字 公嗣 · 207年 ~ 271年 · 幽州涿郡涿県 · 劉備配下
賢相に任せれば理に従い、宦官に惑わされると暗愚となった蜀漢の後主
出典 · 『三国志』蜀書後主伝と裴松之注の『魏略』 · 『漢晋春秋』 · 『蜀記』 · 『諸葛亮集』 · 陳寿の評 · 蜀書二主妃子伝と裴松之注の孫盛『蜀世譜』 · 先主伝と裴松之注の『諸葛亮集』 · 諸葛亮伝 · 趙雲伝と裴松之注の『趙雲別伝』 · 董允伝 · 陳祗伝 · 姜維伝 · 譙周伝 · 郤正伝 · 魏書夏侯淵伝裴松之注の『魏略』 · 鄧艾伝 · 呉書薛綜伝裴松之注の『漢晋春秋』 · 『華陽国志』劉後主志
劉禅は字を公嗣といい、先主劉備の子で、史書はふつう彼を後主と呼びます。『三国志』二主妃子伝は、劉備が荊州にいたとき側室の甘夫人が彼を生んだと記し、裴松之は即位した年に十七歳だったという記録から逆算して、建安12年(207)に生まれたとみました。翌年、当陽の長坂で曹操の軍に追われた劉備が妻子を捨てて逃げると、趙雲が幼い彼を自ら抱き、甘夫人を守って、二人とも難を逃れました。裴松之注の『趙雲別伝』は、劉備が益州に入ったのち孫夫人が彼を連れて呉へ帰ろうとすると、趙雲と張飛が兵を率いて長江を遮り、取り戻したと記します。『魏略』は、彼が幼くして父とはぐれ、漢中で売られたのち取り戻されたという話を載せますが、裴松之は年が合わない虚言だとして退けました。
建安24年(219)劉備が漢中王になると王太子となり、章武元年(221)劉備が皇帝に即位すると丞相諸葛亮から印綬を受けて皇太子となり、張飛の長女を太子妃に迎えました。章武3年(223)永安で病が重くなった劉備は、諸葛亮に「子が補佐するに足るなら補佐し、才がなければ君が自ら取れ」と言って後事を託し、劉禅には「丞相とともに事を行い、父のように仕えよ」との詔を下しました。裴松之注の『諸葛亮集』に載る遺詔には、「悪が小さいからといって行ってはならず、善が小さいからといって行わずにいてはならない」という言葉もあります。4月に劉備が死ぬと、5月に成都で位を継ぎました。十七歳でした。
年を越してから改元する古来の法と異なり、その年のうちにすぐ建興と改元し、諸葛亮は武郷侯となって丞相府を開きました。正史は大小の事がすべて諸葛亮によって決められたとし、『魏略』は、劉禅が「政治は葛氏が行い、祭祀は寡人が行う」と言ったと伝えます。その年、張飛の長女を皇后に立て、鄧芝を遣わして呉と再び和を結び、建興3年(225)には諸葛亮が南中の四郡を平定しました。建興5年(227)諸葛亮が漢中へ出陣するにあたって出師の表を奉り、数年に及んだ北伐の末、建興12年(234)秋に渭水のほとりで死にました。劉禅は蒋琬を尚書令として国事を任せ、翌年には大将軍に昇らせました。
延熙元年(238)張皇后を立て、長男を太子としました。蒋琬 · 費禕とともに国を支えた董允は宮中のことを担い、劉禅が後宮を増やそうとすると、天子の妃嬪は十二人を超えないとして最後まで聞き入れず、劉禅は彼をいっそう憚りました。延熙9年(246)蒋琬と董允が相次いで死ぬと、『魏略』は劉禅がようやく自ら国事を執ったと記します。延熙12年(249)魏から逃れてきた夏侯覇には、「そなたの父は戦場で害されたのであって、わが先帝が自ら斬ったのではない」と慰め、自分の子を指して夏侯氏の外孫だと言ったと、裴松之注の『魏略』は記します。延熙16年(253)費禕が魏からの降人郭循に殺されてからは、姜維がほぼ毎年のように北へ出兵しました。
景耀元年(258)宦官の黄皓が初めて政事を専らにしました。董允伝は、劉禅が成長するにつれて黄皓を寵愛したものの、董允が生きている間は黄皓は黄門丞を越えられず、董允の後を継いだ侍中陳祗が黄皓と内外で手を結んでからは、劉禅が日ごとに董允を恨むようになったと記します。景耀2年(259)子の劉諶を北地王、劉恂を新興王、劉虔を上党王に封じ、翌年からは関羽 · 張飛 · 馬超 · 龐統 · 黄忠と趙雲に諡を贈りました。『華陽国志』は、景耀5年(262)姜維が黄皓を殺すよう願い出ると、劉禅が「黄皓は使い走りの小臣にすぎぬ」と言って聞き入れなかったと記します。裴松之注の『漢晋春秋』は、蜀に使いした呉の使者薛珝が「君主は暗愚で自らの過ちを知らず、臣下は身を守って罪を免れることばかり願っている」と伝えたといいます。
景耀6年(263)魏は鄧艾 · 鍾会 · 諸葛緒を幾筋もの道から送り出しました。姜維はそれに先立って張翼と廖化を送って要路を守らせるよう上表しましたが、黄皓が鬼神と巫女を信じて敵は来ないとし、劉禅にその件を伏せさせたので、群臣は知りませんでした。その年に炎興と改元し、冬には鄧艾が陰平の険しい道を越えて綿竹で諸葛瞻を破りました。呉へ逃れようという意見と南中へ行こうという意見が行き交うなか、劉禅は光禄大夫譙周の策に従って鄧艾に書を送って降伏し、その日、子の北地王劉諶は国の滅亡を悲しんで妻子を殺し、自ら命を絶ちました。劉禅は棺を車に載せ、自らを縛って鄧艾の陣営の門へ進み出て、鄧艾は縛めを解いて棺を焼いたのち、朝廷の命を借りて彼を驃騎将軍としました。
