字 子義 · 166年 ~ 206年 · 青州東莱郡黄県 · 劉繇配下
信義に厚く弓に優れ、南方を任された東莱の将
出典 · 『三国志』呉書 太史慈伝と裴松之注の『呉歴』 · 『江表伝』 · 『呉書』 · 呉主伝(孫権伝)
太史慈は字を子義といい、東莱郡黄県の人です。若い頃から学問を好み、郡の奏曹史となりました。その頃、郡と州が争っており、先に上奏したほうが勝つという情勢でした。州の文書がすでに出発していたので、郡守は使いに出す者を探し、21歳の太史慈が選ばれて昼夜兼行で洛陽に着きました。公車門の前で、まさに文書を提出しようとしていた州の役人に出会うと、彼は「文書の題目と署名に誤りがないか、持ってきて見せてみよ」と言って受け取り、あらかじめ懐に入れておいた刀で裂いてしまいました。役人が叫ぶと、太史慈は、そなたが渡さなければ私も裂けなかったのだから一緒に逃げようとなだめ、その日のうちに共に城を出ましたが、ひそかに戻って郡の文書を提出しました。その後、州は改めて役人を送りましたが、担当の役所は先に文書が滞ったことを理由に再び取り上げず、州が不利となりました。この件で名が知られましたが、州の恨みを買い、禍を受けるのを恐れて遼東に逃れました。
北海相の孔融はこの話を聞いて奇とし、たびたび人を送って彼の母を見舞い、食べ物を贈りました。孔融が黄巾を防ぐため都昌に出ていて賊の管亥に包囲されたとき、遼東から戻った太史慈に母は、孔北海とは会ったこともないのに、お前が去ってから古い友人以上に手厚く面倒を見てくださったのだから、行ってお助けしなさいと言いました。太史慈は歩いて都昌へ行き、まだ包囲が手薄なうちに夜、隙をうかがって城に入りました。包囲が日ごとに狭まる中、平原相の劉備に急を告げようにも出て行ける者がいなかったので、太史慈が自ら行くと申し出ました。彼は夜が明けると弓を背負って馬に乗り、騎兵二人を連れて城門を出て、城下の堀の内側に的を立てて弓を射ては、また城に戻ることを二日繰り返しました。三日目の朝、賊がもう起き上がって見ようともしなくなると、馬に鞭を当てて包囲を突破して駆け去り、遅れて追ってきた賊の数人を射倒したので、あえて追ってくる者はいませんでした。彼が平原に着いて救援を求めると、劉備は顔色を改めて「孔北海は、世に劉備がいることをご存じであったか」と言い、精兵3千を付けて送り出しました。賊は軍勢が来ると聞いて包囲を解いて散りました。孔融は彼をいっそう重んじて「そなたは私の若き友だ」と言い、戻って報告すると、母はお前が孔北海に恩返しできてうれしいと言いました。
揚州刺史の劉繇は太史慈と同じ郡の人でした。遼東から戻ってからまだ会っていなかったので、太史慈がしばらく江を渡って曲阿に彼を訪ねたところ、出発する前に孫策が攻め込んできました。ある者が太史慈を大将に任じるよう勧めると、劉繇は「私が子義を用いれば、許子将が私を笑うのではないか」と言って、彼には敵情を探る役目だけを任せました。許子将とは人物評で名高い許劭のことです。騎兵一人だけを連れて出た太史慈は、神亭で孫策と出くわしました。孫策に従う騎兵は十三騎で、みな韓当 · 宋謙 · 黄蓋といった者たちでしたが、太史慈はまっすぐ進んで戦いを挑み、孫策と渡り合いました。孫策は太史慈の馬を突き、彼がうなじに掛けていた手戟を奪い、太史慈も孫策の兜を奪いました。ちょうど両軍の騎兵が押し寄せたので、二人は別れました。
太史慈は劉繇に従って豫章へ行くはずでしたが、蕪湖へ抜けて山中に潜み、自ら丹楊太守と称しました。このとき孫策は宣城以東をすでに平定していましたが、涇県以西の六県はまだ従っていませんでした。太史慈は涇県に進んで陣営と役所を構え、山越が大いに従いました。孫策は自ら討って彼を捕らえました。孫策はすぐに縄を解いて彼の手を取り、「神亭のことを覚えているか。あのとき卿が私を捕らえていたらどうしたか」と尋ね、太史慈が「わかりかねます」と答えると、大笑いして「今日からのことは卿と共にしよう」と言いました。裴松之注に引く『呉歴』は、彼が神亭で捕らえられ、散った兵を集めに行って約束した翌日の正午に戻ったと記しますが、裴松之は本伝と大きく異なるので誤りだと見ました。『江表伝』によれば、孫策は、彼が郡の文書を奪い、孔融を救いに行って劉備を訪ねたことはどれも剛毅な義であったが、身を寄せた相手がふさわしくなかっただけだとし、自分は彼を理解する者だから心配するなと言いました。孫策はすぐに彼を門下督とし、呉に帰ると兵を与えて折衝中郎将に任じました。
のちに劉繇が豫章で死に、その配下一万余人が行き場を失うと、孫策は太史慈を送って彼らを慰撫させました。周りの者はみな、太史慈はきっと北へ去って戻らないだろうと言いましたが、孫策は「子義が私を捨てたら、ほかに誰と共にするというのか」と言い、昌門まで出て見送りながら手首を取って、いつ戻るかと尋ねました。太史慈は六十日を過ぎないと答え、果たして期限内に戻りました。『江表伝』によれば、疑う者たちに孫策は、太史慈は気が強く胆が太いがあちこちに付く人間ではなく、約束を重んじ、一度心で許せば死んでも裏切らないと言いました。戻った太史慈が、豫章太守の華歆は徳は高いが策がなく、自分の土地を守るだけだと報告すると、孫策は手を打って大笑いし、まもなく豫章を平定しました。
