呂布

字 奉先 · 不詳 ~ 198年 · 并州五原郡九原県 · 一勢力の主

呂布の肖像

仕えた丁原と董卓を殺し、流浪の末に下邳で曹操に殺された飛将

能力値

統率95武力100知力26政治13魅力36

カード

攻撃力 7体力 7コスト 5価値 17職分 猛将
飛将 号令
召喚酔いなしで登場し、この局面2回攻撃し反撃を受けない
断末魔 絶命
自身を討った敵を先に道連れにし、その退場後に敵全体に1ダメージ

正史

出典 · 『三国志』魏書呂布伝と裴松之注の『英雄記』 · 『曹瞞伝』 · 『九州春秋』 · 『献帝春秋』 · 『魏氏春秋』 · 魏書董卓伝 · 武帝紀 · 張邈伝 · 典韋伝 · 荀攸伝 · 蜀書先主伝 · 『後漢書』呂布伝 · 董卓伝 · 王允伝 · 孝献帝紀

呂布は字を奉先といい、五原郡九原県の人です。勇猛で武勇に優れ、并州で仕えていましたが、并州刺史の丁原が騎都尉として河内に駐屯した際、彼を主簿として大いに目をかけました。中平6年(189)に霊帝が崩じると、丁原は洛陽に来て何進とともに宦官を除こうとし、執金吾となりました。何進が死んで都に入った董卓は、丁原の兵を併せようとして、丁原の信任を受ける呂布をそそのかして彼を殺させました。呂布が丁原の首を斬って差し出すと、董卓は彼を騎都尉とし、父子の誓いを結びました。呂布は弓馬に長け、膂力が並外れていたので「飛将」と呼ばれ、中郎将に上って都亭侯に封じられました。

董卓は人に狙われるのを恐れ、出入りのたびに呂布に身辺を守らせました。『後漢書』董卓伝は、遷都の際に呂布に命じて歴代皇帝の陵墓を暴かせたと記しています。初平2年(191)、呂布は騎督として大督護の胡軫とともに陽人の孫堅を討ちに行きましたが、二人が反目して軍中が驚き乱れて散り、孫堅に追われて逃げました。董卓は気が短く、少しでも意に沿わないと手戟を呂布に投げつけ、呂布は素早くかわして詫びたものの、内心では恨みを抱きました。また中閤を守るうちに董卓の侍女とひそかに通じ、事が露見するのではと常に不安を抱いていました。

同じ并州の人である司徒王允は、呂布を厚く遇していました。呂布が訪ねて董卓に殺されかけた件を打ち明けると、僕射の士孫瑞と董卓を除こうと謀っていた王允は、内から呼応してほしいと頼みました。呂布が父子の間柄をどうするのかと問うと、王允は「君はもともと姓が呂であって、骨肉の間柄ではない」と答えました。初平3年(192)4月、天子の病が癒えたことを祝う会で、呂布は同郡の騎都尉李粛らに衛士の服を着せて掖門を守らせました。李粛の戟が鎧に阻まれ、董卓が車から落ちて「呂布はどこにいる」と叫ぶと、呂布は詔があると言って矛で突き殺しました。王允は彼を将軍とし温侯に封じてともに朝政を担いましたが、『後漢書』王允伝は、王允が呂布を剣客とみなして軽んじたので二人の間が離れたと記しています。

呂布が涼州の人々を嫌ったので李傕らが結束して長安を攻め、呂布は防ぎきれず、董卓が死んで二か月もたたないうちに騎兵数百とともに武関を抜け出しました。袁術は彼の変節ぶりを嫌って受け入れず、袁紹のもとに行くと、ともに常山で張燕を攻めました。呂布は赤兎という名馬に乗り、成廉 · 魏越らと敵陣に突入して張燕を破りました。裴松之注に引く『曹瞞伝』は、当時の人々が「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と言ったと記しています。しかし兵をさらに求め、将兵が略奪を繰り返したため、袁紹が夜に壮士を送って殺そうとし、呂布はこれを避けて河内の張楊のもとへ行きました。

興平元年(194)、曹操が再び陶謙を討ちに行った隙に、張邈と陳宮が呂布を迎えて兗州牧に立てると、郡県はみな呼応しました。濮陽の戦いで呂布はまず騎兵で青州兵に突撃して曹操の陣を崩し、曹操は炎を突き抜けて出る際に落馬して左の手のひらにやけどを負いました。裴松之注に引く『献帝春秋』は、呂布の騎兵が曹操を捕まえながら気づかなかったと伝えています。百余日にわたって対峙したのち、いなごの害で兵糧が尽きて退いた呂布は、翌年に定陶と鉅野で続けて敗れ、陳宮と率いた一万余人までもが曹操の伏兵に崩されると、東の劉備のもとへ行きました。

