劉勲

字 子臺 · 不詳 ~ 不詳 (213年以後) · 徐州琅邪国 · 袁術配下

劉勲の肖像

孫策の誘いに乗って上繚へ出陣し、皖城を失った袁術の廬江太守

能力値

統率50武力63知力35政治16魅力32

カード

攻撃力 4体力 3コスト 2価値 9職分 猛将
突騎 号令
召喚物鉄騎を1体呼ぶ(1/2)

正史

出典 · 『三国志』呉書孫策伝と裴松之注の『江表伝』 · 魏書劉曄伝 · 司馬芝伝と裴松之注の『魏略』 · 武帝紀と裴松之注の『魏書』 · 文帝紀 裴松之注の『典論』 · 袁術伝 · 呉書宗室伝 · 周瑜伝 · 『後漢書』袁術伝

劉勲は字を子台といい、琅邪の人です。彼には独立した伝がなく、『三国志』孫策伝や劉曄伝、司馬芝伝に引かれた『魏略』などに記録が散らばっています。『魏略』によれば、彼は中平末に沛国建平県の長となり、曹操とは以前からの知り合いでした。

袁術は孫策に廬江太守陸康を攻めさせ、勝てば廬江を与えると言いましたが、城が落ちると旧部下の劉勲を太守とし、孫策はいっそう失望しました。劉曄伝によれば、揚州の荒々しい頭目鄭宝を斬った劉曄がその手勢を劉勲に引き渡し、劉勲がわけを尋ねると、劉曄は法度もなく略奪で生きてきた者たちなので長く率いるのは難しいと答えました。このころ劉勲の軍は長江と淮水の間で強勢でした。

建安4年(199)に袁術が死ぬと、長史楊弘と大将張勲らがその軍勢を率いて孫策のもとへ向かおうとしましたが、劉勲が要所で迎え撃ってことごとく捕らえ、財宝を収めて帰りました。裴松之注に引かれた『江表伝』は、袁術の従弟袁胤と娘婿黄猗らが曹操を恐れて寿春を守れず、袁術の棺と妻子、部曲を連れて皖城の劉勲のもとへ来たと記しています。兵糧の乏しい劉勲は、従弟の劉偕を豫章太守華歆のもとへ送って穀物を求めました。華歆は海昏の上繚の宗帥たちに米を出させましたが、ひと月を過ぎても数千斛しか集まらず、劉偕は劉勲に上繚を攻めるよう知らせました。

孫策は強大になった劉勲を憎みました。劉曄伝によれば、孫策はへりくだった書状と手厚い贈り物を送って「上繚の宗民に長年侮られてきたが、道が不便で討てずにいる。大国が討ってくれれば外から助けよう」と言い、孫策伝は、孫策が偽って盟約を結び、上繚を攻めるよう勧めたと記しています。真珠や葛布まで受け取った劉勲が喜ぶと、内外がこぞって祝いましたが、劉曄だけはそうしませんでした。劉曄は「上繚は小さくとも城が堅く堀が深いので、十日のうちには落とせません。兵が外で疲れているあいだに孫策が手薄な所を突けば、進んでも退いても行き場がなくなります」と止めましたが、劉勲は聞き入れませんでした。

『江表伝』によれば、劉勲はひそかに海昏へ兵を出しましたが、宗帥たちが陣を空にして隠れたため、何も得られませんでした。黄祖を討ちに向かっていた孫策は石城でこれを聞き、従兄の孫賁 · 孫輔に8千を与えて彭沢で待ち構えさせ、自ら周瑜とともに2万を率いて皖城を攻め落としました。袁術の工人たちと鼓吹部曲3万余人、袁術と劉勲の妻子がみな孫策の手に渡りました。彭沢で孫賁 · 孫輔に敗れた劉勲は、尋陽を経て西塞へ向かい、沂に砦を築いて、劉表に急を告げ、江夏太守黄祖に救援を求めました。黄祖は長子の黄射に水軍5千を与えて送りましたが、孫策が再び攻めて大いに破り、黄射も逃走し、劉勲は劉偕とともに北の曹操のもとへ向かいました。孫策伝は、彼が麾下の数百人だけを連れて行ったとし、武帝紀は、廬江太守劉勲が軍勢を率いて降伏し、列侯に封じられたと記しています。

