字 子揚 · 不詳 ~ 不詳 (232年以後) · 揚州淮南郡成悳県 · 曹操配下
幾度も先を言い当てながら、幾度も聞き入れられなかった曹操の謀士
出典 · 『三国志』魏書劉曄伝と裴松之注の『傅子』 · 『世語』 · 干宝『晋紀』 · 魏書武帝紀 · 明帝紀 · 張魯伝裴松之注の董昭の表 · 賈詡伝の裴松之の言 · 呉書魯粛伝 · 『晋書』宣帝紀
劉曄は字を子揚といい、淮南郡成悳県の人で、後漢の光武帝の子である阜陵王劉延の子孫です。父は劉普、母は脩です。兄の劉渙が九歳、劉曄が七歳のとき、病が重くなった母は、夫に仕える侍者がへつらい人を害する性格で家を乱すだろうから、成長したら除いてほしいと言い残しました。十三歳になった劉曄は、兄がためらうと、ひとり部屋に入ってその者を殺し、母の墓に拝礼しました。怒った父のもとへ戻り、母の遺言に従ったので罰を受けますと言うと、父は彼を並外れていると思って叱りませんでした。人物鑑定で名高い汝南の許劭は揚州に避難しており、劉曄を世を助ける才があると評しました。
揚州には鄭宝・張多・許乾のような者たちがそれぞれ部曲を率いていましたが、最も凶暴な鄭宝が民を駆り立てて江南へ渡ろうとし、名家の劉曄を担ぎ出そうとしました。二十歳余りだった劉曄は、ちょうど州に来た曹操の使者を家に泊め、訪ねてきた鄭宝と酒を飲むうちにみずから刀を抜いて彼を斬り、「曹公の命である。動く者は鄭宝と同じ罪だ」と叫びました。続いて鄭宝の陣営に行って頭目たちをなだめて従わせましたが、漢室が傾くなか宗室である自分が兵を率いたくはないとして、その手勢を廬江太守劉勲に引き渡しました。『三国志』魯粛伝は、友人の魯粛に巣湖の鄭宝のもとへ来るよう手紙を送ったのも劉曄であったと記します。孫策が多くの贈り物で上繚をともに討とうと誘うとみな祝いましたが、劉曄はひとり、兵が外で疲れている間に孫策が手薄なところを突くだろうと言って止め、聞き入れなかった劉勲は案の定孫策に背後を突かれ、建安4年(199)に曹操のもとへ逃れました。
曹操が寿春に至ったとき、廬江の山賊陳策が険しい地に拠って抵抗すると、みな討つまでもないと言いましたが、劉曄は、天下がほぼ平定されたので、賞を懸けて大軍で臨めばおのずと崩れるだろうと言い、その言葉どおりに勝ちました。曹操は帰還して彼を司空倉曹掾に召しました。裴松之注に引かれた『傅子』は、ともに召された揚州の士四人が先を争って発言するなか、劉曄だけが口を開かずにいて、遠い先を見通した言葉で曹操を動かし、曹操は四人を県令として外に出し、劉曄には腹心の任を与えて一晩に数十回も意見を求めたと記します。
建安20年(215)に張魯を討つとき、劉曄は主簿となりました。漢中の山が険しく兵糧も足りないため撤退しようとした曹操が後方の軍を彼に任せると、劉曄は張魯に勝てるうえ、退いても軍は無事ではすまないと見て攻撃を進言しました。曹操が進んで弩を浴びせると張魯は逃げ、漢中は平定されました。裴松之注に載る董昭の表は、先行した軍が夜に道に迷って敵陣に誤って入り込み敵が散ったことを辛毗・劉曄らが報告したと、異なる記述をしています。劉曄は続いて、劉備は蜀を得て日が浅く蜀の人々はまだ信服していないので、いま攻め立てればおのずと傾くが、遅らせれば諸葛亮が宰相として治め、関羽と張飛が将となって険要を守るだろうと言って蜀を討つよう勧めましたが、曹操は従いませんでした。『傅子』は、七日後に曹操が再び尋ねると、劉曄はもう少し安定したので討てないと答えたと記し、裴松之は世間がみな劉曄の計が正しかったと言っていると付け加えました。
延康元年(220)、降ってきた孟達を曹丕が寵愛して新城太守にすると、劉曄は、彼は目先の利を貪る心があり、才を恃んで術策を好むので恩に感じないだろうと言い、孟達は結局背いて滅びました。その年に侍中となり、関内侯に封じられました。曹丕が、劉備は関羽の仇を討つために呉を攻めるだろうかと尋ねると、みな出てこないだろうと言いましたが、劉曄はひとり、関羽と劉備は義では君臣、恩では父子のようなものなので必ず出てくると言い、果たしてそのとおりになりました。呉が臣と称する使者を送ってくると、劉曄は、呉は内外から追い詰められて送ってきただけなので、その隙に乗じて討つべきだと言いましたが、『傅子』によれば、曹丕は王位を与えるなという言葉まで退けて221年に孫権を呉王に封じ、孫権は表向きは礼をへりくだりながら内心では従わず、劉曄の言葉どおりになりました。222年に曹丕が呉を討とうとすると、劉曄は、呉はいま志を得て上下が一つになっているので急いで勝つのは難しいと言いましたが、曹丕は聞き入れず、224年に広陵で孫権はみずから来ないだろうと言った言葉は的中しました。
