呉班

字 元雄 · 不詳 ~ 不詳 (231年以後) · 兗州陳留郡 · 劉備配下

呉班の肖像

夷陵の戦いと諸葛亮の北伐で最前線を指揮した蜀漢の猛将

能力値

統率74武力71知力56政治48魅力67

カード

攻撃力 4体力 4コスト 2価値 8職分 猛将

正史

出典 · 『三国志』蜀書 楊戯伝(『季漢輔臣賛』に陳寿が付した文) · 先主伝 · 諸葛亮伝 裴松之注の『漢晋春秋』 · 李厳伝 裴松之注の諸葛亮の公文 · 張飛伝 · 呉書 陸遜伝 · 『晋書』宣帝紀 · 『後漢書』何進伝 · 『華陽国志』劉先主志 · 劉後主志

呉班は字を元雄といい、『華陽国志』によれば陳留の人です。『三国志』に自身の伝はなく、陳寿が楊戯伝の『季漢輔臣賛』呉懿の条に付した二行と、先主伝 · 陸遜伝、裴松之注に引く『漢晋春秋』などに名が何度か出るだけです。生没年は伝わりません。『季漢輔臣賛』に付した文は彼を呉懿の族弟とし、大将軍何進の属官だった呉匡の子と記します。『華陽国志』は彼を呉懿の従弟と記します。『後漢書』何進伝によれば、呉匡は何進が目をかけた部曲将で、中平6年(189)に何進が宦官に殺されると袁術とともに宮門を攻め、何進の弟の車騎将軍何苗が宦官と共謀したと疑って「大将軍を殺したのは車騎将軍だ」と言い、董卓の弟董旻とともに何苗を攻め殺しました。

『季漢輔臣賛』に付した文は、呉班が任侠で名高く、官位は常に呉懿に次いだと記します。劉備の時代に彼は領軍となりました。章武元年(221)7月、劉備が呉を討ちに出ると、先主伝は呉の将陸遜 · 李異 · 劉阿らが巫県と秭帰に陣を敷いたが、将軍呉班と馮習が巫県で李異らを破り、秭帰まで進んだと記します。『華陽国志』は二人を左 · 右領軍と呼びます。翌年正月、呉班は陳式とともに水軍を率いて夷陵に駐屯し、長江の東西両岸を挟んで陣を敷きました。

陸遜伝によれば、劉備は巫峡と建平から夷陵の入り口まで数十か所に陣を連ね、馮習を大督に、張南を前部とした後、まず呉班に数千を与えて平地に陣を敷かせ、戦いを挑ませました。呉の諸将はみな攻めようと言いましたが、陸遜は「必ず謀りごとがあるから様子を見よう」と言い、計略が通じないと悟った劉備は谷に伏せていた兵八千を率いて出てきました。その年の夏、劉備は猇亭で大敗し、馮習と張南は戦死しましたが、呉班の名はその後も史書に出てきます。

建興9年(231)諸葛亮が再び祁山に出たとき、裴松之注に引く『漢晋春秋』は、5月に司馬懿が張郃に南囲の何平を攻めさせ、自らは中央の道から諸葛亮に向かうと、諸葛亮が魏延 · 高翔 · 呉班を送って迎え撃たせて大いに破り、甲首3千、玄鎧5千領、角弩3,100張を得たと記します。しかし『晋書』宣帝紀は、司馬懿が鹵城に巡らされた諸葛亮の囲みを攻め落とし、夜に逃げる彼を追撃して破り、捕らえたり斬ったりした者は万を数えたと記しており、二つの記録は食い違います。その年に諸葛亮が李平を弾劾して上った公文(裴松之注)に名を連ねた将のうち、呉班は後方の部隊を率いる後将軍 · 安楽亭侯として出てきます。

後主の代に呉班はしだいに昇進して驃騎将軍 · 仮節となり、綿竹侯に封じられました。『華陽国志』は彼の爵位を郷侯とだけ記します。いつどのように死んだかは伝わりません。