建安元年(196)、劉備が袁術を討ちに出た隙に、呂布は下邳を急襲して劉備の妻子を捕らえました。『三国志』先主伝は、下邳を守っていた曹豹が裏切って呂布を迎え入れたとし、裴松之注に引く『英雄記』は、張飛が曹豹を殺して城内が乱れた隙に丹楊の兵が城門を開いたと記しています。呂布は戻ってきた劉備を小沛に留め、自ら徐州刺史を称しました。袁術の将紀霊が三万で劉備を攻めると、呂布は駆けつけて「わしは争いをけしかけるのは好まず、争いを収めるのを好む」と言い、営門の中ほどに立てた戟の小枝を一矢で射当てて、双方に兵を引かせました。建安2年(197)、皇帝を称した袁術が呂布の娘を嫁にと求めると、沛国の相陳珪が諫め、呂布は旅立った娘を連れ戻し、袁術の使者韓胤を許に送って斬らせ、左将軍となりました。袁術が韓暹 · 楊奉とともに攻め寄せると、呂布は陳珪 · 陳登父子の策に従って二人を寝返らせ、袁術の将張勲を大いに破りました。

建安3年(198)、呂布は再び袁術の側について高順を送り、小沛の劉備を破りました。曹操が自ら下邳に至って書簡を送ると、呂布は降ろうとしましたが、曹操に深く罪を負う陳宮らが止めました。『後漢書』は、呂布が城外に陣を張り陳宮が城内を守るという策を、妻が止めたと記しています。曹操は荀攸と郭嘉の策で泗水と沂水を決壊させ、城に水を注ぎました。呂布伝は、呂布は勇猛ではあったが謀略がなく猜疑心が強く、諸将を統御できず、諸将はそれぞれ異心を抱いたと記しています。包囲されて三か月、部将の侯成 · 宋憲 · 魏続が陳宮を縛り、衆を率いて降伏しました。

呂布は部下と白門楼に上っていましたが、包囲が厳しくなると下りてきて降伏しました。縛られた呂布がきつすぎるので緩めてほしいと言うと、曹操は「虎を縛るのに、きつくせぬわけにはいかぬ」と言いました。呂布が、明公が歩兵を、自分が騎兵を率いれば天下を平定するのは難しくないと言うと、曹操の顔にためらいが浮かびました。このとき劉備が「明公は、呂布が丁建陽と董太師に仕えた件をご覧にならなかったのですか」と言うと曹操はうなずき、呂布は劉備を指さして「こいつこそ最も信用ならぬ奴だ」と叫びました。曹操は呂布を絞め殺し、陳宮 · 高順とともにその首を許に送りました。『後漢書』孝献帝紀はこれを12月癸酉の日のこととしています。陳寿は「呂布は猛り吼える虎の勇はあったが優れた謀はなく、軽薄で狡猾、言動が定まらず、ただ利のみを見た。古来、このようでありながら滅びなかった者はいない」と評しました。『後漢書』を著した范曄は「袁術は貪欲であり、呂布もまた裏切りを重ねた」と記しました。

呂布有虓虎之勇,而無英奇之略,輕狡反覆,唯利是視
呂布は猛り吼える虎の勇はあったが優れた謀はなく、軽薄で狡猾、言動が定まらず、ただ利のみを見た『三国志』魏書 呂布伝 評
人中有呂布,馬中有赤兔
人の中には呂布がおり、馬の中には赤兎がいる『三国志』魏書呂布伝裴松之注の『曹瞞伝』

三国志演義

『三国演義』 第3~6回 · 第8~9回 · 第11~19回

演義で呂布は第3回に初めて登場します。荊州刺史丁原の義子で、温明園の宴で廃立に反対した丁原の背後に方天画戟を手にして立ち、翌日には董卓の軍を大いに破ります。同郷の者だという虎賁中郎将李粛が、一日に千里を走る赤兎馬と黄金 · 珠玉 · 玉帯を携えて訪ねてきて説き伏せると、呂布はその夜丁原の幕舎に入り、「わしがどうしてお前の息子になどなるものか」と言って首を斬り、董卓を義父として仕えます。

第5回で呂布は虎牢関の前で方悦と穆順を突き落とし、武安国の手首を斬り落とします。演義はその姿を「人中に呂布、馬中に赤兎」と記します。公孫瓚を追っていた彼に張飛が「三姓の家奴」と叫んで躍りかかって五十余合を戦い、関羽と劉備が次々に加わって三人で取り囲むと、呂布は関の上へ退きます。第6回では董卓の命で歴代皇帝の陵墓を暴き、滎陽で追ってきた曹操を破ります。

