李典

字 曼成 · 不詳 ~ 不詳 (215年以後) · 兗州山陽郡鉅野県 · 曹操配下

李典の肖像

学問を愛した知将で、張遼と力を合わせ合肥で孫権を撃破した名将

能力値

統率77武力77知力79政治74魅力62

カード

攻撃力 5体力 4コスト 3価値 11職分 軍師
無双 コスト 3
味方1体がこの局面2回攻撃する · 受ける反撃を2ずつ軽減(未行動の味方のみ)

正史

出典 · 『三国志』魏書李典伝と裴松之注の『魏書』 · 魏書武帝紀 · 張遼伝 · 趙儼伝 · 臧覇伝 · 三少帝紀 · 蜀書先主伝

李典は字を曼成といい、山陽郡鉅野県の人です。叔父の李乾は気概が強く、賓客数千家を集めて乗氏に拠っていましたが、初平年間に衆を率いて曹操に従い、寿張で黄巾を破り、袁術を討ち、徐州の戦いにも加わりました。呂布の乱が起こると、曹操は李乾を乗氏に帰して諸県を慰撫させましたが、呂布の別駕薛蘭と治中李封がともに背こうと誘っても応じなかったので、彼らは李乾を殺しました。曹操は李乾の子李整に父の兵を率いさせ、李整は諸将とともに薛蘭 · 李封を破り、兗州の諸県を平定した功で青州刺史に至りました。李整が死ぬと、李典は潁陰令を経て中郎将となって李整の兵を引き継いで率い、離狐太守に移りました。裴松之注に引く『魏書』は、李典が若いころ学問を好んで軍事を好まず、師について『春秋左氏伝』を読み、多くの書を広く読んだので、曹操はこれを良しとして民を治める仕事を任せてみたと記します。

建安5年(200)、曹操が官渡で袁紹と対峙すると、李典は一族と部曲を率いて穀物と絹を運んで軍に供給し、袁紹が敗れた後、裨将軍となって安民に駐屯しました。曹操が黎陽で袁譚 · 袁尚を討ったときは、程昱らとともに船で兵糧を運びましたが、袁尚が送った魏郡太守高蕃が黄河のほとりに陣を張って水路を断ちました。曹操は船が通れなければ陸路を行けと命じていましたが、李典は諸将と協議して「高蕃の兵は鎧が少なく、水だけを頼みにして油断しているので、攻めれば必ず勝つ。戦場のことは朝廷から制しないもので、国家の利になるなら独断してもよい」と言い、急いで攻めようとしました。程昱ももっともだと考え、北へ黄河を渡って高蕃を破り、水路は再び開けました。

そのころ劉表が劉備を北へ送り、葉に至ると、曹操は李典を夏侯惇につけて防がせました。ある日、劉備が陣営を焼いて去ると、夏侯惇は諸軍を率いて追おうとしましたが、李典は「敵が理由もなく退くのは、必ず伏兵があるからだ。南の道は狭く草木が深いので、追ってはならない」と止めました。夏侯惇は聞き入れず于禁とともに追い、李典は残って守りましたが、はたして夏侯惇らが伏兵の潜む所に入り込んで戦いが不利になると、李典が救援に向かい、援軍を見た劉備は兵を散じて退きました。先主伝は、この戦いが博望であり、劉備が伏兵を置いて陣営を焼いたのち偽って逃げたと記します。

建安9年(204)、鄴を包囲する戦いに従軍して鄴が平定された後、李典は楽進とともに壺関で高幹を包囲し、長広で海賊管承を討って、いずれも破りました。武帝紀は、高幹を討ったのを建安10年(205)のこと、管承を破ったのを翌年8月のこととして記します。李典は捕虜将軍となり、都亭侯に封じられました。彼の一族と部曲三千余家が乗氏に住んでいましたが、李典が自ら魏郡へ移ることを願い出ると、曹操は「卿は耿純にならおうというのか」と笑いました。耿純は家を焼き、棺を車に載せて漢の光武帝に従った人です。李典は「私は愚かで臆病、功も小さいのに、爵位と寵愛があまりに厚いので、一族を挙げて力を尽くすべきです。しかも戦乱がまだ止まないので、都の周りを満たして四方を抑えようとしているのであって、耿純にならおうとしているのではありません」と辞退し、部曲と一族一万三千余人を鄴へ移しました。曹操はこれを称えて彼を破虜将軍に昇進させました。趙儼伝は、建安13年(208)に曹操が荊州を討ったとき、趙儼が監督した七軍のうちに李典の軍があったと記します。

その後、李典は張遼 · 楽進とともに合肥に駐屯しました。張遼伝によれば、三人が率いる兵は七千余人で、曹操は張魯を討ちに発つ際、護軍の薛悌に「賊が来たら開けよ」と書いた箱を預けました。建安20年(215)、孫権が十万の衆で合肥を包囲したので箱を開けると、「孫権が来たら張 · 李の二将軍は出て戦い、楽将軍は護軍を守って戦うな」との命が入っていました。楽進 · 李典 · 張遼はもともと互いに仲が悪かったので、張遼は李典が従わないのではと心配しました。しかし李典は「これは国家の大事であり、君の計略がどうであるかを見るだけだ。私が私怨で公の義を忘れようか」と快く言い、衆を率いて張遼とともに出撃し、孫権を破って追い払いました。張遼伝も、諸将が疑ったとき李典が張遼と心を合わせたと記し、武帝紀は、その年の8月に孫権が合肥を包囲すると張遼と李典が破ったと記します。李典はこの功で封邑百戸を加増され、合わせて三百戸となりました。

