孫亮

字 子明 · 243年 ~ 260年 · 揚州呉郡富春県 · 孫堅配下

孫亮の肖像

鼠の糞を割って偽りを見抜いたが、権臣に廃された呉の幼い皇帝

能力値

統率21武力10知力70政治76魅力70

カード

攻撃力 2体力 2コスト 2価値 6職分 能吏
急報 コスト 1
次に召喚する味方1体が召喚酔いなしで登場

正史

出典 · 『三国志』呉書孫亮伝 · 呉主伝 · 妃嬪伝(潘夫人 · 全夫人 · 朱夫人) · 孫覇伝 · 諸葛恪伝 · 孫綝伝 · 魏書諸葛誕伝と裴松之注の『呉歴』 · 『江表伝』 · 『呉録』

孫亮は字を子明といい、孫権の末子です。家は呉郡富春の人です。『三国志』妃嬪伝は、会稽句章の人である母の潘夫人が身ごもったとき、ある者が竜の頭を手渡し、それを蔽膝で受ける夢を見て孫亮を産んだと記しています。孫権は高齢で、孫亮が最も幼かったので、とりわけ彼を気にかけました。

孫権の長女全公主孫魯班は、太子孫和の母を讒言したことがあって心穏やかでなかったので、孫権の意向に頼って前もって孫亮と結んでおこうと、全尚の娘をしきりに褒めて孫亮の伴侶に迎えるよう勧めました。赤烏13年(250)孫和が廃されると、孫権は孫亮を太子に立て、全氏を妃としました。太元元年(251)冬、孫権が病に伏すと、大将軍諸葛恪を太子太傅に、会稽太守滕胤を太常に召し、ともに太子を補佐せよとの詔を下しました。翌年(252)4月に孫権が死ぬと、太子孫亮が帝位に即きました。その年の12月、諸葛恪は東興を囲んだ魏の諸葛誕 · 胡遵ら7万を大いに破り、翌年(253)正月、孫亮は全氏を皇后に立てました。

その年、新城で疫病により兵の大半を失って戻った諸葛恪が人々の恨みを買うと、10月、武衛将軍孫峻は諸葛恪が変を企てていると言い立てて孫亮と謀り、酒宴を開いて彼を招きました。酒が数巡して孫亮が奥へ入ると、詔があると叫んで諸葛恪を斬りました。裴松之注に引かれた『呉録』は、孫峻が刀を手に詔と称すると、孫亮が立ち上がって「朕のしたことではない」と叫び、乳母が彼を奥へ連れ戻したと記していますが、裴松之は、孫亮を先に奥へ入らせてから詔と称したとする本伝と『呉歴』に従いました。孫峻は丞相となって朝廷を握り、太平元年(256)9月に彼が死ぬと、従弟の孫綝が内外の軍を率い、滕胤と呂拠を除いて大将軍となりました。

太平2年(257)4月、孫亮は正殿に出て大赦を行い、初めて自ら政務を執りました。孫綝が上奏する表をしばしば問いただし、十五歳から十八歳の兵家の子弟三千余人を選んで「朕がこの軍を立てたのは、ともに成長しようと思ってのことだ」と言い、毎日苑で訓練させました。『呉歴』は、孫亮が孫権の時代の旧事を調べ、「先帝は自ら定められたことが多かったのに、今、大将軍は事を問うにも、朕にはただ書けと言うだけなのか」と左右に尋ねたと記しています。

『呉歴』はまた、孫亮が西苑に出て生の梅を食べていたとき、黄門に宮中の蔵から蜜漬けの梅を取って来させたところ、蜜の中に鼠の糞があったと記しています。蔵の役人は、黄門が蜜を求めたがあえて与えなかったと答え、黄門が罪を認めないので、侍中の刁玄 · 張邠は獄に下して取り調べようと言いました。孫亮は「これはたやすく分かる」と言って鼠の糞を割らせ、外は湿って中は乾いているので、必ず黄門の仕業だと言いました。黄門が罪を白状すると、左右はみな驚き恐れました。『江表伝』は、鼠の糞が入っていたのは交州が献上したサトウキビの飴だとし、孫亮が、蓋をした器に鼠の糞が入るはずがないと言って黄門の恨みを突き止めたと記しています。裴松之は『江表伝』のほうが事実に近いと述べました。

『三国志』孫覇伝によれば、その年、孫覇の子の呉侯孫基が孫亮に仕えていたとき、御馬を盗んで乗り、獄に入れられました。侍中刁玄が、法では死罪だが魯王は早くに亡くなったので哀れんでやってほしいと言うと、孫亮は「法は天下がともにするものだ。どうして親族だからといって曲げられようか」と言って放免する道を探させ、刁玄の言に従って宮中にだけ赦を下し、孫基を救いました。

