郭嘉

字 奉孝 · 170年 ~ 207年 · 豫州潁川郡陽翟県 · 曹操配下

郭嘉の肖像

神出鬼没の洞察力で曹操の河北制覇を導いた天才軍師

能力値

統率62武力15知力98政治84魅力80

カード

攻撃力 2体力 3コスト 3価値 11職分 軍師
攻城 コスト 2
敵1体が自軍のランダムな1体を攻撃する(攻撃力半分)。返す反撃で討つ
険路 コスト 1
敵の次の召喚は召喚酔いが1局面延びる
内応 コスト 4
秘密 · 敵がコスト3以下の武将を召喚するとき · その武将が自軍側に登場する

正史

出典 · 『三国志』魏書郭嘉伝と裴松之注の『傅子』 · 『魏書』 · 『世語』 · 魏書武帝紀 · 荀彧伝 · 荀攸伝 · 程昱伝 · 三少帝紀と裴松之の言

郭嘉は字を奉孝といい、潁川郡陽翟県の人です。裴松之注に引かれた『傅子』は、彼が若いころから遠くを見通す度量を持ち、漢末に天下が乱れようとすると、20歳ごろから名と足跡を隠して優れた人物とひそかに交わり、見識のある者だけが彼を非凡と見なしたこと、27歳で司徒府に招かれたことを記します。はじめ彼は北へ袁紹を訪ねて会いましたが、袁紹の謀士辛評と郭図に、袁公は周公が士にへりくだったことをまねるだけで人を用いる機微を知らず、「謀を好んでも決断がない」ので、ともに覇王の業を定めるのは難しいと言って去りました。

これより先、曹操が深く信頼していた潁川の謀士戯志才が早世すると、曹操は荀彧に手紙を送って誰が彼の後を継げるかと尋ね、荀彧が郭嘉を推挙しました。曹操は彼を呼んで天下の事を論じたのち「私に大業を成させるのは、必ずやこの人だ」と言い、郭嘉も退出して「まことに我が主君だ」と喜びました。曹操は上表して彼を司空軍祭酒としました。『傅子』は、袁紹がたびたび不遜な態度をとるのに討つ力が足りないと憂える曹操に、郭嘉が袁紹が負ける十の理由と曹操が勝つ十の理由を挙げてみせ、袁紹が北の公孫瓚を攻める隙に先に東の呂布を討つよう勧めたと記します。

建安3年(198)曹操は呂布と三度戦っていずれも勝ちましたが、呂布が下邳に退いて固く守り、兵士が疲れると軍を返そうとしました。郭嘉は急いで攻めるよう勧め、荀攸伝と武帝紀は、荀攸と郭嘉の策に従って沂水と泗水を決壊させ城に水を注ぎ、呂布を捕らえたと記します。劉備について語った言葉は記録が分かれます。裴松之注の『魏書』は、窮して身を寄せた英雄を害すれば知恵ある士が自ら疑って主君を選び直すだろうとして、郭嘉が劉備を殺さないよう進言したと記し、『傅子』は、劉備は結局人の下にいる人物ではないので早く手を打つべきだと言ったと記しており、裴松之は二つの記録が正反対だと述べました。199年に曹操が劉備を遣わして袁術を防がせると、程昱と郭嘉がそろって劉備を放してはならないと言いましたが、すでに手遅れでした。

孫策が江東をすべて手中に収めたのち、曹操と袁紹が官渡で対峙する隙に長江を渡って許を襲おうとしているという知らせが届き、皆が恐れました。郭嘉は、孫策は軽率で備えがなく、刺客が潜んでいて襲いかかれば一人の敵にすぎないので「必ず匹夫の手にかかって死ぬだろう」と見通し、孫策は長江を渡る前に、はたして許貢の食客に殺されました。裴松之はこれを事を明らかに見通したものとしつつも、死ぬ年まで分かるはずはないので、許を襲おうとした年に死んだのは偶然だと付け加えました。

袁紹が死んだのち、郭嘉は曹操に従って黎陽で袁譚と袁尚に立て続けに勝ちました。諸将が勝ちに乗じて攻め立てようと言うと、郭嘉は、袁紹は二人の子をかわいがってどちらも立てられず、郭図と逢紀が二人を争わせるだろうとして、「急に追えば互いに助け合い、緩めれば争う心が生まれる」と言いました。そして劉表を討ちに行くかのように南へ向かって変事を待ってから攻めれば、一挙に平定できると述べました。建安8年(203)曹操が西平に至ると、はたして袁譚と袁尚が冀州をめぐって争い、敗れた袁譚は辛毗を遣わして降伏を願い出ました。郭嘉は曹操に従って鄴を平定し、南皮で袁譚を討ち、205年に冀州が平定されると洧陽亭侯に封じられました。『傅子』は、河北が平定されたのち曹操がその地の名士を多く召し出して用いたのも郭嘉の計略だったと記します。

