吾彥

字 士則 · 不詳 ~ 不詳 (306年以後) · 揚州呉郡呉県 · 孫堅配下

吾彥の肖像

鉄鎖で江を断ち、呉が滅ぶまで建平を守り抜いた将

能力値

統率74武力72知力77政治69魅力66

カード

攻撃力 4体力 4コスト 3価値 11職分 軍師
険路 コスト 1
敵の次の召喚は召喚酔いが1局面延びる
鉄鎖 属性
敵が盤面に登場するたび、その敵は召喚酔いが1局面延びる

正史

出典 · 『晋書』吾彦伝 · 陶璜伝 · 王濬伝 · 武帝紀 · 史臣の評と賛 · 『三国志』呉書陸抗伝 · 孫皓伝と裴松之注の『晋紀』 · 『華陽国志』南中志

吾彦は字を士則といい、呉郡呉県の人です。『晋書』吾彦伝は、彼が寒微な家の出ながら文武の才幹があり、身の丈八尺で素手で猛獣を打ち倒すほど、その膂力は群を抜いていたと記します。初めは通江吏という小役人として呉に仕えました。そのころ将軍薛珝が節を持って南征に出ましたが、その軍容がたいそう盛んだったので、吾彦はそれを眺めて深く嘆息しました。人相見に長けた劉劄が「君の相から見て、後にはこの地位に至るだろうから、羨むことはない」と告げました。『三国志』孫皓伝は、威南将軍薛珝が監軍虞汜・蒼梧太守陶璜とともに荊州を経て交阯を攻めに出たのを建衡元年(269)のこととして記します。

初めは小将として呉の大司馬陸抗の配下に属しました。陸抗は彼の勇気と知略を奇として引き立てようとしましたが、人々が従わないのではと案じました。そこで諸将を集めておき、密かに人を使って狂ったふりをして刀を抜いて躍り込ませたところ、座にいた諸将は皆恐れて逃げましたが、吾彦だけは動かず、几を挙げて防ぎました。人々がその勇気に感服すると、陸抗はようやく彼を抜擢しました。鳳凰元年(272)西陵督歩闡が城ごと晋に降ろうとすると、『三国志』陸抗伝は、陸抗が将軍左奕・吾彦・蔡貢らをまっすぐ西陵へ急行させたと記します。

吾彦はしだいに昇進して建平太守となりました。晋の王濬が呉を討つため蜀で船を造ると、吾彦はそれに気づき、兵を増やして備えるよう願い出ましたが、孫皓は従いませんでした。『晋書』王濬伝は、船を造るために削った木片が江を覆って流れ下ってくると、建平太守吾彦がそれを拾い上げて孫皓に献じ、「晋には必ず呉を攻める計画がありますから、建平の兵を増やすべきです。建平が落ちなければ、ついに江を渡ろうとはしないでしょう」と奏上したと記します。裴松之注に引く干宝の『晋紀』も同じことを載せています。孫皓が聞き入れないので、吾彦は自ら鉄鎖を作って江の道を横切って断ちました。

太康元年(280)晋の軍が国境に迫ると、江沿いの城々は噂を聞いただけで降伏するか、攻められて落ちましたが、吾彦だけは固く守りました。大軍で攻めても勝てなかったので、晋軍は退いて陣を構え、彼を礼遇しました。『晋書』王濬伝によれば、王濬は油を注いだ大きな松明を船の前に立て、江を塞ぐ鉄鎖に出会うと焼き溶かして断ち切り、下っていきました。呉が滅ぶと吾彦はようやく晋に降伏し、晋の武帝は彼を金城太守としました。

武帝はあるとき薛瑩に孫皓が国を失った理由を問い、薛瑩は、孫皓が小人を近づけ刑罰をみだりに加えたため大臣も大将もそれぞれ不安を抱いたことが滅亡の原因だと答えました。のちに武帝が吾彦に同じことを問うと、吾彦は「呉の君主は英俊で、宰相は賢明でした」と答えました。武帝が笑って「君主が聡明で臣下が賢いのに、なぜ国を失ったのか」と言うと、吾彦は「天禄が永く尽き、天運が帰するところがあって陛下に捕らえられたのですから、これは天の時であって、どうして人の事でありましょうか」と答えました。その座にいた張華が「君は呉の将として長年いたのに、名を聞いたことがないのはいぶかしい」と言うと、吾彦は声を荒らげて「陛下が我を知っておられるのに、卿は聞いていないと言うのか」と言い返し、武帝は彼を大いに称えました。

その後、敦煌へ移って威と恩が大いに表れ、続いて雁門太守となりました。『晋書』武帝紀は太康10年(289)扶風王司馬暢を順陽王に移封したと記しますが、そのころ驕慢で放縦な司馬暢は前後の内史たちを皆罪に陥れて誣告していました。吾彦が順陽内史となると、身を清くして下を率い、威刑を厳粛にしたので皆が彼を恐れ、司馬暢は彼を誣告できなくなると、かえって推薦して職を離れさせようとしました。続いて員外散騎常侍となりました。皇帝が「陸喜と陸抗の二人のうち、どちらが優れているか」と問うと、吾彦は「道徳と名望では陸抗は陸喜に及ばず、功を立て事を成すことでは陸喜は陸抗に及びません」と答えました。

