王平

字 子均 · 不詳 ~ 248年 · 益州巴西郡宕渠県 · 劉備配下

王平の肖像

街亭の敗戦を収拾し、魏の十万の大軍から漢中を守った蜀漢の名将

能力値

統率83武力79知力76政治56魅力50

カード

攻撃力 5体力 5コスト 4価値 12職分 猛将
方陣 号令
自身に防壁2を残す(撤退するまで)

正史

出典 · 『三国志』蜀書 王平伝と句扶の記録 · 裴松之注の『華陽国志』 · 諸葛亮伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 馬良伝 · 魏延伝 · 後主伝 · 蒋琬伝 · 費禕伝 · 楊洪伝 · 魏書 張郃伝 · 曹爽伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 『華陽国志』巴志 · 劉後主志

王平は字を子均といい、巴西郡宕渠の人です。もとは母方の何氏の家で育ち、のちに王氏の姓に戻ったので、魏延伝と裴松之が引く『漢晋春秋』は彼を何平と記しています。杜濩と朴胡に従って洛陽に行き、仮の校尉となりました。曹操に従って漢中攻めに来たところで劉備に降り、牙門将 · 裨将軍となりました。

建興6年(228)に諸葛亮が第一次北伐に出ると、王平は参軍馬謖の先鋒に属しました。馬謖が水辺を捨てて山の上に登り、挙措が乱れると、王平はたびたび諫めましたが馬謖は聞き入れず、街亭で大敗しました。兵たちはみな散り散りになりましたが、王平の率いる千人だけは太鼓を鳴らして踏みとどまったので、魏の将張郃は伏兵を疑って近づけませんでした。王平はゆっくりと諸陣営の散った兵を収め、将兵を率いて帰還しました。『華陽国志』も王平だけが兵を収めて殿を務めたと記しています。諸葛亮は馬謖と将軍張休 · 李盛を斬り、将軍黄襲らの兵を取り上げましたが、王平だけは特に重んじて参軍とし、五部を率いさせて陣営の事を兼ねて担当させ、討寇将軍に昇進させて亭侯に封じました。

建興9年(231)に諸葛亮が祁山を包囲したとき、王平は別に南の包囲陣を守りました。魏の大将軍司馬懿が諸葛亮を攻め、張郃が王平を攻めましたが、王平が固く守って動かなかったので、張郃は勝てませんでした。『漢晋春秋』はこのとき彼を無当監何平と呼んでいます。建興12年(234)に諸葛亮が武功で没して軍が撤退するとき、魏延が乱を起こしましたが一戦で崩れたので、王平伝はこれを彼の功として記しています。魏延伝は、魏延が南谷口を占拠して楊儀らを迎え撃つと、前で防いでいた何平が魏延の先頭を叱りつけて「公が亡くなられて、その身もまだ冷えておらぬのに、お前たちはどうしてこのような真似ができるのか」と言ったので、魏延の兵たちは非が魏延にあると知ってみな散り去ったと記しています。

その後、王平は後典軍 · 安漢将軍となり、車騎将軍呉懿の副として漢中に駐屯し、漢中太守を兼ねました。建興15年(237)に安漢侯に封じられ、呉懿に代わって漢中を督しました。延熙元年(238)に大将軍蒋琬が沔陽に駐屯すると、前護軍として蒋琬の府の事を担当し、延熙6年(243)に蒋琬が府に戻ると、前監軍 · 鎮北大将軍となって漢中を統べました。

延熙7年(244)春、魏の大将軍曹爽が歩騎十余万を率いて漢川に向かい、先鋒はすでに駱谷に達していました。漢中を守る兵は3万に満たず、諸将は大いに驚きました。ある者は、漢城と楽城の二城を固く守って敵を入れておけば、その間に涪の軍が関を救いに来るだろうと言いました。王平は「そうではない。漢中から涪までは千里近い。敵が関を得れば、それこそ禍となる」と言って、護軍劉敏と参軍の杜氏を先に送って興勢を占拠させ、自分は後ろを固めると言いました。敵が兵を分けて黄金(地名)に向かえば、自分が千人を率いて下って迎え撃ち、その間に涪の軍が到着するだろうというのでした。護軍劉敏だけが意見を同じくしてすぐにそのとおりにし、涪の諸軍と大将軍費禕が成都から相次いで到着すると魏軍は退却しました。すべて王平の計略どおりでした。蒋琬伝に付された劉敏の記録は、興勢に旗を多く並べて百余里を覆ったと記し、曹爽伝は、曹爽が兵6~7万を起こして駱谷に入ったものの、蜀が山に拠って固く守ったので進めずに退いたと記しています。このとき鄧芝は東に、馬忠は南に、王平は北の境にあって、いずれも名高い事績を残しました。

王平は軍中で育ったため手で字を書くことができず、知っている字は十字を超えませんでしたが、口述して書かせた文はみな筋道が通っていました。人に『史記』と『漢書』の本紀と列伝を読ませて聞き、その大意をすべて理解し、時折論じることもその要点を外しませんでした。法度に従い、言葉に戯れがなく、朝から晩まで一日中端然と座っていて、武将らしい様子がありませんでした。しかし王平伝は、彼の性格が狭量で人を疑い、自らを軽んじたのが欠点だったと記しています。『華陽国志』は、彼は文字をよく知らなかったものの、性格が鋭く聡明で考えに筋道があり、馬忠とともに功を残したと記しています。延熙11年(248)に没し、子の王訓が跡を継ぎました。

同じ郡の漢昌の人句扶も忠勇で寛大であり、たびたび戦いで功を立てましたが、功名と爵位は王平に次ぎ、左将軍 · 宕渠侯に至りました。裴松之が引く『華陽国志』は、のちに張翼と廖化が大将軍になると、当時の人々が「前には王平と句扶、後には張翼と廖化」と言ったと伝えています。陳寿は「王平は忠勇にして厳正であった」と評しました。