226年に明帝が即位すると東亭侯に進み、裴松之注の『世語』は、明帝がひとり劉曄を召して一日じゅう語り合ったと記します。明帝が高皇帝の父にまで尊号を追贈しようとすると、劉曄は高皇帝までを尊ぶのが古法に合うと言ってそのとおりになり、228年に公孫淵が叔父の位を奪うと、新たに立った隙に討つべきだと言いましたが、公孫淵はのちに結局背きました。彼は朝廷で人と交わりませんでしたが、漢の傍流として魏の腹心を任されているのだから、仲間が少ないのは当然だと言いました。太和6年(232)に病で太中大夫となり、まもなく大鴻臚を二年務めて退き、再び太中大夫となったのちに死にました。諡は景侯で、子の劉寓が後を継ぎ、末子の劉陶は才は高かったものの品行が軽かったといいます。
『傅子』は、劉曄が明帝の前では蜀を討てると言い、外では討てないと言っていたところ、ある者が、彼は君主の意の向かうところをうかがって合わせているのだと讒言したため、明帝はわざと意向を逆にして尋ね、そのとおりであることを知って彼を遠ざけ、劉曄は狂ったようになって大鴻臚に出され、憂いのうちに死んだと記します。そのうえで、彼の明敏な知恵で徳と義に身を置き、忠と信で行っていたなら、古の賢者であってもこれ以上のことはなかっただろうに、ついにみずから安んじることができなかったのは惜しいと述べました。陳寿は程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蒋済について「才策謀略は世の奇士であり、清く治める徳業は荀攸と異なるが、計り見通したことは彼と並ぶ」と評しました。
程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蔣濟才策謀略,世之奇士,雖清治德業,殊於荀攸,而籌畫所料,是其倫也以曄之明智權計,若居之以德義,行之以忠信,古之上賢,何以加諸『三国演義』 第10~99回
演義で劉曄は第10回に初めて登場します。兗州の曹操に郭嘉が、光武帝の嫡流の子孫である淮南成徳の人劉曄を推挙すると、曹操はすぐに彼を招き、劉曄はさらに満寵と呂虔を推挙します。第12回では、濮陽の田氏が城内で呼応するという密書を送ってくると、陳宮の策かもしれないので軍を三つに分けるよう言い、呂布が濮陽を失うと、疲れた虎を休ませてはならないと追撃を勧め、濮陽を守ります。第14回で曹操が許都に落ち着いたのち司空掾曹となり、第23回では張繍を訪ねて賈詡とともに彼を曹操に帰順させます。第29回では、友人の魯粛に巣湖の鄭宝のもとへ行こうと勧めた人物として名が出ます。第30回の官渡では、袁紹が土山を築いて櫓から矢を浴びせると、発石車を作って櫓を壊させ、袁紹の兵たちはそれを霹靂車と呼び、袁紹が地下道を掘ると陣の周りに長い堀を掘らせます。第41回では、荊州に入った曹操に、まず民心を得るべきだとして、徐庶を送って劉備に降伏を勧めさせようと進言します。
第67回で漢中を得たのち司馬懿がすぐに蜀を討とうと言うと、曹操は、人は満足を知らぬもので、隴を得てまた蜀を望むのかと言い、劉曄が、遅らせれば諸葛亮と関羽・張飛が蜀を固めるだろうと口添えすると、兵が遠征で疲れているのでいたわらねばならないと退けます。第71回で漢中が危うくなると、劉曄は曹操にみずから出陣するよう勧め、曹操はあのとき卿の言葉を用いなかったのでこうなったと悔やみます。第79回では華歆・王朗らとともに、献帝に魏王曹丕へ位を譲るよう求める者たちに加わります。第82回で孫権が降伏を願い出てくると、蜀と呉が戦っているいま呉を討てば十日もたたずに滅びると言い、孫権に王位を与えるのは虎に翼をつけるようなものだと止めますが、曹丕は孫権を呉王に封じます。
第85回では、勝った呉をいまは討てないとして三方面の遠征を止め、三方面がすべて敗れると、曹丕は賈詡と劉曄の言葉を聞かなかったので敗れたと嘆きます。第86回では広陵の江辺に至った曹丕に、三日から五日ほど敵の動きを見ようと言います。第99回では、曹叡の前では蜀を討とうと言い、外では討てないと言って、楊曁が問い詰めると、軍事は漏れてはならないものだと説いて曹叡の尊重をいっそう受け、曹真の蜀遠征に軍師として従います。演義で劉曄が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 劉普 · 母 脩 · 兄 劉渙 · 子 劉寓 · 末子 劉陶
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
劉曄、一言申し上げる。
正しいことを言っても用いられぬことが多かった。
今度は聞いていただけようか。
…漢中からすぐさま蜀を討つべきであった。
孫権の求めた和睦には裏があった。
遅れてでも聞き入れれば値打ちはある。
また遅れたか。
先に見通せば半ば勝ったも同然だ。
見えていても言えねば意味がない。
あのとき聞き入れておれば。