呉懿

字 子遠(推定) · 不詳 ~ 237年 · 兗州陳留郡 · 劉備配下

呉懿の肖像

妹が劉備の皇后となり、諸葛亮の死後に漢中を任された外戚の将

能力値

統率82武力72知力69政治70魅力79

カード

攻撃力 4体力 5コスト 3価値 11職分 君主
再整備 号令
傷ついた味方全体の体力を2回復(最大体力まで · 傷ついた者がいなければ号令しない)

正史

出典 · 『三国志』蜀書 楊戯伝(『季漢輔臣賛』と陳寿が付した文) · 穆皇后伝と裴松之注の孫盛『蜀世譜』 · 先主伝 · 後主伝 · 馬良伝の馬謖の条 · 魏延伝 · 王平伝 · 劉焉伝 · 李厳伝 裴松之注の諸葛亮の公文 · 『華陽国志』劉二牧志 · 劉先主志 · 劉後主志

呉懿は『三国志』に独立した伝がなく、陳寿が楊戯伝の『季漢輔臣賛』に付した一節と、穆皇后伝 · 先主伝 · 後主伝などに散らばる数行、そして『華陽国志』に彼の事績が残っています。『三国志』は彼の名を呉壱と記し、『華陽国志』と演義は呉懿と記しており、字は子遠で陳留の人です。穆皇后伝によれば、彼は幼くして父を亡くしましたが、父がもともと劉焉と旧交があったため、一家を挙げて劉焉に従って蜀に入りました。野心を抱いていた劉焉は、人相見の上手な者が呉懿の妹を大いに貴くなる相だと言うと、妹を息子の劉瑁の妻とし、妹は劉瑁の死後、寡婦として暮らしました。

劉璋の時代に呉懿は中郎将となり、兵を率いて涪で劉備を防ぎましたが降伏しました。先主伝は、劉璋が遣わした劉璝 · 冷苞 · 張任 · 鄧賢らが涪でことごとく敗れて綿竹へ退いたと記し、『華陽国志』はこの一団に呉懿も併せて記して、建安18年(213)に呉懿が劉備の陣中に来て降伏し、討逆将軍になったとしています。建安19年(214)に劉備が益州を平定すると、呉懿は護軍 · 討逆将軍となりました。先主伝は、劉備が劉璋の用いていた董和 · 黄権 · 李厳や、劉璋の姻戚である呉懿 · 費観らをみな顕職に就け、その才能を尽くさせたと記しています。その頃、孫夫人が呉へ帰ると、臣下たちは寡婦となっていた呉懿の妹を娶るよう勧め、劉備が劉瑁と同族であることをためらうと、法正が晋の文公と子圉の故事を挙げて勧めたので、夫人として迎えました。妹は建安24年(219)に漢中王后、章武元年(221)に皇后となりました。

章武元年(221)に呉懿は関中都督となり、『華陽国志』は、建興元年(223)に後主が即位すると彼が魏延とともに都亭侯に封じられたと記しています。建興6年(228)に諸葛亮が祁山へ出陣するとき、馬良伝の馬謖の条は、魏延 · 呉懿のような宿将がいたので、論者は皆これらを先鋒にすべきだと言ったが、諸葛亮は衆議に逆らって馬謖を抜擢し、馬謖は街亭で張郃に敗れたと記しています。

建興8年(230)、呉懿は魏延とともに南安の境に入って魏の将費瑶を破り、高陽郷侯に進封されて左将軍となりました。魏延伝はこの戦いを、魏延が西の羌中に入り、陽谿で魏の後将軍費瑶 · 雍州刺史郭淮を大いに破った出来事として記し、『華陽国志』は魏延と呉懿がともに陽谿で二人を破ったと記しています。翌年、諸葛亮が李平を弾劾して奉った公文(裴松之注)に名を連ねた将の中に、呉懿は左将軍で荊州刺史を兼ねる高陽郷侯として出てきます。

建興12年(234)に諸葛亮が死に、魏延が楊儀と争って死ぬと、呉懿は車騎将軍 · 仮節となって漢中を統べ、雍州刺史を兼ね、済陽侯に進封されました。王平伝は、王平が車騎将軍呉懿の副となって漢中に留まり、漢中太守を兼ねたと記しています。呉懿は建興15年(237)に亡くなり、王平が彼を継いで漢中を統べました。穆皇后伝は呉懿が車騎将軍に昇って県侯に封じられたと記し、裴松之注に引く孫盛の『蜀世譜』は、孫の呉喬が李雄の地に取り残されて三十年を過ごしながらも、ついに李雄に屈しなかったと伝えています。

陳寿は、彼の事績が失われたため伝を立てないと記しました。楊戯は延熙4年(241)に著した『季漢輔臣賛』で「車騎将軍は高潔剛毅で、広く人を愛し、弱い力で強敵を抑えて危地に陥らなかった」と称えました。史書に残る呉懿の事績はこれだけです。