王平忠勇而嚴整
王平は忠勇にして厳正であった『三国志』蜀書 黄李呂馬王張伝 評
惟平所領千人鳴鼓自持,魏將張郃疑其伏兵,不往逼也
ただ王平の率いる千人だけが太鼓を鳴らして踏みとどまったので、魏の将張郃は伏兵を疑って近づけなかった『三国志』蜀書 王平伝

三国志演義

『三国演義』 第71~73回 · 第87~105回

演義で王平は第71回に初めて登場します。漢水で蜀軍と対峙した曹操が徐晃を先鋒にすると、巴西宕渠の人で曹操配下の牙門将軍である王平が、地理をよく知っていると名乗り出て副先鋒となります。徐晃が韓信にならって川を背に陣を敷こうとすると、王平は、急いで退かねばならないときはどうするのか、韓信は敵に謀がないと見抜いてその策を用いたが、将軍は趙雲と黄忠の意図を見抜けるのかと言って止めます。第72回で川を渡った徐晃が黄忠と趙雲に大敗して戻り、なぜ救わなかったのかと彼を殺そうとすると、王平はその夜陣営に火を放ち、漢水を渡って趙雲に降ります。劉備は「わしが王子均を得たからには、漢中を得ることは間違いない」と喜び、彼を偏将軍として道案内を任せます。第73回では劉封 · 孟達とともに上庸の諸郡を攻めます。

第87回から王平は諸葛亮の南征に部将として従い、第89回では数百の兵を率いて先頭に立って抜け道を探しますが、兵たちが啞泉の水を飲んで口がきけなくなると、諸葛亮とともに安楽泉を訪ねて治します。第92回では第一次北伐に出て、魏の駙馬夏侯楙を一合で生け捕りにします。

第95回で諸葛亮は、街亭を守りに行く馬謖に王平を付けて送り出し、彼が平素から慎重であることを知っているので重い役目を任せると言います。街亭に着いた馬謖が山の上に陣を敷こうとすると、王平は五つの道が集まる入口に陣を敷き、木を切って柵を立てようと繰り返し止めますが、馬謖は聞かずに兵五千だけを分け与えます。王平は山から十里離れた所に陣を敷き、その様子を図に描いて夜通し諸葛亮に送りますが、司馬懿は張郃に彼の道を塞がせたうえで水汲みの道を断ち、街亭を奪います。王平は張郃と数十合戦って退き、包囲された魏延と高翔を救い、ともに陽平関へ戻ります。第96回で諸葛亮がなぜ止めなかったのかとまず叱ると、王平は繰り返し勧めたが参軍が大いに怒って従わなかったと、事の次第を申し上げます。

その後も王平は、第97回で陳倉において王双の流星鎚に打たれた張嶷を廖化とともに救い、第98回で陰平を攻めに行って第99回にこれを奪い、同じ回で命を懸けて伏兵を引き受けると名乗り出て、諸葛亮から真の忠臣だと言われます。第102回では魏兵に変装して北原の兵糧車の列に紛れ込み、木牛流馬を引いてきて、木牛流馬の舌をひねって止める策で郭淮を出し抜きます。第104回で諸葛亮は死の前に、楊儀に馬岱 · 王平 · 廖化 · 張翼 · 張嶷を忠義の将として託します。第105回で魏延が南谷口を塞ぐと、楊儀の先鋒何平が進み出て、丞相が亡くなられたばかりで骨肉もまだ冷えていないのになぜ謀反するのかと叱りつけ、魏延の兵の大半が散りますが、演義はこの人物を何平とだけ呼んでいます。同じ回で蒋琬が呉の動きに備えて王平と張嶷を永安に置くよう申し上げるのを最後に、王平は演義から姿を消します。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 219曹操に従って漢中に来て劉備に降り、牙門将 · 裨将軍となりました。
  2. 228街亭で馬謖をたびたび諫め、軍が崩れたときに千人で太鼓を鳴らして踏みとどまり、散った兵を収めました。泣いて馬謖を斬る
  3. 228諸葛亮が特に重んじて参軍とし、五部を率いさせ、討寇将軍 · 亭侯としました。
  4. 231祁山の南の包囲陣を守り、張郃の攻撃を防ぎきりました。
  5. 234諸葛亮の死後に起きた魏延の乱を一戦で崩しました。
  6. 234後典軍 · 安漢将軍として呉懿の副となって漢中に駐屯し、漢中太守を兼ねました。
  7. 237安漢侯に封じられ、呉懿に代わって漢中を督しました。
  8. 238前護軍となり、漢中に出ていた大将軍蒋琬の府の事を担当しました。
  9. 243前監軍 · 鎮北大将軍となって漢中を統べました。
  10. 244二城に籠もろうという意見を退けて先に興勢を押さえ、曹爽の大軍を退かせました。漢中の盾
  11. 248世を去り、子の王訓が跡を継ぎました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 王訓

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

街亭の轍は踏まぬ。

口を開くとき

王子均だ。字は知らずとも理は知っておる。

言い返すとき

聞いたことは忘れぬ。申してみよ。

言葉に詰まって

…わしの言を聞くべきだったのだ。

言葉に詰まって

陣を立て直さねばな。

舌戦に勝って

山上に陣を敷くなと言ったではないか。

舌戦に敗れて

…守るべき所を守れなんだか。

勝ったあと

漢中は揺るがぬ。

敗れたあと

…興勢の陣を組み直さねばな。

倒れるとき

漢中はわしが守った。それでよい。

同じ旗の下

関羽諸葛亮趙雲張飛魏延龐統蒋琬徐庶関索馬謖法正李厳