費禕

字 文偉 · 不詳 ~ 253年 · 荊州江夏郡鄳県 · 劉備配下

費禕の肖像

優れた外交と温和な調停で、諸葛亮の死後に蜀漢を支えた大将軍

能力値

統率77武力30知力83政治92魅力83

カード

攻撃力 3体力 4コスト 3価値 11職分 能吏
警報 コスト 1
秘密 · 敵が計略を使うとき · その計略を無効にする · その計略は消費されず、再使用時のコストが2上がる
衝天 コスト 3
味方全体の体力+2(永続)

正史

出典 · 『三国志』蜀書費禕伝と裴松之注の『費禕別伝』 · 『漢晋春秋』 · 蜀書後主伝 · 董允伝と注の『襄陽記』 · 魏延伝 · 楊儀伝 · 王平伝 · 張嶷伝 · 魏書三少帝紀と注の『魏氏春秋』 · 曹爽伝注の『漢晋春秋』 · 『晋書』文帝紀 · 『華陽国志』劉後主志

費禕は字を文偉といい、江夏郡鄳県の人です。幼くして父を亡くし、一族の年長者である伯仁を頼りましたが、伯仁の叔母は益州牧劉璋の母でした。劉璋が伯仁を招くと、伯仁は費禕を連れて蜀に入り学ばせました。ちょうど劉備が蜀を平定したので、費禕はそのまま益州にとどまり、南郡の董允らと名声を並べました。許靖の子の葬儀に行く際、董允の父董和が粗末な車を貸し与えると、董允は乗るのを嫌がりましたが、費禕は貴人たちの間でも平然としており、董和はこれで二人の優劣がわかったと言いました。

劉備が太子を立てると(221)、費禕は董允とともに太子舎人となり、後主が即位すると(223)黄門侍郎となりました。建興3年(225)、南征から戻った諸葛亮は、年齢も官位も上の者たちをさしおいて特に費禕を呼んで車に同乗させ、まもなく昭信校尉として呉への使者に送りました。孫権は遠慮なくからかい、諸葛恪 · 羊衜らは鋭い言葉で問い詰めましたが、費禕は言葉を穏やかにし意を篤くして、道理に基づいて答え、最後まで屈しませんでした。裴松之注に引かれた『費禕別伝』は、孫権が上等の酒で費禕を酔わせてから国事を尋ねると、費禕は酔ったと言って退き、尋ねられたことを順に書き記して漏れなく答えたと記します。孫権は彼を大いに気に入り、「君は天下の淑徳を備えているから、必ず蜀の朝廷の股肱となるだろう。そうなればたびたびは来られまいと案じている」と言いました。帰国すると侍中となり、建興5年(227)に諸葛亮は北へ出陣する際に奉った出師表で、郭攸之 · 費禕 · 董允を先帝が選んで遺した人物とし、宮中のことは彼らに諮るよう述べましたが、まもなく費禕を参軍として漢中に呼び寄せました。費禕は使者の務めを意にかなうように果たし、たびたび呉を往来しました。

建興8年(230)に中護軍となり、のちに司馬となりました。そのころ軍師魏延と長史楊儀が互いに憎み合い、魏延が刀を抜いて楊儀に突きつけると、楊儀は涙を流しました。費禕はいつも二人の間に入って諭し、引き離しました。陳寿は、諸葛亮が生きている間に二人をともに用いることができたのは、費禕が正し救った力によるものだと記します。裴松之注に引かれた『襄陽記』は、呉でひどく酔った孫権が魏延と楊儀を案じると費禕がすぐには答えられず、副使の董恢が答えを教えたと伝えますが、裴松之は、同じ言葉を載せる『漢晋春秋』には董恢が出てこないとして、これを疑っています。

建興12年(234)、病が重くなった諸葛亮は楊儀 · 費禕 · 姜維らとひそかに死後に軍を退く手順を定め、魏延に殿を務めさせることにしました。諸葛亮が死ぬと、楊儀は費禕を遣わして魏延の意向を探らせましたが、魏延は「丞相が死んでもわたしがいる」と言い、楊儀の指揮を受けて殿を務めることはできないとして、費禕とともに軍を分ける文書を書かせました。費禕は戻って楊長史をなだめてくると偽り、門を出るやいなや馬を駆って立ち去り、魏延は後悔しましたが追いつけませんでした。費禕は後軍師となり、官位に不満を抱いた楊儀が「あのとき軍を率いて魏についていたら、こんなに落ちぶれはしなかっただろう」と言うと、その言葉をひそかに上奏し、楊儀は庶人に落とされました。