以豪俠稱,官位常與壹相亞
任侠で名高く、官位は常に呉懿に次いだ『三国志』蜀書 楊戯伝に付した陳寿の文
先遣吳班將數千人於平地立營,欲以挑戰
まず呉班に数千を率いて平地に陣を敷かせ、戦いを挑もうとした『三国志』呉書 陸遜伝

三国志演義

『三国演義』 第65回 · 第81~84回 · 第91回 · 第98~102回

演義で呉班の名が初めて出るのは第65回です。成都を得た劉備から恩賞を受けた、荊州以来の文武の官のひとりです。第81回では、荊州から来て劉備に謁見して牙門将となり、張飛を助けて閬中を守っていた張飛の副将として紹介されます。張飛が范彊 · 張達に殺されると、呉班はまず表を上って天子に知らせ、張飛の長子張苞に棺を整えさせます。劉備は閬中の呉班から表が届いたと聞いただけで「ああ、三弟が死んだのか」と言って地団駄を踏みます。張苞と関興が先鋒の印を争った後、劉備は詔を下して呉班を先鋒とし、二人には御駕を守らせます。

第82回、先鋒の印を受けた呉班は蜀を出てから至る所で降伏を受け入れつつ宜都に至り、関興 · 張苞が孫桓を打ち破ると張南 · 馮習を率いて追撃します。張南 · 馮習が夜に孫桓の陣を襲おうと言うと、呉班は朱然の水軍に退路を断たれることを案じますが、張南の策どおり関興 · 張苞を山の谷間に伏せ、三方に分かれて孫桓の陣を攻め、孫桓を夷陵城に追い込んで包囲します。第83回では、老いたと言われて怒ってやって来た黄忠を迎え、馮習を送って助けさせます。夏になって陣を林の中に移すとき、劉備は呉班に弱兵一万余りを与えて呉の陣に近い平地にとどまらせ、自らは精兵八千を谷に伏せて陸遜を誘い出そうとします。

第84回、陸遜は「先鋒呉班」と書いた旗の下の老弱の兵を見て、谷に殺気が立ちこめているのを見抜いて攻めず、呉班が関の前に来て罵り戦いを挑んでも出ません。三日後、呉班の兵が退くと谷から劉備の伏兵が出てきます。蜀の陣が焼かれた日、張南とともに夷陵城を囲んでいた呉班は幾重もの囲みを破って抜け出し、追ってくる呉軍から趙雲の助けを得て白帝城へ帰ります。

第91回、諸葛亮の最初の出師で呉班は後将軍 · 安楽侯として名が挙がり、第98回から第101回まで呉懿とともに伏兵を受け持ったり、祁山の陣を守ったりします。第102回では諸葛亮の命で呉懿とともに筏の兵を率いて渭水の浮橋を焼きに向かう途中、北岸に潜んでいた張虎 · 楽綝の弓弩手に射られて水に落ちて死にます。演義で呉班が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 221領軍として馮習とともに巫県で呉の将李異らを破り、秭帰まで進みました。
  2. 222正月に陳式とともに水軍を率いて夷陵に駐屯し、長江の両岸に陣を敷きました。
  3. 222数千を率いて平地に陣を敷き戦いを挑みましたが、陸遜は謀りごとを疑って攻めませんでした。常に先陣に立つ
  4. 231『漢晋春秋』によれば、魏延 · 高翔とともに司馬懿の軍を大いに破りました。
  5. 231諸葛亮が李平を弾劾する公文に、後将軍 · 安楽亭侯として名を連ねました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 呉匡(何進の部曲将) · 族兄 呉懿

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

先陣はわが持ち場だ。

口を開くとき

先鋒ならまずわが名を呼ばれよ。

言い返すとき

前に立った者だけが知ることがある。

言葉に詰まって

…火攻めはもうこりごりだ。

言葉に詰まって

退いてもまた進む。

舌戦に勝って

最前線の答えだ。

舌戦に敗れて

夷陵の炎が思い出される。

勝ったあと

先陣は崩れなかった。

敗れたあと

…先陣が押されたか。

倒れるとき

先陣に立つのがわが務めだった。

同じ旗の下

関羽諸葛亮趙雲張飛魏延龐統蒋琬徐庶王平関索馬謖法正