車騎高勁,惟其汎愛,以弱制強,不陷危墜
車騎将軍は高潔剛毅で広く人を愛し、弱い力で強敵を抑えながら危地に陥らなかった『三国志』蜀書 楊戯伝『季漢輔臣賛』
時有宿將魏延、吳壹等,論者皆言以為宜令為先鋒
当時、魏延 · 呉懿のような宿将がいたので、論者は皆これらを先鋒にすべきだと言った『三国志』蜀書 馬良伝の馬謖の条

三国志演義

『三国演義』 第62~65回 · 第77回 · 第91~92回 · 第98~102回 · 第105回

演義で呉懿は第62回に初めて登場し、演義は彼を劉璋の母方の叔父として描きます。鄧賢を失ったという知らせに劉璋の長男劉循が雒城を守りに出ると、誰が助けるかと問う劉璋の前に、叔父の呉懿が自ら行くと名乗り出ます。彼は呉蘭 · 雷銅を副将として2万を率いて雒城に至り、涪江の水を切って劉備軍を水浸しにしようという冷苞の策に従います。

第64回で張任が偽って敗れ張飛をおびき出すと、呉懿が一隊の兵で道をふさいで張飛を包囲しますが、川辺から現れた趙雲と渡り合って一合で生け捕りにされます。劉備が降伏するかと問うと「すでに捕らわれた身、どうして降伏しないことがありましょう」と言って降伏し、諸葛亮に雒城を守る者たちと、城の東の橋の名が金雁橋であることを教えます。張任の死後は、厳顔とともに蜀の降将として先に立って雒城に降伏を呼びかけ、張翼とともに趙雲を案内して外水方面の江陽 · 犍為を平定しに向かいます。第65回では、成都を得た劉備が官職を授けた降将たちの中に名が挙がります。

第77回で法正は、漢中王劉備に呉懿の妹を王妃に迎えるよう勧めます。人相見が大いに貴くなる相だと言った女性で、劉焉の子劉瑁と婚約していたが、劉瑁が早くに亡くなったため寡婦として暮らしているというのです。劉備が劉瑁と同族であることをはばかると、法正は晋の文公と懐嬴の故事を挙げて勧めます。

第91回の諸葛亮の最初の出師で、呉懿は左将軍 · 高陽侯として名が挙がり、第92回では南安を守ります。第98回では呉班とともに陣営の外に潜んで張虎 · 楽綝の退路を断ち、第99回では馬忠 · 張嶷 · 呉班とともに張郃 · 戴陵を迎え撃ちながら退いて敵を誘い込みます。第100回では呉班とともに秦良を伏兵で討ち、魏軍の衣を着た兵を率いて曹真の陣営へ攻め込みます。第101回では祁山の陣営を守ったのち西川へ退き、第102回では呉班とともに筏の兵を受け持って渭水の浮橋を焼きに向かいますが、呉班は矢に当たって死に、呉懿の兵は魏延 · 馬岱の敗残兵を救って川辺で食い止めます。第105回で諸葛亮が死ぬと、後主はその遺言に従って呉懿を車騎将軍とし、仮節を授けて漢中を統べさせ、姜維とともに漢中に留まって魏を防がせます。演義で呉懿が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 213劉璋の中郎将として涪で劉備を防いでいましたが、劉備の陣中に来て降伏しました。
  2. 214益州が平定されると護軍 · 討逆将軍となり、妹が劉備の夫人となりました。呉氏の二人
  3. 221関中都督となり、その年に妹が皇后に昇りました。
  4. 223後主が即位すると魏延とともに都亭侯に封じられました。
  5. 228諸葛亮が祁山へ出陣するとき、論者は彼を先鋒に推しましたが、馬謖が抜擢されました。
  6. 230魏延とともに南安の境に入って費瑶を破り、高陽郷侯 · 左将軍となりました。
  7. 234諸葛亮の死後、車騎将軍 · 仮節として漢中を統べ、雍州刺史を兼ねました。
  8. 237建興15年に世を去り、王平が彼を継いで漢中を統べました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

妹 穆皇后(劉備の皇后) · 族弟 呉班 · 孫 呉喬

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

蜀の外戚、呉子遠だ。

口を開くとき

漢中を預かる者だ。ここは静かなものよ。

言い返すとき

騒ぎ立てることはない。落ち着いてゆこう。

言葉に詰まって

…守りを見直さねばな。

言葉に詰まって

揺らげば国境が揺らぐ。

舌戦に勝って

国境が静かなのはわしの功だ。

舌戦に敗れて

…一か所を取り逃したか。

勝ったあと

最前線は揺るがなかった。

敗れたあと

…門が一つ緩んでおったか。

倒れるとき

漢中の門は固く閉ざせ。

同じ旗の下

関羽諸葛亮趙雲張飛魏延龐統蒋琬徐庶王平関索馬謖法正