李典は学問を好み、儒者らしい気風を重んじ、諸将と功を争いませんでした。賢い士大夫を敬い、常に足りないかのように慎んだので、軍中では彼を長者(徳のある年長者)と呼びました。36歳で亡くなり、子の李禎が後を継ぎましたが、先に兵を引き継いだ従兄の李整とは字の異なる名です。没年は記されていませんが、曹丕が即位したときにはすでに子が後を継いでいました。黄初元年(220)、曹丕は合肥の功を称えて李禎の封邑を百戸増やし、李典の別の子一人に関内侯の爵位と封邑百戸を与え、李典に愍侯の諡を贈りました。三少帝紀は、正始4年(243)7月、朝廷が曹真 · 張遼 · 楽進 · 文聘らとともに破虜将軍李典を太祖の廟庭に配して祀らせたと記します。陳寿は「李典は儒者らしい気風を重んじ、義によって私的な確執を忘れたのは立派である」と評しました。

李典貴尚儒雅,義忘私隙,美矣
李典は儒者らしい気風を重んじ、義によって私的な確執を忘れたのは立派である『三国志』魏書 李典伝 評
此國家大事,顧君計何如耳,吾可以私憾而忘公義乎
これは国家の大事であり、君の計略がどうであるかを見るだけだ。私が私怨で公の義を忘れようか『三国志』魏書 李典伝

三国志演義

『三国演義』 第5~68回

演義で李典は第5回に初めて登場します。曹操が陳留で義兵を募ったとき、楽進とともにやって来た「山陽鉅鹿の人」として紹介され、曹操は二人を帳前の吏とします。第6回で董卓を追う曹操に従い、第12回では濮陽城に先に入ると願い出て、黄巾の頭目黄劭を生け捕りにし、逃げる薛蘭を城前の橋のそばで阻みます。第23回で禰衡は曹操の臣下を一人ずつけなし、「李典は書状を伝え檄文を届けさせる程度だ」と言います。

第35回と第36回では樊城の曹仁に従って新野の劉備を攻めますが、趙雲に敗れて戻り、樊城へ退こうと言って曹仁に首をはねられそうになり、夜に陣営を襲おうという曹仁を止めますが聞き入れられず、大敗します。第39回の博望坡では夏侯惇の副将として出陣し、狭い道に至ると于禁に、敵が火で攻めてきたらどうするのかと心配しますが、炎の中で関羽に行く手を阻まれ、かろうじて抜け出します。第40回で夏侯惇が、李典と于禁は前もって言っていたと悔やむと、曹操は二人に褒美を与えます。第42回では張飛が落としていった長坂橋を前に、諸葛亮の計略かもしれないので急いで進むまいと言いますが、曹操は聞き入れません。

第50回で曹操は合肥を張遼に任せ、楽進と李典をその副とし、第53回で孫権が合肥を攻めると、李典は弓で呉の将宋謙を射落とします。第67回で孫権が十万で再び合肥を攻めると、張遼と仲の悪かった李典は、出て戦おうという張遼の言葉に初めは黙っていましたが、「将軍がこのようにおっしゃるのに、私がどうして私怨で国家の大事を忘れましょうか」と言って従い、逍遥津の北に潜んで小師橋を落とし、孫権の軍を攻めます。第68回の濡須の戦いでも張遼に従って戦いますが、演義で李典が登場するのはここまでで、その死は描かれません。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 200官渡で袁紹と対峙する曹操に、一族と部曲を率いて穀物と絹を運んで供給しました。
  2. 202黎陽の戦いの際、船で兵糧を運ぶなか、水路を断った高蕃を自らの判断で攻めて破りました。
  3. 202博望で伏兵を疑って夏侯惇を止め、戦いが不利になると救援に向かって劉備を退かせました。
  4. 204鄴を包囲する戦いに従軍し、鄴を平定しました。
  5. 205楽進とともに壺関で高幹を攻めました。
  6. 206楽進とともに海賊管承を破り、捕虜将軍 · 都亭侯となりました。
  7. 208曹操の荊州遠征に従い、趙儼が監督する七軍の一つを率いました。
  8. 215合肥で張遼とともに出撃して孫権を破り、封邑百戸を加増されました。私情を収める
  9. 220曹丕が即位して合肥の功を称え、子の封邑を増やし、愍侯の諡を贈りました。
  10. 243正始4年、太祖の廟庭にともに配して祀られる功臣に加えられました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

叔父 李乾 · 従兄弟 李整 · 子 李禎(跡を継ぐ)

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

書も読み、槍も取る。

口を開くとき

李曼成である。私情は捨て置いた。

言い返すとき

書を読む武人だ。道理で答えよう。

言葉に詰まって

…盤面を読み直さねばならぬ。

言葉に詰まって

感情に流されている時ではない。

舌戦に勝って

国の大事の前に、古い恨みなどない。

舌戦に敗れて

…わが見通しが甘かったか。

勝ったあと

書と槍がともに勝った。

敗れたあと

…書物では学べぬこともあるか。

倒れるとき

書も剣も…及ばなんだか。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真