字 威公 · 不詳 ~ 235年 · 荊州襄陽郡 · 劉備配下
諸葛亮の死後に魏延を除いたが、暴言と嫉妬で自滅した狭量な行政官
出典 · 『三国志』蜀書楊儀伝と裴松之注の『楚国先賢伝』 · 魏延伝 · 後主伝 · 費禕伝 · 蒋琬伝 · 諸葛亮伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 董允伝と裴松之注の『襄陽記』 · 楊戯伝の『季漢輔臣賛』 · 『晋書』宣帝紀 · 『華陽国志』劉先主志 · 劉後主志
楊儀は字を威公といい、襄陽の人です。建安年間に荊州刺史傅群の主簿でしたが、傅群に背いて襄陽太守の関羽のもとへ赴き、関羽は彼を功曹として西の劉備のもとへ使者に遣わしました。劉備は彼と軍事や国家の計略、政治の得失を語り合って大いに喜び、左将軍兵曹掾としました。裴松之注に引く『楚国先賢伝』は、彼の兄楊慮が幼いころから徳行があって江南の第一と称され、州や郡や公府が招いても応じなかったものの十七歳で亡くなり、郷里の人々が彼を徳行楊君と呼んだと記します。
建安24年(219)に劉備が漢中王となると、楊儀は尚書に抜擢されました。劉備が皇帝となって呉討伐に出るころ(221)、尚書令劉巴と仲が悪く、魏の領地である弘農の太守という名ばかりの職に追いやられました。建興3年(225)、丞相諸葛亮は彼を参軍として丞相府の事務を任せ、南征に連れて行きました。建興5年(227)に楊儀は諸葛亮に従って漢中へ行き、建興8年(230)に長史となって綏軍将軍を加えられました。
諸葛亮が幾度も軍を出すたびに、楊儀はいつも部隊を分ける計画を立てて兵糧を見積もりましたが、長く考えることなくたちまちのうちに済ませ、軍の指揮と手順はすべて楊儀の手で整えられました。諸葛亮は楊儀の才幹を深く惜しみ、魏延の勇猛さを頼りとしていたため、二人が不和であることを常に残念に思いながらも、どちらか一方を捨てることができませんでした。『三国志』費禕伝は、二人が並んで座り言い争うたびに、魏延がときに刀を挙げて突きつけると楊儀は涙をぽろぽろと流し、費禕がその間に入って諭したので、諸葛亮の存命中は二人とも用いることができたと記します。裴松之注に引く『襄陽記』によれば、孫権が費禕に「楊儀と魏延は牧童のような小人であり、諸葛亮がいなくなれば必ず禍乱となるだろう」と言うと、費禕は傍らにいた董恢に教えられ、二人の不和は私憤から起こったにすぎず、黥布・韓信のような御しがたい心はないと答えました。
建興12年(234)、楊儀は諸葛亮に従って谷口に出て駐屯し、諸葛亮は敵と対峙した陣中で亡くなりました。諸葛亮は病が重くなると、楊儀・費禕・姜維らとひそかに撤退の手順を定めておき、楊儀は死を伏せたまま費禕を遣わして魏延の意向を探らせました。裴松之注に引く『漢晋春秋』は、楊儀らが軍を整えて出ると司馬懿が追ってきましたが、姜維が楊儀に旗を返し太鼓を鳴らして迎え撃つように見せかけさせると司馬懿は退き、楊儀は陣を組んで去り、谷に入ってから喪を発したと記します。楊儀が定めたとおりに軍を順に退かせると、魏延は先に南へ向かいながら桟道を焼き払い、二人は互いに相手が謀反したと上表しましたが、朝廷の蒋琬と董允は楊儀を信じました。楊儀らは山を切り開いて道をつけながら昼夜を分かたず後を追い、南谷口で何平を先に立てて魏延の兵を四散させました。楊儀は馬岱を遣わして逃げる魏延を追わせて斬らせ、献じられた首を立ち上がって踏みつけ、「愚か者め、まだ悪事を働けるか」と言ったのち、魏延の三族を滅ぼしました。
軍を率いて帰還したうえ魏延まで討った楊儀は、功績が最も大きいのだから諸葛亮に代わって政権を握るべきだと考え、都尉の趙正を呼んで『周易』で占わせたところ家人の卦が出たので、黙って不快に思いました。しかし諸葛亮は日ごろから楊儀の性格が性急で狭量であるとして、意中を蒋琬に置いていました。蒋琬伝は、諸葛亮がひそかに後主へ「臣にもしものことがあれば、後事は蒋琬にお任せください」という表を奉っていたと記します。蒋琬が尚書令・益州刺史となり、帰還した楊儀は中軍師となりましたが、率いるものもなくただ暇なばかりでした。
