字 元倹 · 不詳 ~ 264年 · 荊州襄陽郡 · 劉備配下
関羽の主簿に始まり、蜀が滅ぶまで戦場を守り続けた老将
出典 · 『三国志』蜀書宗預伝に付された廖化伝と裴松之注の『漢晋春秋』 · 宗預伝 · 姜維伝 · 後主伝 · 王平伝の裴松之注の『華陽国志』 · 魏書郭淮伝 · 鄧艾伝 · 呉書陸遜伝 · 『華陽国志』劉後主志
廖化は字を元倹、もとの名を淳といい、襄陽の人です。『三国志』に自身の伝はなく、蜀書宗預伝の後に短い伝が付されています。前将軍関羽の主簿でしたが、建安24年(219)関羽が敗れると呉に属することになりました。劉備のもとへ帰りたかった彼は偽って死んだふりをし、人々に本当だと信じ込ませ、老いた母を連れて昼夜を問わず西へ向かいました。ちょうど東へ呉討伐に出た劉備に秭帰で出会うと、劉備は大いに喜んで彼を宜都太守としました。呉書陸遜伝は章武2年(222)夷陵での劉備の別督たちの中に廖淳という名を記しますが、廖化のもとの名が淳です。
劉備の死後、廖化は丞相諸葛亮の参軍となり、のちに広武を守る督となりました。魏書郭淮伝は、正始9年(248)ごろ、姜維が西へ羌族の首領治無戴を迎えに行く際、陰平太守廖化を成重山に残して城を築かせ羌族の人質を収めさせたところ、郭淮が兵を分けるべきでないという諸将の意見を退けて廖化を攻めたので、姜維が急ぎ戻って彼を救ったと記します。嘉平2年(250)魏の詔は、郭淮の功として廖化を破り句安を捕らえたことを挙げます。鄧艾伝は、嘉平元年(249)姜維が廖化を白水の南に送って鄧艾と向かい合って陣を敷かせ足止めさせようとしたが、鄧艾がその策を見抜き、夜のうちに洮城へ先回りして防いだと記します。
その後、廖化は右車騎将軍 · 仮節 · 并州刺史に上って中郷侯に封じられ、果敢で激烈なことで名を知られました。『華陽国志』は、広武督廖化が景耀2年(259)に右車騎将軍となったと記します。官位は張翼と並び、宗預より上であったので、裴松之が引く『華陽国志』は、張翼と廖化が大将軍になると当時の人々が「前には王平と句扶、後には張翼と廖化」と言ったと伝えます。宗預伝によれば、諸葛瞻が初めて朝政を担ったとき、廖化が宗預を訪ねてともに諸葛瞻のもとへ行こうと誘うと、宗預は「我らは齢七十を越え、享けるべきものはすでに分に過ぎるほど享けて、ただ死ひとつが残っているだけなのに、どうして若者の門をみじめに叩けようか」と言って行きませんでした。
裴松之が引く『漢晋春秋』は、景耀5年(262)姜維が軍勢を率いて狄道へ出ると、廖化が「兵をおさめなければ必ず自らを焼くと言うが、伯約のことだ。知恵は敵に勝らず力は敵に劣るのに、休みなく用いて、どうして立っていられようか」と嘆いたと伝えます。景耀6年(263)姜維は、鍾会が関中で兵を整えているとして張翼と廖化を送り陽安関の入口と陰平の橋頭を守らせようと上表しましたが、黄皓の言葉でその件は握りつぶされました。鍾会と鄧艾が動いてからようやく廖化は沓中の姜維を助けに出発し、陰平に至って魏の諸葛緒が建威へ向かうと聞いてひと月余りとどまりました。鄧艾に敗れた姜維が陰平に戻り、関の入口が崩れると、廖化は姜維とともに陰平を捨てて退き、張翼 · 董厥と合流して剣閣を守り鍾会を防ぎました。後主が降伏すると姜維に従って鍾会のもとへ行き、翌年の咸熙元年(264)春、宗預とともに洛陽へ移される途中で病にかかって死にました。廖化伝には生年が記されておらず、陳寿が彼に特に残した評もありません。
稍遷至右車騎將軍,假節,領并州刺史,封中鄉侯,以果烈稱智不出敵,而力少於寇,用之無厭,何以能立『三国演義』 第27~119回
演義で廖化は第27回に初めて登場します。曹操のもとを去り二人の兄嫁の車を守って進む関羽の前に、黄色い頭巾に錦の衣をまとった若者が槍を手に、馬の首に人の首をひとつぶら下げて、百余人を率いて現れます。彼は襄陽の人廖化で、乱世に江湖をさまよって五百余りの手勢を集め略奪で生きてきましたが、仲間の杜遠が劉皇叔の夫人たちを誤って捕らえてきたので、彼を斬ってその首を差し出しに来たと言います。関羽は感謝しながらも、彼が結局は黄巾の残党だと考えて、付き従いたいという願いも金や絹も受け取りません。第28回で甘夫人は、廖化を退けたことを引き合いに出して周倉の一党を受け入れるのを止めます。
第60回で劉備が西川へ発とうとするとき、廖化が兵を率いて来て降ると、劉備は彼に関羽を補佐させ、彼は荊州に残ります。第73回では樊城を攻める関羽の先鋒となって曹仁の将翟元と戦い、逃げるふりをして敵を誘い込み、第76回では荊州を失った関羽が麦城に閉じ込められると、自ら名乗り出て関平の護衛で包囲を突破し、上庸へ駆けつけて劉封と孟達に救援を乞います。二人が山城を得たばかりで兵を割けないと断ると、廖化は額を地に打ちつけて関公はもうおしまいだと叫び、馬を飛ばして成都へ向かいます。第77回で成都に着いて関羽の敗戦を知らせ、第79回では関羽父子が死んだのは劉封と孟達の罪だとして、泣きながら二人を斬るよう願い出ます。
諸葛亮の北伐で廖化は、第97回の陳倉で三千の兵で夜に地下道を掘り、王平とともに王双の流星鎚に打たれた張嶷を救います。第103回では林へ逃げ込む司馬懿を追って刀を振るいますが木に食い込み、司馬懿が東側に捨てていった金の兜を拾って戻ると、諸葛亮はこれを第一の功として記録します。姜維の時代には張翼とともに先鋒を務め、第113回で鄧艾の策を先読みして伏兵を率いて出撃し、鄭倫を一刀のもとに斬ります。第115回で姜維がどこから攻めるかを尋ねると、廖化は毎年の戦で兵も民も安らかでなく、魏には鄧艾がいると言って止め、漢中に残されます。第116回では陰平の橋頭を守りに出て姜維と出会い、第117回で姜維 · 張翼とともに剣閣へ退いて董厥と会います。蜀が滅んだのち、第119回は廖化と董厥が病を口実に起き上がらず、憂いのうちに死んだと結びます。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
母(名は不詳)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
まだ槍は手放しておらぬ。
黄巾の頃から戦ってきた身だ。貫禄が違う。
蜀に人なしなどと、わしの前で言うな。
…体が昔のようにはいかぬ。
それでも先鋒はわしの持ち場だ。
老兵は死なぬものよ。
次の世代がおらぬのが心残りだ…。
老いた槍もまだ貫けるぞ。
…道は長いな。
黄巾からここまで…長かった。