交州刺史陶璜が死ぬと、吾彦は南中都督・交州刺史となりました。彼は陸抗の子である陸機兄弟に手厚い贈り物を送りましたが、陸機が受け取ろうとすると、弟の陸雲が「吾彦はもともと卑賤な者で、亡き父上が抜擢されたのに、詔への答えがよくなかったのですから、どうして彼を大事にできましょう」と止めたので陸機は受け取らず、このことから兄弟はいつも彼をそしりました。長沙の孝廉尹虞が「昔から卑賤から身を起こした者には帝王さえいるのだから、公卿ばかりではない。君たちが士則の詔への答えが少しよくなかったからとそしり続けるなら、南方の人々が皆君たちから離れ、君たちが独りで座ることになるのではないかと恐れる」と言うと、ようやく兄弟の心は解け、そしる言葉もしだいに収まりました。

陶璜が死んだとき、九真の戍兵が乱を起こして太守を追い出し、九真の賊の首領趙祉が郡城を囲みましたが、吾彦はこれをすべて討って平定しました。交州を守った二十年余りの間、威と恩が広く表れ、南方の郡は安らかでした。自ら上表して交代を願うと大長秋として召され、その官にあって亡くなりました。『晋書』陶璜伝は、吾彦の死後、員外散騎常侍顧秘がその後を継いだと記します。『華陽国志』は、光熙元年(306)南夷校尉李毅が異民族に囲まれたまま死んだのち、朝廷が交州に救援を命じると、交州刺史吾彦が子の威遠将軍吾咨を送って助けたと記します。

『晋書』の史臣は「陶璜と吾彦は駿馬のように並んで駆け、毛炅は陶璜の深謀に屈し、陸抗は吾彦の豊かな知略を奇とした」と評しました。賛では「陶璜の謀は卓絶し、吾彦の才は雄傑である」と言い、彼が軍容を見て薛珝に嘆息したことも併せて挙げました。

陶璜、吾彥,逸足齊驅,毛炅屈其深謀,陸抗奇其茂略
陶璜と吾彦は駿馬のように並んで駆け、毛炅はその深謀に屈し、陸抗はその豊かな知略を奇とした『晋書』巻57 史臣の評
天祿永終,歷數有屬,所以為陛下擒。此蓋天時,豈人事也
天禄が永く尽き、天運が帰するところがあって陛下に捕らえられたのですから、これは天の時であって、どうして人の事でありましょうか『晋書』吾彦伝

三国志演義

『三国演義』 第120回

演義で吾彦は最終回の第120回にただ一行だけ登場します。その回で孫皓は晋の軍が攻めてくるのを憂え、中常侍岑昏の策に従って、江沿いの要所ごとに鉄鎖を横に張り渡し、長さ一丈余りの鉄の錐数万本を水中に隠させます。龍驤将軍王濬は、藁で人形を作って鎧を着せて立てた大筏数十を先に流して錐を抜き取らせ、油を注いだ大きな松明で鉄鎖を焼き切ったのち、江を下って行く先々で勝ちます。孫皓が降伏して呉の地と民がすべて晋に帰したのち、演義は「ただ建平太守吾彦だけが城を守って降らず、呉が滅んだと聞いてようやく降った」と記します。演義は彼の姓を国名と同じ「呉」の字で記しますが、裴松之注に引く干宝の『晋紀』もそう記します。演義で吾彦が登場するのはこの一行だけです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 269通江吏として、南征に向かう薛珝の軍を見て深く嘆息しました。
  2. 272歩闡が西陵で晋に降ろうとすると、陸抗の命で西陵へ駆けつけました。
  3. 280晋の軍が江を下ると江沿いの城々は崩れましたが、ただ一人建平を固く守りました。
  4. 280大軍で攻めても落とせず、晋軍は退いて彼を礼遇しました。
  5. 280呉が滅ぶとようやく晋に降伏し、武帝は彼を金城太守としました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 吾咨(威遠将軍)

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

建平太守、吾彦である。

口を開くとき

建平が落ちぬ限り、江は渡れぬ。わしの言を聞かれよ。

言い返すとき

天の時は天が定める。人のなすべきことはわしが尽くした。

言葉に詰まって

…流れてきた木片が先に告げてくれた。

言葉に詰まって

刀を抜いた狂人の前でも、わしは座っておった。

舌戦に勝って

わしの名を聞いておらなんだなら、今こそ聞いたであろう。

舌戦に敗れて

弁では負けたが、城は最後まで守った。

勝ったあと

建平は落ちぬ。

敗れたあと

鎖が断たれたか…。

倒れるとき

南方は安らかだ。もう休むとしよう。

同じ旗の下

周瑜呂蒙孫堅孫策陸抗陸遜魯粛黄蓋周泰徐盛孫権程普