建安12年(207)曹操が袁尚兄弟と烏桓を討とうとすると、多くの者が劉表が劉備に許を攻めさせるのではないかと恐れました。郭嘉は、烏桓は遠くにいることを頼みにして備えないだろうから急襲すれば破ることができ、袁尚兄弟を放置して南へ向かえば青州と冀州を失うおそれがあると述べました。また「劉表は座して議論するだけの客にすぎない」ので、劉備を重く用いれば御しきれないことを恐れ、軽く用いれば劉備は力を尽くさないだろうから、国を空けて遠征しても心配はないと言いました。易に至ると「兵は神速を尊ぶ」として輜重を残し、軽装の兵で道を急ごうと進言し、曹操はひそかに盧龍塞を出て白狼山で蹋頓を斬りました。

郭嘉伝は、彼が深く物事に通じて計算と謀略に長け、事の実情に明るかったと記し、曹操は「ただ奉孝だけが私の意を理解している」と言いました。陳群は郭嘉が素行を慎まないとして何度も朝廷で糾弾しましたが、郭嘉は平然としており、曹操は郭嘉をいっそう重んじながらも、正しさを守る陳群をもよしとしました。郭嘉は38歳のとき柳城から帰る途中で病が重くなり、曹操は見舞いの者を次々と送りました。彼が死ぬと曹操は自ら弔問してひどく悲しみ、荀攸らに、奉孝は最も若く、天下の事が終われば後事を託そうと思っていたのに、働き盛りで夭折したのは「運命であるか」と言いました。曹操は上表して「臣の計略が定まらないとき、郭嘉がいつも成し遂げてくれました。天下を平定した謀の功は最も高い」として封邑を800戸加えて1千戸とさせ、諡は貞侯です。

建安13年(208)荊州から帰る曹操は巴丘で疫病に遭って船を焼き、「郭奉孝がいれば、私をこんな目に遭わせなかっただろう」と嘆きました。『傅子』に載る曹操の手紙は、郭嘉が南方には疫病があって行けば生きて帰れないといつも言いながら、ともに謀るときには荊州を先に平定すべきだと言っていたことを挙げ、彼を忘れられない思いを記しています。子の郭奕が後を継いで太子文学となりましたが早世し、孫の郭深と曾孫の郭猟が順に継ぎました。景元3年(262)朝廷は郭嘉を太祖の廟庭に合祀させましたが、裴松之は、それより先に程昱は祀られたのに郭嘉が漏れていた理由は分からないと述べました。陳寿は程昱 · 郭嘉 · 董昭 · 劉曄 · 蒋済について「才と策略は世の奇士である。清らかに治める徳業は荀攸と異なるが、謀を巡らし先を見通した点では彼と肩を並べる」と評しました。

程昱、郭嘉、董昭、劉曄、蔣濟才策謀略,世之奇士,雖清治德業,殊於荀攸,而籌畫所料,是其倫也
程昱 · 郭嘉 · 董昭 · 劉曄 · 蒋済は才と策略において世の奇士であり、清らかに治める徳業は荀攸と異なるが、謀を巡らし先を見通した点では彼と肩を並べる『三国志』魏書 郭嘉伝 評
每有大議,臨敵制變。臣策未決,嘉輒成之。平定天下,謀功為高
大きな議論があるたびに敵を前にして変化に応じて処置し、臣の計略が定まらないとき郭嘉がいつも成し遂げてくれた。天下を平定した謀の功は最も高い『三国志』魏書郭嘉伝に載る曹操の上表

三国志演義

『三国演義』 第10~33回

演義で郭嘉は第10回に初めて登場します。兗州で人材を集めていた曹操のもとに荀彧の推挙で来た程昱が、荀彧の同郷人である郭嘉のことを思い出させると、荀彧が曹操に申し上げて彼を兗州へ招き、郭嘉はさらに光武帝の末裔劉曄を推挙します。第11回では、徐州を攻めていた曹操に劉備が手紙を送ると、よい言葉で返事をして油断させるよう言い、呂布が兗州を奪ったという知らせには、劉備に情けをかけるつもりで軍を退こうと進言します。第14回で曹操が天子を許都に移したのちは司馬祭酒となります。第16回では荀彧が劉備を殺すよう言うと、窮して頼ってきた英雄を害すれば天下の知恵ある士が寄りつかなくなるとして止め、第17回では自分の馬が麦畑を踏み荒らしたため自ら首をはねようとする曹操に、法は尊い者には及ばないという『春秋』の義を思い出させ、曹操は髪を切って首の代わりとします。

