字 幼常 · 190年 ~ 228年 · 荊州襄陽郡宜城県 · 劉備配下
軍略を論じるのを好み諸葛亮に愛されたが、街亭で大敗した参軍
出典 · 『三国志』蜀書馬良伝と裴松之注の『襄陽記』 · 習鑿歯の言 · 諸葛亮伝 · 王平伝 · 向朗伝 · 魏書張郃伝 · 『晋書』陳寿伝
馬謖は字を幼常といい、襄陽郡宜城県の人で、馬良の弟です。『三国志』に自身の伝はなく、その事績は兄の馬良伝の末尾に付されており、諸葛亮伝・王平伝・向朗伝と裴松之注の『襄陽記』に散らばっています。荊州従事として劉備に従って蜀に入り、綿竹令と成都令を経て越巂太守となりました。馬良伝は、彼が才気と器量が人並み外れ、軍略を論じることを好んだので、諸葛亮が深く目をかけ、特別に遇したと記します。
章武3年(223)、劉備は死に臨んで諸葛亮に「馬謖は言葉が実際を上回っているので、重く用いてはならぬ。君はこれをよく見極めよ」と告げました。しかし諸葛亮はそうは考えず、馬謖を参軍とし、呼び寄せて会うたびに昼から夜まで語り合いました。『襄陽記』によれば、建興3年(225)に南中征伐に向かう諸葛亮を馬謖が数十里見送ると、諸葛亮は今回もよい策を授けてほしいと言いました。馬謖は、南中は険しく遠いことを頼みにしているので今日破っても明日また背くだろうとし、「用兵の道は心を攻めるのが上策で、城を攻めるのは下策」であるから、その心を屈服させるよう述べました。諸葛亮はこの言葉を受け入れ、孟獲を放すことで南方を服従させ、『襄陽記』は諸葛亮の存命中、南方が二度と背かなかったと記します。
建興6年(228)に祁山へ進むとき、人々は老将の魏延・呉懿を先鋒にすべきだと言いましたが、諸葛亮は衆議に背いて馬謖を抜擢し、大軍を率いて先行させました。諸葛亮伝は、馬謖が諸葛亮の指揮に背き、動きが適切でなかったため、街亭で張郃に大敗したと記します。王平伝は、彼が水辺を捨てて山上に登り、むやみに動き回ったので王平が繰り返し諫めたが聞き入れなかったとし、張郃伝は、馬謖が南山に拠って下りてこず、城を守らなかったので、張郃が水汲みの道を断って攻撃し、大いに破ったと記します。兵士たちは四散し、進む足場を失った諸葛亮は漢中へ退きました。
馬謖の最期は伝ごとに異なって記されています。諸葛亮伝は諸葛亮が馬謖を殺して衆に謝したとし、王平伝も馬謖と将軍張休・李盛を斬ったと記しますが、馬良伝は馬謖が獄に下されて死に、諸葛亮が彼のために涙を流したとし、向朗伝は馬謖が逃亡し、それを知りながら報告しなかった向朗を諸葛亮が憎んで免官したと記します。馬謖はそのとき三十九歳でした。『襄陽記』によれば、馬謖は死を前に「明公は私をわが子のように見てくださり、私は明公を父のように思ってまいりました」と述べ、舜が鯀を殺してその子の禹を用いた意を深く思い、生涯の交わりが損なわれないようにしてほしいという書を残しました。そのとき十万の兵が涙を流し、諸葛亮は自ら祭祀を執り行い、彼の遺児たちを以前どおり遇しました。
のちに漢中に来た蒋琬が、天下がまだ定まらないのに智謀の士を殺したのは惜しくないかと言うと、諸葛亮は涙を流して、孫武が勝てたのは法を明らかに用いたからであり、法を捨てて何をもって敵を討つのかと答えました。諸葛亮は、街亭で命令に背いた過ちは人を任じるのに法度がなかった自分のせいだとして、自ら三等の降格を願い出て右将軍となりました。裴松之注に引かれた習鑿歯は、人材の少ない蜀で俊才を殺し、法を才能より優先し、重く用いるなという先主の戒めも守れなかったのだから、賢明とは言いがたいと非難しました。『晋書』陳寿伝は、陳寿の父が馬謖の参軍であり、馬謖が諸葛亮に殺されると彼も連座して髡刑に処されたと記します。
馬謖言過其實,不可大用,君其察之夫用兵之道,攻心為上,攻城為下,心戰為上,兵戰為下『三国演義』 第85~96回
演義で馬謖の名が初めて出るのは第52回です。伊籍が馬氏の五兄弟を推挙し、末弟は馬謖で字を幼常というと紹介する場面です。自ら登場するのは第85回で、白帝城で死を前にした劉備は、そばに立つ馬謖をしばし下がらせてから諸葛亮に彼の才を問い、当代の英才だという答えに、そうではない、言葉が実際を上回っているので重く用いてはならず、よく見極めよと告げます。
第87回で馬謖は、兄の馬良が亡くなったばかりで白い喪服姿のまま、天子から賜った酒と絹を携えて南征途上の諸葛亮を訪ねます。南方の人々は今日破っても明日また背くだろうから心を攻めるのが上策だという彼の言葉に、諸葛亮は幼常はわが胸のうちをすべて見抜いていると言い、彼を参軍とします。第88回では孟優が宝物を献じに来た腹づもりを紙に書いて諸葛亮の考えと一致させ、第91回では、司馬懿が謀反を企てているという噂と布告文を洛陽と鄴に広め、曹叡に彼を疑わせようという策を出します。
第95回で、司馬懿が街亭に出てくると見た諸葛亮が誰が守るかと問うと、馬謖は幼いころから兵書を読んできたと名乗り出て、事がしくじれば一家を斬られてもよいという軍令状を書きます。街亭に着いた馬謖は、要路に陣を敷こうという王平の言葉を女の浅知恵だと嘲り、高みから見下ろせば竹を割る勢いだという兵法と、死地に置いてこそ生きるという孫子の言葉を挙げて山上に陣を敷きます。司馬懿は張郃に王平を防がせ、申耽・申儀に水汲みの道を断たせたうえで山に火を放ち、持ちこたえられなかった馬謖は山を下りて逃げます。第96回で、自ら身を縛ってひざまずいた馬謖に、諸葛亮はお前の家族に毎月禄米を与えると言って斬れと命じ、馬謖は、丞相は私をわが子のように見てくださり、私は丞相を父と思ってまいりましたと言い、舜が鯀を殺して禹を用いた意を思ってほしいと泣きます。蒋琬が智謀の士を殺すのを惜しんでも、諸葛亮は法を明らかに用いねばならぬとして彼を斬り、先帝の言葉が的中したことを思うと自分の不明が恨めしくて泣くのだと言います。演義は馬謖が建興6年(228)夏5月に三十九歳で死んだと記し、馬謖の物語はここで終わります。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
兄 馬良
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
今度こそやり遂げてみせまする。
それがしを信じてくだされ。必ずやり遂げまする。
兵法ならそれがしも夜を徹して読み申した。
…山上に陣取るべきではなかったのか。
水の手が断たれました。
心を攻めるが上策と申し上げました。
…丞相、軍令をお受けいたします。
丞相、やり遂げましたぞ!
…丞相のお言葉に従うべきでございました。
丞相、お泣きくださいますな。