諸夏侯曹伝 評
玄格量弘濟,臨斬東巿,顏色不變,舉動自若,時年四十六
夏侯玄は度量が広く、東市で斬られるときも顔色を変えず、振る舞いは普段と同じであった。そのとき四十六歳であった『三国志』魏書 夏侯玄伝

三国志演義

『三国演義』 第109~110回

演義で夏侯玄は第109回に初めて登場します。司馬師が剣を帯びて殿上に上り政事をほしいままにすると、魏主曹芳はそばに残った太常夏侯玄・中書令李豊・光禄大夫張緝を密室に呼び、泣いて訴えます。夏侯玄は、臣の兄夏侯覇が蜀に降ったのは司馬兄弟に害されるのを恐れたからであり、この賊を除けば兄も戻ってくるだろうと言い、国の旧い姻戚として詔を奉じて討つと申し出ます。曹芳は竜鳳の汗衫を脱ぎ、指を噛んで血で詔を書いて張緝に与えます。

三人は東華門を出たところで司馬師と出くわし、司馬師は涙の跡が残る彼らを問い詰めます。事が漏れたと悟った夏侯玄は「我らが泣いたのは、おまえが主君を怯えさせ簒逆を企んでいるからだ」と大声で罵り、袖をまくって拳で司馬師を殴ろうとして武士に捕らえられます。張緝の身から血で書いた詔が出てくると、司馬師は三人を市で腰斬にさせ、三族を滅ぼします。三人は東市に着くまで歯がすべて折れてもなお口ごもりながら罵り続けて死に、司馬師は続いて曹芳を廃します。第110回で病んだ司馬師は、夜ごとに李豊・張緝・夏侯玄の三人が寝台の前に立っているのを見ます。演義で夏侯玄が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 225父の夏侯尚が死ぬと、その後を継ぎました。
  2. 244征西将軍として曹爽とともに駱谷から蜀を討ちましたが、興勢で道を阻まれて退きました。玉樹と呼ばれた男
  3. 249従叔父の夏侯覇が蜀へともに逃れようと誘いましたが、断って洛陽に戻りました。譙の二夏侯
  4. 249曹爽が死ぬと召されて大鴻臚となり、兵権を失いました。
  5. 251司馬懿が死ぬと、司馬師兄弟は自分を受け入れないだろうと嘆きました。
  6. 2542月、李豊・張緝が司馬師を殺して彼を立てようとしたことが露見し、廷尉に引き渡されました。
  7. 254東市で斬られるときも顔色を変えず、三族を滅ぼされました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 夏侯尚 · 母 徳陽郷主 曹氏(曹真の妹) · 妹 夏侯徽(司馬師の妻) · 従叔父 夏侯覇

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

夏侯玄が参った。

口を開くとき

言葉は顔色を変えずに語るものだ。

言い返すとき

玉樹と呼ばれただけのことはいたそう。

言葉に詰まって

…興勢での敗北はいまも恥ずかしい。

言葉に詰まって

刑場に立とうとも、顔色ひとつ変えぬ。

舌戦に勝って

言葉が揺るがねば勝ちだ。

舌戦に敗れて

負けても顔色は変わらぬ。

勝ったあと

居住まいは乱れなかった。

敗れたあと

負けても退き方は心得ておる。

倒れるとき

顔色は変えぬ。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真