まもなく費禕は蒋琬の後を継いで尚書令となりました。『費禕別伝』は、彼が文書をちらりと見るだけで意味をすべて理解し、人の数倍も速かったこと、朝と夕方に政務を執り、その合間に客を迎えて飲食し碁まで打ちながらも、仕事を滞らせなかったことを記します。のちに尚書令となった董允は彼を見習おうとしましたが、十日のうちに仕事が滞ると「人の才力がこれほどかけ離れているとは。わたしの及ぶところではない」と嘆きました。延熙6年(243)に蒋琬が漢中から涪県へ退くと、費禕は大将軍 · 録尚書事となりました。翌年、魏の曹爽が10万余りの軍勢を率いて興勢に来ると、費禕は節を授かって軍を率いて出陣しましたが、檄文が飛び交い兵が鎧をまとっているときにも、訪ねてきた光禄大夫来敏と嫌な顔ひとつせず碁を打ったので、来敏は「君はまことに信頼に足る。必ず敵を退けるだろう」と言いました。王平と劉敏が興勢を守っていたところに費禕が到着すると魏軍は退き、裴松之注に引かれた『漢晋春秋』は、費禕が三嶺に進んで退却する曹爽の道を断ち、曹爽は険しい道を争うようにしてかろうじて抜け出したと記します。費禕はこの功で成郷侯に封じられました。

蒋琬が益州刺史の職を辞退すると費禕がふたたび益州刺史を兼ね、陳寿は費禕が国を担った功績と名声は蒋琬とほぼ同じだったと記します。『費禕別伝』は、彼が家に財を蓄えず、息子たちに粗末な衣服と粗末な食事を与え、出入りの際に車馬を従わせなかったと記します。延熙11年(248)に漢中へ出て駐留しましたが、宰相が外にいても賞罰はすべてまず彼に諮って決めました。姜維が羌族と胡族を翼として隴西を切り取ろうとするたびに、費禕はこれを抑えて1万を超える兵を与えず、『漢晋春秋』では姜維に「われらは丞相にはるかに及ばず、その丞相でさえ中原を平定できなかった。国を保ち民を治めて、功業はそれを成し得る者を待つほうがよい」と言いました。延熙14年(251)に成都へ戻りましたが、冬にふたたび北へ向かって漢寿県にとどまり、翌年府を開きました。

延熙16年(253)正月元日の大宴会に、魏から降ってきた郭循が同席していましたが、費禕が楽しく飲んでひどく酔うと、郭循が自ら刀で刺し殺しました。諡は敬侯です。『三国志』張嶷伝は、これより前に費禕が新たに帰順した者たちをあまりに信用するので、張嶷が岑彭と来歙が刺客に害された故事を引いて少しは警戒するよう書状を送ったところ、のちに果たして害されたと記します。魏の詔書と『魏氏春秋』は彼を郭脩と記し、姜維に捕らえられて蜀で左将軍となったのち、劉禅を刺そうとして近づけなかったため、代わりに費禕を殺したと伝えます。子の費承が後を継いで黄門侍郎となり、子の費恭は公主を娶り、長女は太子の妃となりました。

『華陽国志』は、蜀の人々が諸葛亮 · 蒋琬 · 費禕 · 董允を四相または四英と呼んだと記し、費禕の死後、宦官が権勢を手にし、費禕が抑えていた姜維がたびたび出兵したものの功を立てられず、政治と刑罰が乱れたと記します。裴松之は、劉禅は凡庸な君主で費禕は中程度の才の宰相であるから、二人の生死は国の興亡とは関わりがないと述べました。陳寿は「費禕は寛大で博く愛した」と述べ、蒋琬とともに諸葛亮の定めた法度を受け継いで改めなかったので、辺境に憂いがなく国が和やかであったと評しました。

費禕寬濟而博愛,咸承諸葛之成規,因循而不革,是以邊境無虞,邦家和一
費禕は寛大で博く愛し、蒋琬とともに諸葛亮が定めた法度を受け継いで改めなかったので、辺境に憂いがなく国が和やかであった『三国志』蜀書 蒋琬費禕姜維伝 評
君天下淑德,必當股肱蜀朝,恐不能數來也
君は天下の淑徳を備えた人物だから、必ず蜀の朝廷の股肱となるだろう。そうなればたびたびは来られまいと案じている『三国志』蜀書費禕伝に載る孫権の言葉

