毌丘倹

字 仲恭 · 不詳 ~ 255年 · 司隷河東郡聞喜県 · 曹操配下

毌丘倹の肖像

高句麗の都丸都を破り、後に淮南で司馬師に立ち向かった将

能力値

統率78武力74知力55政治56魅力53

カード

攻撃力 4体力 4コスト 2価値 8職分 猛将

正史

出典 · 『三国志』魏書毌丘倹伝と裴松之注の『魏名臣奏』 · 『魏氏春秋』 · 『世語』 · 習鑿歯の言 · 毌丘倹 · 文欽の表 · 魏書三少帝紀と裴松之注の『漢晋春秋』 · 烏丸伝 · 東夷伝 · 『晋書』景帝紀

毌丘倹は字を仲恭といい、河東郡聞喜県の人です。父の毌丘興は黄初年間に武威太守として、背いた者たちを討ち従う者たちを懐けて河西の道を開き、その名声は金城太守の蘇則に次ぐものでした。張進の反乱と背いた胡族を討った功で高陽郷侯となり、のちに将作大匠となりました。毌丘倹は父の爵位を継いで平原侯の文学となり、明帝が即位すると尚書郎を経て羽林監となりましたが、東宮時代からの縁でたいへん親しく遇されました。洛陽典農として出ていたとき、朝廷が農民を徴発して宮殿を造らせると、彼は「天下で急ぎ除くべきは二賊であり、急ぎ努めるべきは衣食のことです。二賊を除けず、民が飢え凍えていれば、宮殿を美しく飾っても益はありません」と上疏しました。続いて荊州刺史に移りました。

青竜年間に明帝が遼東を討とうとすると、事を成し遂げる才略があるとして彼を幽州刺史に移し、度遼将軍 · 使持節 · 護烏丸校尉を加えました。毌丘倹は幽州の軍を率いて襄平に至り遼隧に陣を敷き、かつて袁尚に従って遼東へ逃れていた右北平烏丸の単于寇婁敦と遼西烏丸の都督護留らが、配下5千余を率いて降伏しました。裴松之注に引く『魏略』は、この出征を景初元年(237)秋のこととしています。公孫淵が迎え撃つと不利となって退き、翌年(238)、明帝は太尉の司馬懿を送って中軍と毌丘倹ら数万で公孫淵を討たせ、遼東を平定しました。毌丘倹はその功で安邑侯に進み、食邑3,900戸を受けました。

正始年間、高句麗がたびたび侵犯して背くと、毌丘倹は歩騎1万を率いて玄菟から出て、いくつもの道から攻めました。高句麗王の宮は歩騎2万で沸流水のほとりに出て、梁口で大いに戦いましたが、相次いで敗れて逃げました。毌丘倹は馬を縛り車を吊り下げて険しい道を登り、丸都に至って高句麗の都を打ち破り、斬ったり捕らえたりした者は千を数えました。毌丘倹は、王にたびたび諫言したものの「この地にはやがて蓬が生えるだろう」と嘆いて餓死した臣の得来の墓を壊すなと命じ、捕らえた彼の妻子を解き放ちました。正始6年(245)にふたたび攻めると王の宮は買溝へ逃げ、毌丘倹は玄菟太守の王頎を送って追わせ、沃沮を千余里過ぎて粛慎の南の境に至り、石に功を刻み、丸都の山と不耐の城に文を刻みました。斬ったり受け入れたりした者は8千余人に上り、山を穿って水を引いたので、民はその恩恵を受けました。最初の遠征の年は史書によって異なり、『三国志』東夷伝は正始5年(244)に高句麗が毌丘倹に破られたとし、三少帝紀は正始7年(246)2月に高句麗を討ったと記しています。

