字 公明 · 不詳 ~ 227年 · 司隷河東郡楊県 · 曹操配下
関羽の猛烈な包囲網を打ち破り、曹魏の崩壊を防いだ五子良将
出典 · 『三国志』魏書徐晃伝 · 武帝紀と裴松之注の『魏書』 · 荀攸伝 · 曹仁伝 · 曹真伝 · 趙儼伝 · 董昭伝 · 三少帝紀 · 蜀書関羽伝と裴松之注の『蜀記』 · 劉封伝
徐晃は字を公明といい、河東郡楊県の人です。郡の吏であったところ、車騎将軍楊奉に従って賊を討って功を立て、騎都尉となりました。李傕 · 郭汜が長安を乱すと、徐晃は楊奉に天子を奉じて洛陽へ帰るよう勧め、楊奉はその策に従いました。天子が黄河を渡って安邑に至ると、都亭侯に封じられました。洛陽で韓暹と董承が日々争うと、徐晃は楊奉に曹操のもとへ行くよう勧めましたが、楊奉は従おうとしてから思い直しました。建安元年(196)、曹操が梁で楊奉を討つと、徐晃はついに曹操に帰しました。
曹操は彼に兵を与えて巻 · 原武の賊を破らせ、裨将軍としました。呂布を討った時には別に呂布の将の趙庶 · 李鄒らを降伏させ、建安5年(200)、白馬で顔良を、延津で文醜を破る戦いに従って偏将軍となりました。官渡で曹操の兵糧が尽きかけると、荀攸は袁紹の輸送を担う将の韓猛は鋭いが敵を侮っているので撃つべきだとして徐晃を推薦し、徐晃は史渙とともに故市で袁紹の輸送車を襲って焼き払い、功が最も多かったのです。武帝紀は、その時焼いた車が数千台だったと記します。
建安9年(204)、曹操が鄴を包囲した時、易陽令の韓範が偽って降伏したのち城を守ると、徐晃は城内に矢文を射込んで勝敗の理を説き、降伏させました。そして「二袁がまだ破れず、落ちていない諸城が耳をそばだてていますから、今日易陽を滅ぼせば、明日にはみな死守するでしょう」と言って、易陽の降伏を受け入れて諸城に示すよう勧め、曹操はもっともだとしました。建安12年(207)、蹋頓討伐に従って横野将軍となり、荊州を討った時には樊に留まってその周辺の賊を討ち、曹仁とともに江陵で周瑜と戦いました。
建安16年(211)、韓遂 · 馬超が関中の西で挙兵した時、曹操が潼関に至って黄河を渡れないことを憂えて尋ねると、徐晃は「敵が別に蒲阪を守っていないので、謀がないことがわかります。精兵をいただければ蒲阪津を渡って先に陣を構え、その背後を断ちましょう」と言いました。曹操が歩騎4千を与えて渡らせると、塹壕と柵を巡らし終える前に梁興が夜に5千余人で攻めてきましたが、徐晃が撃退し、曹操の軍は渡ることができました。馬超らを破ったのち、夏侯淵とともに氐を平定し、翌年には鄜 · 夏陽の残党を討って梁興を斬りました。建安20年(215)、張魯を討った時には山地の氐を攻めて降伏させ、平寇将軍となりました。その後、夏侯淵とともに陽平に留まって劉備を防ぎましたが、劉備が陳式ら十余営を送って馬鳴閣の桟道を断とうとすると、徐晃は別に出撃してこれを破り、曹操は「この桟道は漢中の喉元にあたる要衝だ。将軍が敵の謀を一挙にくじいたのは、善の中の善である」として、彼に節を仮しました。
建安24年(219)、漢水が大いに溢れて于禁らが水没し、関羽が樊で曹仁を包囲すると、曹操は徐晃を送って曹仁を救わせました。徐晃の兵は新たに集めた兵卒が多く関羽と対抗しがたかったので、陽陵陂に留まり、後続の兵を加えてから進みました。関羽の軍が偃城に留まると、徐晃は長い塹壕を掘ってその背後を断とうとするように見せて偃城を得、両側に陣営を連ねて少しずつ進みました。関羽の軍は囲頭と四冢に別に屯営を置いていましたが、徐晃は囲頭を攻めると言いふらして密かに四冢を攻めました。四冢が崩れかけると関羽が自ら歩騎5千を率いて出てきましたが、徐晃はこれを退け、逃げる敵を追ってともに包囲の内に入り、これを破りました。裴松之注に引く『蜀記』は、互いに敬愛していた二人が遠くから昔話ばかり交わしていたところ、徐晃が馬を下りて「関雲長の首を得た者には金千斤を与える」と命じたので、関羽が驚いて「大兄、これは何という言葉か」と問い、徐晃が「これは国の事にすぎない」と答えたと伝えます。