第18回では、袁紹の傲慢な手紙を受け取った曹操に、袁紹が負ける十の理由と曹操が勝つ十の理由を挙げて先に呂布を討とうと言い、荀彧はその言葉が自分の考えと同じだと相づちを打ちます。第19回では、下邳を二か月攻め落とせずにいると、郭嘉が城をすぐに破る策があると言い、荀彧が沂水と泗水の水を切ることかと言い当てると、笑ってそうだと答えます。第21回では、劉備が兵を率いて出発したことを知って程昱とともに駆けつけ、一日敵を放せば万世の憂いとなると言って止めます。第23回で禰衡は曹操の謀士たちをけなし、郭嘉には詩でも詠ませておけばよいと言います。第24回では、袁紹は鈍重で疑い深いので先に劉備を討とうと言い、関羽は義理堅く決して降伏しないだろうと述べ、第29回では、孫策は軽率で備えがなく小人の手にかかって死ぬだろうという彼の言葉が使者を通じて孫策の耳に入り、孫策を激怒させます。第32回では、袁氏兄弟は追い立てれば助け合い、緩めれば争うだろうとして、荊州へ軍を向けようと言います。

第33回で曹操が烏桓を討とうとすると、郭嘉は諸将の懸念を退けて遠征を勧めますが、風土が合わずに病み、車に横たわったまま「兵は神速を尊ぶ」として輜重を残し身軽に駆けるよう諭します。曹操は彼を易州に残して療養させますが、曹操が戻ったとき郭嘉はすでに亡くなって数日が過ぎており、曹操は奉孝が死んだのは天が私を滅ぼそうとしたのだと慟哭します。郭嘉が死ぬ前に封じておいた手紙には、遼東へ逃げた袁熙と袁尚を攻めずに緩めておけば公孫康と互いに図り合うだろうという読みが書かれており、はたして公孫康が二人の首を送ってきます。演義は彼が38歳で死んだと記します。演義に郭嘉が登場するのはここまでで、第34回で曹操は彼に貞侯を追贈して子の郭奕を自らの屋敷で養い、第50回では赤壁で敗れて南郡に至った曹操が、奉孝がいれば決してこのような大敗はしなかったと胸を打って慟哭します。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 196戯志才が死んだのち荀彧の推挙で曹操に会い、司空軍祭酒となりました。
  2. 197袁紹を憂える曹操に、袁紹が負ける十の理由と曹操が勝つ十の理由を挙げたと『傅子』は記します。
  3. 198下邳から退こうとする曹操に荀攸とともに急いで攻めるよう勧め、呂布を捕らえさせました。下邳の水攻め
  4. 199袁術を防ぎに出る劉備を放してはならないと程昱とともに止めましたが、すでに手遅れでした。
  5. 200許を襲おうとした孫策が匹夫の手にかかって死ぬと見通し、孫策ははたして刺客に殺されました。
  6. 203袁譚と袁尚を追い立てず、南へ向かって二人の争いを待とうと進言しました。
  7. 205冀州が平定されると、その功で洧陽亭侯に封じられました。
  8. 207諸将が反対した烏桓遠征を勧め、輜重を残して身軽に駆けようと進言しました。白狼山を越える
  9. 207柳城から帰る途中で病が重くなって38歳で死去し、諡は貞侯です。
  10. 208荊州から帰る曹操が巴丘で、郭奉孝がいればと嘆きました。
  11. 262朝廷が彼を太祖の廟庭に合祀させました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 郭奕 · 孫 郭深

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

先が見える。

口を開くとき

郭奉孝だ。長くはもたぬ身ゆえ、手早くゆこう。

言い返すとき

答えはすでにわかっておる。確かめるだけだ。

言葉に詰まって

…体が言うことを聞かぬ。

言葉に詰まって

思ったより長引くな。

舌戦に勝って

勝つ理由を十挙げてしんぜよう。

舌戦に敗れて

…三十八とは短いものだ。

勝ったあと

見えたとおりになった。

敗れたあと

…道が遠すぎたか。

倒れるとき

…遼東への道は遠すぎた。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真