左将軍に移って仮節 · 監豫州諸軍事 · 豫州刺史を兼ね、鎮南将軍となりました。嘉平4年(252)冬、魏が三方から呉を攻めたとき、東関で諸葛誕の軍が大敗すると、『漢晋春秋』によれば毌丘倹と王昶は陣営を焼き払って退きました。その後、朝廷は諸葛誕と毌丘倹の任地を入れ替え、毌丘倹を鎮東将軍 · 都督揚州としました。翌年(253)、呉の太傅諸葛恪が合肥新城を包囲すると、毌丘倹は文欽とともに防ぎ、太尉の司馬孚が中軍を率いて来て包囲を解くと、諸葛恪は退きました。

毌丘倹は夏侯玄 · 李豊らと親交が厚い間柄でした。揚州刺史 · 前将軍の文欽は曹爽と同郷の人で、勇猛で荒々しく戦功が多かったものの、戦果を水増しして恩賞を求めてはたびたび許されず、恨みが日に日に深まっていましたが、毌丘倹は策をめぐらして彼を手厚く遇し、心をつかみました。『世語』によれば、斉王曹芳が廃されたとき、息子の毌丘甸が「父上は一方面を任された重任にありながら、国が覆るのをただ手をこまねいて守っているだけでは、天下中の非難を受けることになりましょう」と言うと、毌丘倹はもっともだと思いました。正元2年(255)正月、長さ数十丈の彗星が呉と楚の星宿の方角から西北へ空を横切ると、毌丘倹と文欽は自分たちの吉兆だと喜びました。ついに太后の詔を偽って大将軍司馬師の罪を並べ立て、諸郡国に檄文を回して挙兵しました。淮南の将吏と民をみな寿春城に入れ、城の西に壇を築いて血をすすって誓ったのち、老弱の者に城を任せ、二人で5、6万を率いて淮水を渡り、西へ進んで項に至りました。毌丘倹は項を固く守り、文欽は外で遊撃を担いました。裴松之注に載る彼らの表は司馬師の罪十一を挙げ、司馬師を退けて弟の司馬昭に輔政を任せるよう求めています。

司馬師は中央と地方の軍を率いて出陣し、諸葛誕に豫州の軍で安風津から寿春を狙わせ、征東将軍の胡遵に青州 · 徐州の軍で譙と宋の間に出て帰路を断たせました。自らは汝陽に陣を敷き、監軍の王基に先鋒として南頓を押さえさせたのち、諸軍に塁を固めて戦うなと命じました。毌丘倹と文欽は進んで戦うこともできず、退けば寿春を襲われるのではと恐れて、策が尽きました。淮南の将兵は家がみな北にあったので心が離れて降伏する者が相次ぎ、新たに付いた農民だけが彼らに使われました。司馬師は兗州刺史の鄧艾に泰山の軍1万余を率いて楽嘉へ行かせ、弱く見せて誘い出させましたが、これを知らずに夜に鄧艾を討ちに来た文欽は、夜が明けると大軍の勢いを見て退き、精鋭の騎兵に大敗しました。

その日、毌丘倹は文欽が敗れたと聞いて恐れ、夜に逃げ出し、軍勢は崩れました。慎県に至るころには側近たちもしだいに彼を見捨てて去り、毌丘倹は末弟の毌丘秀、孫の毌丘重とともに水辺の草むらに隠れました。安風津都尉が治める民の張属が彼を射殺し、首を都へ送って侯に封じられました。毌丘秀と毌丘重は呉へ逃れ、やむなく従っていた将兵はみな戻って降伏しました。息子の毌丘甸は治書侍御史を務めていましたが、事が起こるのを予見して家族を連れて新安の霊山に隠れたものの、別に攻められて陥落し、毌丘倹の三族が誅されました。『世語』は、彼が挙兵した当初に息子の毌丘宗ら四人を呉に送り込んでおり、呉が平定されたのちに戻った毌丘宗は零陵太守にまで至ったと記しています。

陳寿は、毌丘倹は才識が優れていたが、王凌 · 諸葛誕 · 鍾会とともに、心は大きくとも志がねじれ、禍を顧みずに一族を滅ぼしたと評しました。習鑿歯は、彼が明帝の顧命に感じてこの事を起こしたとし、「事は成し遂げられなかったが、忠臣と言うべきである」と述べました。