かつて楊儀が劉備の尚書だったとき蒋琬は尚書郎で、のちに二人とも丞相の参軍と長史を務めましたが、楊儀は常に遠征に従って苦労の多い役目を担いました。官位も先で才能も勝ると自負していた楊儀は、怨みと憤りを顔色や言葉に表し、人々は彼が言葉を慎まないのを恐れて近づかず、後軍師の費禕だけが訪ねて慰めました。楊儀は費禕に恨みごとを並べるうち、「かつて丞相が亡くなられたとき、わたしが軍を挙げて魏へ走っていたなら、世渡りがこれほど落ちぶれたものになっただろうか。今さら悔やんでも取り返しがつかない」と言い、費禕はこの言葉をひそかに上表しました。
建興13年(235)正月、楊儀は官を剝奪されて庶人とされ、漢嘉郡へ移されました。移された先でもまた上書して朝廷を誹謗し、その言葉がきわめて激しかったため、朝廷は漢嘉郡に命じて彼を捕らえさせ、楊儀は自ら命を絶ちました。妻子は蜀へ帰りました。『華陽国志』はこれらの事をすべて建興13年に記します。楊戯は『季漢輔臣賛』で「威公は性急で狭量であり、衆人と異なっていた。平時には道理にかなっていたが、追い詰められると人を害し自らを傷つけた。順を捨てて凶に入ったのは、『周易』の言うとおりである」と述べました。陳寿は評で、楊儀は職務をよくこなして名を上げたが、禍を招き咎を受けたのはすべて自らに由来すると述べました。
楊儀以當官顯,劉琰舊仕,並咸貴重。覽其舉措,跡其規矩,招禍取咎,無不自己也威公狷狹,取異眾人;閒則及理,逼則傷侵『三国演義』 第91回 · 第95回 · 第97~98回 · 第100~102回 · 第104~105回
演義で楊儀は第91回、諸葛亮が第一次北伐を前に諸将の序列を定める場面で、領長史・綏軍将軍として初めて名が出ます。第95回では、馬謖が街亭で要路を捨てて山上に陣を敷いたと知った諸葛亮に、自分が馬謖に代わって行くと申し出ますが、出発する前に街亭失陥の知らせが届きます。第97回では「後出師表」を携えて成都へ行き、後主に奉ります。第100回では、兵糧の輸送を十日遅らせた苟安を斬ろうとする諸葛亮に、李厳が用いている者であり兵糧は西川から出るのだから、斬れば後で兵糧を送る者がいなくなると諫めて杖打ちだけで済ませ、撤退の際に竈を増やす理由を尋ねます。第101回では、兵を二隊に分けて百日ごとに交代で戦わせるよう進言し、馬忠とともに木門道に弓弩手を伏せておく役を担います。第102回では、剣閣から兵糧を運ぶのが難しいと憂えていたところで木牛と流馬を目にします。
第104回で病の重くなった諸葛亮は楊儀に錦嚢を授け、自分が死ねば魏延が必ず背くので、彼と対峙したときに開けて見よと言い、死後は喪を発さず各陣営をゆっくり退かせ、司馬懿が追ってきたら彫っておいた木像を車に座らせて押し出すよう託します。諸葛亮が亡くなると、楊儀は魏延が命に従わないのを見て姜維に殿を任せ、霊柩を奉じて先に退きます。第105回で魏延が桟道を焼いて道を塞ぐと、楊儀は後主に上表し、何平を先に立てて間道から背後へ回ります。南鄭の前で錦嚢を開いた楊儀は魏延に、「誰がわしを殺せるか」と三度叫べば漢中を差し出そうと言い、魏延が最初の一声を叫ぶや、背後にいた馬岱が彼を斬ります。
成都に戻った楊儀は自ら身を縛って罪を請いますが、後主は丞相の教えどおりに霊柩を奉じて帰り魏延を除いた功を称えて、中軍師とします。しかし官位が蒋琬より下になると、費禕に「丞相が亡くなられたばかりのとき、わたしが全軍を挙げて魏に降っていたら、これほど寂しい目にあっただろうか」と恨みを漏らします。費禕がひそかにこれを奏上すると、後主は怒って彼を獄に下し斬ろうとしますが、蒋琬がこれまで丞相に従って立てた功績を挙げて庶人に落とすよう願い出ます。庶人に追われた楊儀は恥じて、自ら首をかき切って死にます。演義で楊儀が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
兄 楊慮 · 妻子(名は伝わらない)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
帳簿はわしが握る。
帳簿は勘定が合わねばならぬ。
兵糧と文書を扱う者だ。狂いはない。
…わが功を認める者がおらぬ。
どこで勘定を誤ったか。
後事を託された者が、事を締めくくるのだ。
…いっそあのとき魏へ走るべきであった。
わが務めは果たした。
…この舌がまた先走ったか。
舌が…わしを殺したか。