第8回で王允は歌妓の貂蝉を呂布に与えると約束しておきながら董卓に献上する連環の計を用います。貂蝉に心を奪われた呂布は鳳儀亭で彼女を抱きしめていたところ、董卓が投げつけた画戟を打ち落として逃げます。第9回で王允が「将軍は呂氏、太師は董氏です。戟を投げつけたとき、父子の情がどこにありましたか」と言うと、呂布は腕を刺して血で誓い、北掖門で「わが子奉先はどこにいる」と叫ぶ董卓ののどを戟で突きます。続いて牛輔に敗れた李粛を斬りますが、李傕 · 郭汜に長安を奪われ、妻子を捨てて袁術のもとへ逃げます。

第11回で袁術と袁紹、張楊を経て張邈のもとへ行った呂布は、陳宮の勧めで兗州を奪いますが、泰山の険しい道に伏兵を置こうという陳宮の言を聞きません。第12回では陳宮の計で曹操を濮陽城に誘い込んで火を放ち、炎の中で出くわした曹操の兜を戟でたたいて「曹操はどこだ」と尋ねますが、黄色い馬に乗った者がそうだという言葉にだまされて取り逃がします。定陶でも敗れた彼は第13回で徐州の劉備に身を寄せ、第14回では張飛に鞭打たれた曹豹の手紙を受けて徐州を奪います。

第16回で呂布は袁術の将紀霊と劉備を一堂に呼び、轅門の外百五十歩に自分の画戟を立てさせ、矢一本でその小枝を射当てて戦いを収めます。妻の厳氏が産んだ娘を袁術の息子に嫁がせようとしますが、陳珪の言を聞いて連れ戻し、張飛が馬を奪うと小沛を攻めて劉備を曹操のもとへ追いやります。第17回では陳登の計で韓暹 · 楊奉を寝返らせ、袁術の七手の軍を破ります。

第19回で呂布は陳登の計略に欺かれて徐州と小沛を失い、下邳に閉じ込められます。陳宮が城の内外で助け合う策を出しますが、厳氏の涙と貂蝉の引き止めに思いとどまり、曹操が沂水と泗水を決壊させて城を水浸しにすると、妻妾と酒ばかり飲んだ末に禁酒令を出します。杖で打たれた侯成が赤兎馬を盗んで曹操のもとへ走り、宋憲と魏続が門楼で眠り込んだ呂布を縛ります。白門楼で呂布は、公が大将となり自分が副将となれば天下を平定するのは難しくないと願いますが、劉備が丁建陽と董卓の件をご覧にならなかったのですかと言うと、「こいつこそ最も信義のない奴だ」と叫び、引き立てられながら「耳の大きな奴め、轅門で戟を射当てたときのことを忘れたか」とわめきます。曹操は彼を絞め殺したのち首をはねます。演義で呂布が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 189董卓のそそのかしに乗って仕えていた丁原の首を斬り、董卓と父子の誓いを結びました。皇帝の廃立
  2. 190董卓の命で歴代皇帝の陵墓と公卿の墓を暴き、財宝を集めました。
  3. 191騎督として陽人の孫堅を討ちに行きましたが、胡軫と争って兵が散り、孫堅に敗れました。
  4. 192王允と謀って北掖門で董卓を矛で突き殺し、温侯となりました。董卓の死
  5. 192李傕らに長安を奪われ、騎兵数百を率いて武関を抜け出しました。
  6. 194張邈 · 陳宮に招かれて兗州牧となり、濮陽で曹操と百余日対峙しました。見抜かれぬ顔
  7. 195定陶と鉅野で曹操に敗れ、東の徐州の劉備に身を寄せました。
  8. 196袁術と対峙する劉備の隙を突いて下邳を奪い、徐州刺史を称しました。
  9. 196紀霊に追われる劉備を救いに行き、戟の小枝を射当てて戦いを収めました。
  10. 197陳珪の言を聞いて袁術との婚姻を破棄し、袁術の使者韓胤を許へ送りました。
  11. 197韓暹 · 楊奉を寝返らせ、攻め寄せた袁術の将張勲を大いに破りました。
  12. 198再び袁術の側について高順を送り、小沛の劉備を破りました。
  13. 198下邳で三か月包囲された末に白門楼から下りて降伏し、絞め殺されました。奉先の最期

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

妻 · 娘

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

天下無双のお出ましだ!

口を開くとき

天下にわしにかなう者がおるか。口でも、戟でも。

言い返すとき

口で競えとは、男らしくもない。

言葉に詰まって

…赤兎馬さえおれば。

言葉に詰まって

このわしが押されるだと?ありえぬ。

舌戦に勝って

人中に呂布あり、馬中に赤兎ありと言われたのだ。

舌戦に敗れて

…また縄か。白門楼のあの日のように。

勝ったあと

これで思い知ったか!

敗れたあと

…わしを縛れる者がおるというのか。

倒れるとき

…わしを縛ったのが部下とはな。

同じ旗の下

張遼高順陳宮魏続宋憲侯成張邈貂蝉