その年の5月、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南の兵を率いて寿春城に立てこもり、将軍朱成を送って臣と称する上疏を奉り、子の諸葛靚らを人質として送りました。6月、呉は文欽 · 唐咨 · 全端らの歩騎三万を送って彼を救わせ、魏書諸葛誕伝は、呉が大いに喜んで諸葛誕を左都護 · 大司徒 · 驃騎将軍 · 青州牧とし、寿春侯に封じたと記しています。7月、孫綝は鑊里に出て、朱異に甲士五万で包囲を解かせようとしましたが、朱異が兵糧が尽きて退くと、9月に彼を斬って建業へ戻りました。12月、城内の全端 · 全懌らが魏に降り、翌年(258)3月に司馬昭が寿春を破って、諸葛誕は戦死しました。

孫綝は孫亮が問いただすことが多くなるとひどく恐れ、建業へ戻ってからは病と称して朝見に出ませんでした。孫亮は孫綝を嫌い、姉の朱公主孫魯育が死に至った経緯を調べ、孫峻を正さなかったとして虎林督朱熊とその弟朱損を責め、丁奉に命じて二人を殺させました。孫綝が参内して諫めましたが聞き入れず、孫亮は全公主 · 太常全尚 · 将軍劉丞と孫綝を殺すことを謀りました。孫綝伝の本文は、孫綝の従姉の娘である孫亮の妃が謀を知らせたと記しています。裴松之注に引かれた『江表伝』は、孫亮が全尚の子の黄門侍郎全紀を呼び、孫綝が朱異に罪を着せて功臣を勝手に殺したとして彼を討つ考えを明かし、孫綝の従姉である全紀の母には知らせるなと命じましたが、全尚が深く考えずに妻に話し、その妻が孫綝にひそかに知らせたと記しています。

太平3年(258)9月、孫綝は夜に兵を起こして全尚を捕らえ、弟の孫恩を送って劉丞を蒼龍門の外で殺したのち、宮殿を囲みました。『江表伝』は、孫亮が大いに怒って馬に乗り、弓を手にして「朕は大皇帝の嫡子で、位にあることすでに五年。誰があえて従わぬというのか」と言って出ようとしましたが、近臣と乳母が引き止めて出られなかったと記しています。孫亮は二日間食事をとらず、妻に「そなたの父が愚かで、朕の大事をしくじった」と罵り、全紀は自ら命を絶ちました。孫綝は大臣たちを宮門に集め、孫亮が荒んで病み乱れていると宗廟に告げて彼を廃し、会稽王に落としました。このとき十六歳でした。孫綝が迎え立てた琅邪王孫休は、その年の12月に孫綝を斬りました。

永安3年(260)、会稽王孫亮が再び天子になるという噂が流れ、彼の宮人が、孫亮が巫に呪いの言葉で祈らせたと訴えました。孫亮は候官侯に落とされて封国へ向かう途中、道中で自ら命を絶ち、護送した者たちが罪に問われました。裴松之注に引かれた『呉録』は、孫休が毒で殺したという説もあると記しています。妻の全氏は候官までついて行き、呉が平定された後に帰りました。

陳寿は「孫亮は幼子であるのに賢い補佐がなかったので、位を全うできなかったのは必然の勢いであった」と評し、孫休がすでに廃された孫亮を天寿で死なせなかったのは兄弟の情義が薄かったと述べました。

孫亮童孺而無賢輔,其替位不終,必然之勢也
孫亮は幼子であるのに賢い補佐がなかったので、位を全うできなかったのは必然の勢いであった『三国志』呉書三嗣主伝 評
若矢先在蜜中,中外當俱溼,今外溼裏燥,必是黃門所爲
鼠の糞が先に蜜の中にあったのなら、外も中もともに湿っているはずだ。今、外は湿って中は乾いているから、必ず黄門の仕業である『三国志』呉書孫亮伝 裴松之注の『呉歴』

三国志演義

『三国演義』 第108回 · 第111回 · 第113回

演義で孫亮は第108回に初めて登場します。演義は、孫権が孫和を廃し、潘夫人が産んだ三男の孫亮を太子に立てたとし、孫権が死ぬと諸葛恪が孫亮を皇帝に立て、年号を大興と改めたと記しています。魏の司馬昭が、孫権が死んだばかりで孫亮は幼く弱いので隙に乗じるべきだと言うと、魏は三路から呉を攻めます。新城で敗れて戻った諸葛恪が病を口実に朝見に出なくなると、孫亮は自ら彼の屋敷へ出向いて見舞います。孫峻と滕胤が参内して諸葛恪を除こうとひそかに奏上すると、孫亮は「朕もこの者を見るとひどく恐ろしい。常に除こうと思っていたが、機を得られなかった」と言って、ひそかに図るよう許し、壁の帳の中に武士を伏せ、杯を投げるのを合図にしようという滕胤の策に従います。酒宴で酒が数巡すると、孫亮は用事を口実に先に席を立ち、その後、孫峻が諸葛恪を斬ります。