三国志演義

『三国演義』 第65回 · 第87~107回

演義で費禕は、第65回で益州を得た劉備が官職を与えた劉璋の旧臣たちの中に初めて名が見えます。第87回の南征では長史となって諸葛亮に従い、第90回で孟獲がついに心服すると、官吏を置いてともに守るよう勧めますが、人を残せば兵も残さねばならず、それを養う食糧がないなど三つの難しさがあるという諸葛亮の答えを聞きます。第91回では出師表に郭攸之 · 董允とともに名が挙がり、侍中として成都に残って宮中のことを担います。

第96回では、街亭で敗れた諸葛亮が自ら官位を下げてほしいと願うと、侍中として法を奉じることが重要だとしてその願いを聞き入れさせ、詔を携えて漢中に赴くと、諸葛亮が恥じ入るのを気遣って四県を得たことと姜維を得たことを祝いますが、かえって叱責を受けます。第99回では丞相の位を戻すという詔を持って行き、辞退する諸葛亮に受けるよう勧め、第101回では李厳の上奏を聞いた後主の命で、軍を退いた理由を尋ねに漢中へ赴き、李厳の偽りが露見して彼を斬ろうとする諸葛亮を、先帝が後事を託した意を挙げて止めます。第102回では諸葛亮の書状を携えて呉へ赴き、宴席で孫権が先陣を務める将は誰かと尋ねると魏延だと答えます。孫権が、魏延は勇猛さはありあまるが心が正しくないので、諸葛亮がいなくなれば必ず禍になるだろうと言うと、その言葉はもっともだとして諸葛亮に伝えます。第103回では、呉の三方面の軍が空しく引き返したという知らせを伝え、諸葛亮を卒倒させます。

第104回で費禕は、魏延の夢を解いた趙直から、それが凶兆だという話を先に聞き、諸葛亮の死後に魏延の陣営へ行って殿を務めよという命令を伝えます。魏延が楊儀の下で殿は務められないと言うと、楊儀をなだめて兵権を譲らせると言って抜け出し、楊儀は姜維に殿を務めさせて軍を退きます。第105回では魏延の謀反を後主に奏上し、諸葛亮を定軍山に葬れという遺言を伝え、尚書令となって丞相の職務を共に担います。恨みを抱いた楊儀が「あのとき全軍を率いて魏に降っていれば」と口にすると、その言葉をひそかに上奏して楊儀を退けさせます。第107回で尚書令の費禕は、夏侯覇を得て北伐に出ようとする姜維に、蒋琬と董允が相次いで世を去り内政を担う人物がおらず、われらは丞相にはるかに及ばないが、その丞相でさえ中原を取り戻せなかったと言って諫めます。演義で費禕が登場するのはここまでで、郭循に殺されることは描かれていません。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 221劉備が太子を立てると、董允とともに太子舎人となりました。
  2. 223後主が即位すると黄門侍郎となりました。
  3. 225南征から戻った諸葛亮が特に車に同乗させ、まもなく昭信校尉として呉への使者に赴きました。
  4. 227出師表に郭攸之 · 董允とともに名が挙がり、参軍として漢中に呼び寄せられました。蜀の二文官
  5. 230中護軍となり、のちに司馬となって、互いに憎み合う魏延と楊儀をいつも引き離しました。
  6. 234諸葛亮が死ぬと魏延の意向を探りに行き、偽って抜け出して後軍師となりました。
  7. 235蒋琬の後を継いで尚書令となりました。
  8. 243蒋琬が涪県へ退くと、大将軍 · 録尚書事となりました。
  9. 244節を授かって興勢へ赴き、曹爽の魏軍を退けて成郷侯に封じられました。
  10. 248漢中に出て駐留し、姜維に1万を超える兵を与えませんでした。
  11. 251成都に戻りましたが、冬にふたたび北へ向かって漢寿県にとどまりました。
  12. 252府を開きました。
  13. 253正月元日の宴で魏の降将郭循の刀に倒れ、諡は敬侯です。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 費承 · 費恭 · 長女(太子妃)

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

内を治める者が参った。

口を開くとき

争う場を選ぶのも才のうちだ。

言い返すとき

笑って聞こう。気楽に話されよ。

言葉に詰まって

…取りなしでも済まぬことがあるのだな。

言葉に詰まって

座り直さねばならぬ。

舌戦に勝って

戦わずして得るのが上策だ。

舌戦に敗れて

…酒の席に用心すべきであった。

勝ったあと

内が安らかなれば、外にも勝てる。

敗れたあと

…取りなしで済む話ではなかったか。

倒れるとき

宴の刃を…見抜けなんだ。

同じ旗の下

関羽諸葛亮趙雲張飛魏延龐統蒋琬徐庶王平関索馬謖法正