翌年(264)正月、鍾会が成都で乱を起こして死に、その混乱のなかで太子も乱兵に殺されました。劉禅は一族を率いて洛陽へ移り、3月に安楽県公に封じられ、食邑一万戸と絹一万匹、奴婢百人を賜り、子孫のうち都尉となったり侯に封じられたりした者は五十人余りでした。旧臣のうち妻子を残して一人で従っていったのは郤正と張通だけで、郤正の助けで振る舞いに落ち度がなくなると、劉禅は彼を知るのが遅かったことを嘆きました。『漢晋春秋』は、司馬昭が宴で蜀の昔の芸を演じさせると周りの者はみな悲しんだのに劉禅は笑って平然としており、別の日に蜀が恋しいかと問われると「ここが楽しく、蜀を思い出しません」と答えたと記します。泰始7年(271)洛陽で死去し、裴松之注の『蜀記』は、諡を思公とし、子の劉恂が後を継いだと記します。
陳寿は「後主は賢い宰相に任せれば道理に従う君主であり、宦官に惑わされれば暗愚な君主であった。白い糸は染めるとおりの色になるという言葉は、まことにそのとおりである」と評し、諸葛亮がいたときは十二年間改元せず、たびたび兵を起こしながらも赦免をみだりに出さなかったが、諸葛亮の死後はこの法度がしだいに崩れたと記しました。『華陽国志』に載る蜀郡太守王崇の論は、彼を「凡庸な君主」としました。
傳曰『素絲無常,唯所染之』,信矣哉他日,王問禪曰:「頗思蜀否?」禪曰:「此間樂,不思蜀。」『三国演義』 第34~119回
演義で劉禅は第34回に初めて登場します。建安12年(207)春、新野で甘夫人が彼を生むとき、白い鶴が役所の屋根に飛んできて鳴き、部屋には香りが満ち、甘夫人が夜に北斗七星を呑む夢を見たので、幼名を阿斗としたといいます。第41回の長坂では、糜夫人が傷ついた身で阿斗を趙雲に託して井戸に身を投げ、趙雲は鎧の紐を解いて阿斗を懐に抱いたまま曹操の陣を突き破って出てきます。第42回で劉備は趙雲から阿斗を受け取って地に投げ、「この小僧のために、わが大将を一人失うところだった」と言います。第61回では孫夫人が七歳の阿斗を連れて呉へ帰ろうとすると、趙雲と張飛が長江で船を阻み、阿斗だけを取り戻します。
第85回で劉備は白帝城で諸葛亮に「子が補佐するに足るなら補佐し、才がなければ君が成都の主となれ」と言い、子らには丞相を父のように仕えよと命じます。位に就いた劉禅は張飛の娘を皇后に迎え、魏が五路から攻めてくるとの知らせに自ら丞相府を訪ね、池のほとりで魚を眺めていた諸葛亮を「相父」と呼んで策を問います。第100回では苟安が広めた流言を聞いて、戦いのさなかの諸葛亮を呼び戻し、第105回では諸葛亮が死んだとの知らせに「天がわたしを見捨てた」と言って玉座に倒れて泣き、自ら霊柩を定軍山まで送って葬ります。
第112回で譙周は、朝廷が酒色に溺れ、宦官黄皓を信じていると嘆きます。第113回で劉禅は黄皓の言葉だけを聞いて戦場の姜維を呼び戻し、第115回では一日に三度詔を下して姜維を引き返させたのち、黄皓を殺せという姜維に「黄皓は使い走りの小臣だ」と言って、かえって黄皓を呼んで姜維に拝礼させます。第116回では魏軍が攻めてくるという姜維の上表を受けても、黄皓が連れてきた巫女が「数年後には魏の地も陛下のものになる」と言うと、その言葉を信じて宮中で宴ばかり開きます。
第118回で譙周の言に従って降伏することにすると、五男の北地王劉諶が「どこに降伏する天子がおりましょうか」と言って城を背に戦おうと泣いて諫めますが、劉禅は彼を宮門の外へ追い出します。劉諶が昭烈帝の廟で自ら命を絶った翌日、劉禅は太子と諸王、臣下六十余人を率い、自らを縛り棺を車に載せて北門の外十里で降伏します。第119回で洛陽に来た彼は司馬昭に叱責されて安楽公に封じられ、宴で蜀の音楽に蜀の臣下たちがみな涙を流すなかでも一人笑い、蜀が恋しいかと問われると「ここが楽しく、蜀を思い出しません」と答えます。郤正が教えた言葉で答え直したのが見破られると、司馬昭は彼が正直者だとして、それ以上疑いません。演義で劉禅が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 劉備 · 母 甘夫人 · 妻 張飛の二人の娘(敬哀皇后 · 張皇后) · 子 七人(太子 · 北地王劉諶 · 新興王劉恂 など)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
朕も出たぞ。
相父の言うとおりにすればよいのではないか?
朕が愚かだという噂、すべてが本当ではないぞ。
…相父、お助けくだされ。
ここは楽しくて、蜀を思い出さぬ。
朕とて勝つときはあるぞ!
負けても飯はうまいのう。
朕とてやるときはやるのだ。
…ここも楽しいことは楽しい。
ここは楽しくて、蜀が恋しくない。