劉表の甥の劉磐は勇猛で、たびたび艾県 · 西安などを荒らしたので、孫策は海昏 · 建昌周辺の六県を分けて太史慈を建昌都尉とし、海昏に治所を置いて諸将を率いて劉磐を防がせました。その後、劉磐は二度と攻めてきませんでした。太史慈は身の丈七尺七寸で髭が美しく、猿のように長い腕で弓をよくし、弦を引けば外れることがありませんでした。孫策に従って麻保の賊を討ったとき、一人の賊が陣中の楼上を歩きながら罵り、手で楼の棟木をつかんでいましたが、太史慈が射た矢はその手を貫いて棟木に突き刺さり、包囲の外にいた一万の者がみな感嘆しました。曹操が彼の名を聞いて送ってきた箱を開けると、何の言葉もなく当帰だけが入っていました。
孫権が跡を継いで治めるようになると、太史慈は劉磐を抑えられるとして、南方の事を彼に任せました。孫権伝は、建安8年(203)に孫権が黄祖を討って帰る途中、太史慈が海昏を受け持ったと記しています。太史慈は建安11年(206)に41歳で死去しました。裴松之注に引く『呉書』によれば、彼は死に臨んで「大丈夫が世に生まれたからには、七尺の剣を帯びて天子の階に昇るべきなのに、志を遂げぬまま、どうして死ねようか」と嘆き、孫権はひどく悲しみ惜しみました。子の太史享は越騎校尉に至りました。陳寿は「太史慈は信義に篤く剛毅で、古人の風があった」と評しました。
太史慈信義篤烈,有古人之分丈夫生世,当带七尺之剑,以升天子之阶。今所志未从,奈何而死乎『三国演義』 第11回 · 第15回 · 第44~45回 · 第49~50回 · 第53回
演義で太史慈は第11回に初めて登場します。黄巾の管亥が北海を包囲すると、槍を手に馬を駆って敵陣を突き破り、城下に着いて門を開けよと叫びます。孔融に対して、東莱黄県の者で、複姓は太史、名は慈、字は子義だと名乗り、母の命で単身来たと言います。演義は、孔融が城から二十里離れた所に住む彼の母に、いつも穀物と絹を贈っていたと記します。孔融の書状を受け取った太史慈は弓と槍を整えて単身城を出て、管亥が自ら率いて追ってきて四方を囲んだ騎兵を弓で射落とし、平原の劉備のもとへ向かいます。劉備が関羽 · 張飛と兵3千を率いて来ると関羽が管亥を斬り、太史慈は張飛とともに敵陣に躍り込みます。事が終わると、同じ郡の揚州刺史劉繇が手紙で呼んでいると言い、孔融の金と絹を辞して去ります。
第15回で劉繇は、まだ年が若いとして先鋒を望む彼をそばに置くだけにします。孫策が神亭嶺の光武帝廟に登ったと聞くと、太史慈は劉繇の命を待たずに出て孫策と五十合戦い、平地に引き出してさらに五十合戦った末、二人とも馬から転げ落ち、孫策は彼の手戟を、彼は孫策の兜を奪います。翌日、両陣は奪った戟と兜を掲げて互いにからかい合います。劉繇が崩れた後、涇県で兵を集めていた彼は周瑜の策にかかり、葦の茂みの罠で捕らえられますが、孫策は自ら縄を解き、自分の錦の戦袍を着せてやります。散った兵を集めてくると言う彼を、孫策は翌日の正午までに戻れと送り出し、諸将が疑う中、彼は正午に千余人を率いて戻ってきます。厳白虎を討つ際には呉郡の昌門の前で城上の将の左手を射て梁に縫い付け、会稽では王朗と刃を交えます。
赤壁の戦いを前に、第44回で呂蒙とともに第四隊を受け持ち、第45回では周瑜が蒋幹を迎える宴で周瑜の剣を帯びて酒席を監督します。第49回で兵3千をもって合肥から来る曹操の援軍を断てとの命を受け、第50回では陸遜とともに逃げる曹操を討ちます。第53回では合肥を攻める孫権の前に進み出て張遼と七、八十合渡り合い、同郷の戈定を城内に潜り込ませて火を合図に張遼を討とうとしますが、策を見抜いた張遼が城門を開けたまま矢を浴びせたため、何本も受けます。病が重くなった彼は、大丈夫が乱世に生まれたからには三尺の剣を帯びて世に稀な功を立てるべきなのに、志を遂げぬままどうして死ねようかと叫び、41歳で息を引き取ります。孫権は彼を南徐の北固山の麓に手厚く葬り、子の太史享を府中で養います。演義で太史慈が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
母 · 子 太史享
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
信義を知る者だ!
約束を守りに来た。さあ、始めよう。
信義で答えよう。偽りはない。
…槍を取り落とすところであった。
神亭でもこれよりはましであった。
大丈夫と生まれたからには名を残さねばならぬ。
…志を遂げられずに逝くのか。
信義で得た勝利だ。
…三尺の剣がまだ足りなんだか。
三尺の剣で功を立てられなんだか。