曹操のもとで彼は平虜将軍華郷侯となり、建安18年(213)に曹操へ魏公の位を勧めた臣下たちの中に名が見えます。曹丕は『典論』で、平虜将軍劉勲、奮威将軍鄧展らと酒を飲んでいたとき、サトウキビを剣に見立てて鄧展と手合わせしたと記しています。『魏略』は、彼が曹操との旧交を頼みに日ごとに驕り、たびたび法を犯して人を誹謗し、李申成の告発で捕らえられて裁かれ、兄が豫州刺史在任中に病死した後、その跡を継いでいた甥の劉威も官を失ったと記しています。司馬芝伝によれば、彼の賓客や子弟が広平でたびたび法を犯すと、彼は名も記さない書状で広平令司馬芝に頼み込みましたが、司馬芝は返事をせず、すべてを法どおりに処理しました。劉勲はのちに不軌を企てたとして誅され、彼と行き来していた者たちもみな罪を受けましたが、司馬芝はこの件で称賛されました。

上繚雖小,城堅池深,攻難守易,不可旬日而舉
上繚は小さくとも城が堅く堀が深く、攻めるに難く守るに易いので、十日のうちには落とせません『三国志』魏書劉曄伝
勛自恃與太祖有宿,日骄慢,數犯法,又誹謗
劉勲は太祖との旧交を頼みに日ごとに驕り、たびたび法を犯し、また人を誹謗した『三国志』魏書司馬芝伝 裴松之注の『魏略』

三国志演義

『三国演義』 第29回

演義で劉勲の名は第29回の冒頭に一度出てきます。江東を手に入れて兵は精強、兵糧も十分となった孫策が、建安4年に廬江を急襲して奪い、劉勲を破ったのち、虞翻に豫章へ檄文を送らせると、豫章太守華歆が降伏したと記しています。続いて、孫策の勢いを聞いた曹操が「獅子の子とは鋒を争いがたい」と嘆き、曹仁の娘を孫策の末弟孫匡に嫁がせて縁組を結んだという話へ移ります。孫策が劉勲をおびき出したことや劉曄の諫言、黄祖に救援を求めたことは演義にありません。また第21回は、袁術が死ぬと甥の袁胤が棺と妻子を連れて廬江へ向かう途中、徐璆にことごとく殺されたと描いており、袁術の妻子が劉勲に身を寄せたことも出てきません。演義で劉勲が登場するのはこの一行だけです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 189中平末に沛国建平県の長となり、曹操とは以前からの知り合いでした。
  2. 195袁術が陸康を攻めて得た廬江の太守となり、袁術に仕えました。
  3. 199袁術が死ぬと、孫策のもとへ向かおうとした楊弘 · 張勲を捕らえ、袁術の妻子を受け入れました。
  4. 199孫策の誘いに乗って上繚を攻めに出たあいだに、皖城を奪われました。
  5. 199西塞へ退いて黄祖に救援を求めましたが、孫策に再び大敗しました。
  6. 199北の曹操のもとへ行って降伏し、列侯に封じられました。
  7. 213平虜将軍華郷侯として、曹操に魏公の位を勧めた臣下たちの中に名を連ねました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

兄(豫州刺史) · 兄の子 劉威 · 従弟 劉偕

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

廬江太守劉勲である。兵は十分におるぞ。

口を開くとき

廬江の兵は江淮の間で随一だ。言葉で押してみよ。

言い返すとき

言葉は甘いが、贈り物はもっと甘い。そなたは何を差し出す?

言葉に詰まって

…上繚は小さくとも城が堅いというあの言葉が、今になって耳に届くわ。

言葉に詰まって

城を空けさせるための書状であったか。わしが耳を塞いでおったのだ。

舌戦に勝って

策はそなたのものであったが、城はまだわしのものだ。

舌戦に敗れて

空の城を置いて出た報いか。北へでも行くしかあるまい。

勝ったあと

袁術の軍勢はすべてわしの手に入った。

敗れたあと

皖城が落ちたとは…西塞へ退くぞ。

倒れるとき

旧交ばかり頼みにしたのが…わしの過ちよ。

同じ旗の下

袁術