曹操は「敵の包囲と塹壕と鹿角は十重であったのに、将軍は戦って完勝した。私が兵を用いて三十余年になるが、昔の用兵の巧みな者の中にも、敵の包囲の中へまっすぐ突き入った者はいなかった」と言い、その功は孫武 · 司馬穣苴を超えるとしました。徐晃が摩陂に戻ると、曹操は7里先まで出迎えて酒宴を開き、諸陣営を巡察した時、他の兵は陣を離れて見物していましたが、徐晃の陣営だけは整然として将兵が動かなかったので、「徐将軍には周亜夫の風があると言うべきだ」と感嘆しました。
建安25年(220)、曹丕が魏王となると徐晃は右将軍となり、皇帝となると楊侯に封じられました。夏侯尚とともに上庸で劉封を破ったのち陽平を守り、陽平侯に移封され、明帝が即位すると襄陽で呉の諸葛瑾を防ぎました。徐晃は倹約で慎み深く、常に斥候を遠くに置き、まず敵が勝てない態勢を整えてから戦い、逃げる敵を追う時には兵たちが食事をする暇もありませんでした。彼は「古人は明君に会えないことを憂えたが、私は幸いに会えた。功をもって報いるだけで、私的な名声など何の役に立とうか」と言って、ついに広く交わりませんでした。
病が重くなると普段の衣服で納棺するよう遺言し、太和元年(227)に亡くなり、諡は壮侯です。子の徐蓋と孫の徐覇が順に後を継ぎ、正始4年(243)、彼は曹操の廟庭に配享されました。陳寿は、曹操の武功を成し遂げた当代の良将として張遼 · 楽進 · 于禁 · 張郃 · 徐晃の五人を筆頭に挙げ、張遼 · 徐晃の事績は記録が詳しく備わっていると述べました。
太祖建茲武功,而時之良將,五子爲先徐將軍可謂有周亞夫之風矣『三国演義』 第13~94回
演義で徐晃は第13回に楊奉の将として初めて登場します。大斧を手に出て郭汜の将崔勇を斬り、楊奉は彼を河東楊郡の人徐晃だと天子に紹介します。第14回では、曹操が天子を連れて行こうとすると楊奉 · 韓暹とともに道を塞いで許褚と五十合余り戦って勝負がつかず、その勇猛を惜しんだ曹操が送った旧友の満寵が夜に訪ねてきて明主を選べと説くと、曹操に降ります。この時満寵が楊奉 · 韓暹を殺して手土産にせよと言うと、「臣下として主を殺すのは大きな不義だ」と退けます。
その後、徐晃は曹操の将としてほとんどすべての戦いに登場します。第19回では下邳で陳宮を捕らえ、第25回では白馬で顔良に二十合で敗れ、第27回は曹操の将の中で張遼のほかには徐晃だけが関羽と親しかったと記します。第30回の官渡では荀攸の推薦で史渙とともに袁紹の将韓猛の兵糧車を焼き、第32回で袁譚の将汪昭を斬り、鄴で審配を捕らえます。第56回の銅雀台の弓比べでは柳の枝を射切って錦の戦袍を手にしたものの、許褚ともみ合って争い、第58回の潼関では馬超の挑発に出ようとする曹洪を止め、蒲阪津を密かに渡って敵の背後を断つ策を出して、朱霊とともに河西へ渡ります。第71~72回の漢水では韓信にならって背水の陣を敷いて黄忠 · 趙雲に大敗し、諫めた副先鋒の王平を殺そうとして、王平が陣営に火を放って趙雲に降る結果を招きます。
第75~76回で徐晃は樊城を救うと名乗り出て陽陵陂に留まったのち、部将の徐商 · 呂建を自分の旗の下で偃城へ送り、自らその背後を突いて偃城と屯営を奪います。自ら出てきた関羽に昔の教えを忘れていないと挨拶すると、振り返って「雲長の首を得た者には千金の賞を与える」と叫び、驚く関羽に「今日は国の事で、私情で公を捨てるわけにはいかない」と言って大斧で八十合余り戦います。曹操は隊伍を守って帰ってくる彼の軍を見て「徐将軍にはまことに周亜夫の風がある」と言い、平南将軍とします。第79回では夏侯尚とともに上庸の劉封を破り、第94回で司馬懿の先鋒となって新城の孟達を攻めに行き、堀のほとりで降伏せよと叫んでいたところを孟達の放った矢に額を射られ、その夜五十九歳で死にます。演義で徐晃が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
子 徐蓋(跡を継ぐ) · 孫 徐覇
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
包囲はわしが破る。
徐公明だ。軍令どおりにいたす。
軍陣が乱れなければそれでよい。
…隊伍が乱れるか。
ここで崩れるわけにはいかぬ。
丞相は周亜夫の風ありと仰せられた。
…軍令を果たせなんだか。
包囲を破るのがわしの役目よ。
…此度の陣は厚かった。
…樊城への道を開けたなら、それでよい。