字 元復 · 不詳 ~ 不詳 · 青州東莱郡黄県 · 孫堅配下
官位が越騎校尉・呉郡太守に至った太史慈の子
出典 · 『三国志』呉書 太史慈伝と裴松之注の『呉書』
太史享は太史慈の子です。生没年や育った土地は伝わっておらず、父の太史慈は東莱郡黄県の人です。『三国志』太史慈伝の本文は末尾に、子の太史享の官位が越騎校尉に至ったと一行記し、裴松之注に引く『呉書』は、太史享の字は元復で、尚書と呉郡太守を歴任したと付け加えています。何年にどの官職に就いたのか、三つの官職がどの順だったのかは記されていません。
父の太史慈は孫策のもとで建昌都尉となり、海昏を守って劉表の甥の劉磐を防ぎました。孫権が跡を継ぐと南方の事を任され、建安11年(206)に41歳で死去しました。『呉書』によれば、太史慈は死に臨んで、七尺の剣を帯びて天子の階に昇ろうとした志を果たせなかったことを嘆き、孫権は深く悲しみ惜しみました。しかし孫権が遺された子をどう遇したかは、どの史書にも出てきません。
史書に残るのはこれだけです。太史享がどの戦いに出たのか、誰の時代に仕えたのか、いつどのように死んだのか、子孫がいたのかは伝わっていません。
子享,官至越騎校尉享字元复,历尚书、吴郡太守『三国演義』 第53回
演義で太史享は、第53回の終わりに名前が一度出てくるだけです。演義の太史慈は赤壁の戦いの後、合肥を攻める孫権に従って張遼と七、八十合渡り合い、同郷の戈定を城内に潜り込ませて火を合図に張遼を討とうとしますが、策を見抜いた張遼が浴びせた矢を何本も受けます。兵を収めて南徐に戻った後、病が重くなった太史慈は、大丈夫が乱世に生まれたからには三尺の剣を帯びて世に稀な功を立てるべきなのに志を遂げられなかったと叫び、41歳で息を引き取ります。孫権はひどく悲しんで彼を南徐の北固山の麓に手厚く葬り、その子の太史享を府中に引き取って養います。演義で太史享が出てくるのはこの一行だけで、成長して何をしたかは描かれません。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 太史慈
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
太史慈の子である。
父上の弓には及ばずとも、志は継いでおる。
代々仕えるのもまた武芸よ。
…父上なら耐えたであろう。
家名がかかっておる。
太史家の名はまだ生きておる。
父上、さらに精進いたします。
父上に恥じぬ働きだ。
…まだ父上には及ばぬ。
父の弓を受け継いだ。