毌丘儉才識拔幹
毌丘倹は才識が優れていた『三国志』魏書 王毌丘諸葛鄧鍾伝 評
君子謂毌丘儉事雖不成,可謂忠臣矣
君子は、毌丘倹は事を成し遂げられなかったが、忠臣と言うべきであると言う『三国志』毌丘倹伝裴松之注に載る習鑿歯の言

三国志演義

『三国演義』 第105回 · 第108~110回

演義で毌丘倹は第105回に初めて登場します。幽州刺史として、遼東の公孫淵が燕王を自称して攻め込んでくるという上表を送り、明帝を驚かせます。第108回では鎮南都督として兵10万を授かって武昌へ向かいますが、東興で東の軍が大敗すると司馬昭 · 王昶とともに兵を引き、のちに病に冒された呉軍が帰るとき追撃して大いに打ち破ります。第109回の終わりでは、鎮東将軍の毌丘倹と揚州刺史の文欽が廃主を大義名分に挙兵したという急報が届きます。

第110回で演義は彼を「揚州刺史 · 鎮東将軍として淮南の軍馬を率いる、河南聞喜の人」と紹介します。司馬師の廃立に憤った彼は、長男の毌丘甸の勧めを受け入れ、文欽を呼んで涙ながらに志を明かし、二人は太后の密詔を偽って掲げ、寿春の西に壇を築いて白馬を屠り、血をすすって誓います。毌丘倹は6万で項城に陣を敷き、文欽は2万で外の遊撃を担います。先鋒の葛雍の言に従って南頓を押さえに出ますが、王基が先に陣を敷いているのを見て、呉の孫峻が寿春を攻めると聞くと項城へ退きます。

楽嘉で文鴦が司馬師の陣営をかき乱し、文欽が道に迷って退いたのち、寿春は諸葛誕の手に落ち、三方の軍が項城に迫ります。毌丘倹は城の兵をすべて率いて出撃しますが、葛雍が鄧艾の一太刀で死に、軍が崩れると十騎余りとともに逃げ、慎県の県令宋白が城門を開いて設けた酒宴でひどく酔ったところを彼の手で殺され、首は魏軍に献じられます。演義で毌丘倹が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 237幽州刺史として遼隧に陣を敷いて烏丸を降しましたが、公孫淵と戦って退きました。
  2. 238司馬懿に従って遼東を平定し、安邑侯となりました。
  3. 244高句麗を攻め、王である宮の都、丸都を打ち破りました。石に刻む東征
  4. 245ふたたび高句麗を攻めて粛慎の南の境まで追い、石に功を刻みました。
  5. 252東関の戦いで兵を引き、のちに諸葛誕と任地を入れ替えて鎮東将軍 · 都督揚州となりました。
  6. 253呉の諸葛恪が包囲した合肥新城を文欽とともに守りました。
  7. 255太后の詔を偽り、文欽と寿春で挙兵しました。
  8. 255文欽が敗れると夜に逃げ出し、慎県の水辺の草むらで民の張属に殺されました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 毌丘興 · 弟 毌丘秀 · 子 毌丘甸 · 毌丘宗 · 孫 毌丘重

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

幽州の毌丘倹である。

口を開くとき

東の果てまで行ってきた男だ。

言い返すとき

石に刻んだ功だ。言葉では消せぬ。

言葉に詰まって

…丸都城の城壁はさほど高くなかった。

言葉に詰まって

帝が廃されるのを黙って見ておれと申すか。

舌戦に勝って

遠くへ行った者が遠くを見通すものだ。

舌戦に敗れて

言葉でも退路を断たれたか。

勝ったあと

石に刻むに値する戦であった。

敗れたあと

兵が散ったのだ。言うことはない。

倒れるとき

帝をお守りしようとしただけだ。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真