第111回は、孫峻が病で死に、孫綝が政を補佐して滕胤 · 呂拠 · 王惇らを殺し、権勢がすべて孫綝に帰したので、孫亮は聡明ではあったがどうすることもできなかったと記しています。

第113回で孫綝は、寿春の全端 · 唐咨らが魏に降ると、その家族をことごとく斬ります。このとき十七歳だった孫亮は、殺戮が過ぎると快く思いません。西苑に出て生の梅を食べていた孫亮は、黄門が持ってきた蜜に鼠の糞を見つけ、蔵の役人に黄門が蜜を求めたかを尋ねたうえで、「糞が長く蜜の中にあったのなら内も外も湿り、新しく入ったのなら外は湿って中は乾く」と言って割って見させ、黄門の罪を明らかにします。演義は、孫亮の聡明さはおおむねこのようであったが、孫綝に押さえつけられて思うようにできなかったと付け加えます。

ある日、孫亮はそばにいた国舅の黄門侍郎全紀に、孫綝が権勢を握って勝手に人を殺すと泣いて打ち明け、将軍劉丞と城門を分けて守らせ、自ら出て孫綝を殺すと言って密詔を書き与えます。そして、全紀の母は孫綝の姉なので決して知らせるなと言い含めます。しかし全尚が妻に三日のうちに孫綝を殺すと話し、その妻が孫綝に書状を送ります。孫綝の兵が宮殿を囲むと、孫亮は全皇后を指さして「そなたの父と兄が朕の大事をしくじった」と罵り、剣を抜いて出ようとしますが、皇后と侍中ら近臣が衣をつかんで泣き、放しません。孫綝は臣下を集め、主上は荒んで久しく病み乱れているので廃すると言い、これに逆らった尚書桓懿を自ら斬ったのち、孫亮を無道の暗君と罵って会稽王に落とします。中書郎李崇が印綬を奪うと孫亮は大いに泣いて去り、演義は「憐れむべし聡明の主、朝堂に臨むを得ず」という後人の詩を添えます。演義で孫亮が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 250孫和が廃されると太子に立てられ、全尚の娘を妃に迎えました。
  2. 251母の潘氏が皇后となり、病に伏した孫権が諸葛恪 · 滕胤に太子を補佐させました。
  3. 2524月に孫権が死ぬと呉の皇帝に即位し、太傅諸葛恪が政務を担いました。
  4. 25212月、諸葛恪が東興を囲んだ魏の7万を大いに破りました。
  5. 253正月、全氏を皇后に立てました。
  6. 25310月、孫峻が孫亮と謀って酒宴の席で諸葛恪を斬り、丞相となりました。
  7. 2569月、孫峻が死に、従弟の孫綝が朝廷の実権を引き継ぎました。
  8. 2574月、正殿に出て自ら政務を執り始め、兵家の子弟三千余人を選んで苑で訓練させました。
  9. 257御馬を盗んで乗った孫基を、宮中に赦を下して救いました。
  10. 2575月に寿春の諸葛誕が臣と称すると、6月に文欽 · 唐咨 · 全端ら三万を送って救わせました。
  11. 2579月、孫綝が鑊里で朱異を斬り、建業へ戻りました。
  12. 258姉の朱公主が死に至った経緯を調べ、丁奉に命じて朱熊 · 朱損の兄弟を殺させました。
  13. 258全尚 · 劉丞と孫綝を除こうとしたが謀が漏れ、9月に会稽王に落とされ、孫綝が孫休を立てました。
  14. 260候官侯に落とされ、封国へ向かう途中で自ら命を絶ちました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 孫権 · 母 潘皇后 · 妻 全氏(全尚の娘) · 兄 孫和 · 孫覇 · 孫休

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

大皇帝の嫡子、孫亮である。

口を開くとき

先帝は自ら定められたことが多かった。今日の言葉は朕が定めよう。

言い返すとき

たやすく分かることだ。割ってみれば中身が見えるものだ。

言葉に詰まって

…外は湿っておるのに、中は乾いておるな。

言葉に詰まって

法は天下がともにするものだ。情で迫るでない。

舌戦に勝って

中身が見えたぞ。もう観念せよ。

舌戦に敗れて

…そなたの父が愚かで、朕の大事をしくじったか。

勝ったあと

この軍とともに育つと言ったではないか。

敗れたあと

馬に乗っても、引き止める手が多いことよ。

倒れるとき

五年座った位であった。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普