司馬懿

字 仲達 · 179年 ~ 251年 · 司隷河内郡温県 · 一勢力の主

司馬懿の肖像

諸葛亮の北伐を阻み、高平陵の変で晋の礎を築いた知略家

能力値

統率99武力63知力96政治92魅力90

カード

攻撃力 4体力 7コスト 5価値 17職分 軍師
隠忍 コスト 4
この局面に受けるダメージを次の局面、体力最大の味方1体にまとめて繰り延べる · 耐えきれなければその1体が倒れる
逆計 コスト 3
秘密 · 敵が特定のダメージ計略を使うとき · その計略が敵側に跳ね返る
挟撃 コスト 3
敵1体を指定 · ランダムな味方2体が同時に攻撃 · 反撃は分担して受ける

正史

出典 · 『晋書』宣帝紀 · 后妃伝 · 宣五王伝 · 『三国志』魏書 文帝紀 · 明帝紀 · 三少帝紀 · 公孫淵伝 · 曹真伝 · 曹爽伝 · 司馬朗伝 · 楊俊伝 · 張郃伝 · 辛毗伝 · 王凌伝 · 鄧艾伝と裴松之注の『魏略』 · 『魏氏春秋』 · 『漢晋春秋』 · 『魏末伝』 · 干宝の文 · 蜀書 諸葛亮伝と裴松之注の『漢晋春秋』

司馬懿は字を仲達といい、河内郡温県孝敬里の人です。祖父の司馬儁は潁川太守、父の司馬防は京兆尹を務め、司馬防の八人の息子のうち長男が司馬朗、次男が司馬懿です。『晋書』宣帝紀は、彼が幼い頃から聡明で大きな謀略に富み、漢末の乱世にあって常に天下を憂えていたといい、同郡の楊俊は二十歳にもならない彼を非凡な器だと評しました。

建安6年(201)司空の曹操が彼を招きましたが、『晋書』は、彼が漢の命運の衰えを知って曹氏に身を屈したくなく、風痺(体がしびれて麻痺する病)を口実に辞退し、曹操が夜に人を遣わしてひそかに刺してみさせても身じろぎもせず横たわっていたと記します。『晋書』后妃伝は、日に干していた書物を夕立に思わず起き上がって取り込むのを見た下女を、妻の張春華が殺して口を封じたと伝えます。曹操が丞相となり「またぐずぐずするなら捕らえよ」と言って再び招くと、彼は恐れて文学掾となりました。

太子中庶子となった彼は大きな議論のたびに優れた策を出して曹丕の信任を得、陳群 · 呉質 · 朱鑠とともに「四友」と呼ばれました。建安24年(219)関羽が樊を囲み、于禁の軍が水に沈むと曹操は都を移そうとしましたが、彼は、関羽が志を得ることを孫権は望まないので孫権にその背後を突かせようと言って止め、孫権は呂蒙を遣わして関羽を捕らえました。

魏が漢の禅譲を受けると尚書となり、黄初5年(224)曹丕が呉の討伐に出ると許昌に留まって撫軍大将軍 · 録尚書事となりました。黄初7年(226)曹丕は死を前にして曹真 · 陳群 · 曹休と彼に遺詔を下し、明帝を補佐させました。明帝の時、驃騎将軍として宛に駐屯していた彼は、新城太守の孟達が呉 · 蜀とひそかに通じると、なだめる書状で躊躇させておいて行軍を倍に急がせ、八日で上庸城の下に至りました。上表して往復するのに一月はかかるだろうと考えていた孟達は「なんと神のごとき速さか」と言い、彼は十六日攻めて太和2年(228)正月に孟達を斬りました。

太和5年(231)曹真が病むと、明帝は彼に雍州 · 涼州の軍を任せ、この時から彼は諸葛亮と対峙しました。鹵城まで諸葛亮を追った戦いを『晋書』は大勝として記しますが、裴松之注の『漢晋春秋』は「公は蜀を虎のように恐れている」という諸将の突き上げに耐えかねて戦い、大敗して三千の首を失ったと記します。退く諸葛亮を追った張郃が木門で矢に当たって死にましたが、『魏略』は「帰る軍は追わない」という張郃の言葉を彼が聞き入れなかったと伝えます。青龍2年(234)諸葛亮が五丈原に陣を敷くと、明帝は、堅く守れば敵は兵糧が尽きて退くだろうと命じました。諸葛亮が女性の頭巾と髪飾りを送ると彼は怒って出戦を願いましたが、明帝が遣わした辛毗が節を持って軍門に立つと出ませんでした。諸葛亮が食べるのは数升だけで、二十回以上の杖刑は自ら見ると使者から聞くと、「諸葛孔明がどうして長く持とうか」と言いました。百日余り対峙した末に8月に諸葛亮が病で死に、追撃した彼は姜維が旗を返し太鼓を鳴らさせると退きました。民が「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」という諺を作ると、彼は「わしは生きている者の考えは読めても、死んだ者の考えは読めぬ」と笑いました。

青龍3年(235)太尉となった彼は、景初2年(238)遼東の公孫淵を討つため歩騎4万を率いて出陣しました。遼水を守る敵を捨て置いてまっすぐ襄平へ向かい、追ってきた敵と三度戦ってすべて勝ち、一月を超える長雨にも陣を移そうと言う者を斬って退きませんでした。8月、公孫淵は息子とともに包囲を破って逃げる途中、梁水のほとりで斬られ、『晋書』は、彼が城に入って十五歳以上の男子7千余人を殺し、京観(死体を積み上げた塚)を築いたと記します。

景初3年(239)正月、明帝は彼の手を取って「君を待って死をこらえていた」と言い、八歳の曹芳を曹爽とともに補佐させました。初めは彼に父のように仕えていた曹爽は、丁謐の策で彼を太傅に上げ、表向きは尊びつつ実権を取り上げました。彼は正始2年(241)樊城を囲んだ呉軍を退け、彼が見出した鄧艾の建議で水路を広げ、淮水の北で大規模に屯田しました。正始8年(247)曹爽が何晏 · 鄧颺 · 丁謐とともに政治を壟断すると、彼は5月から病を口実に退きました。

正始9年(248)冬、荊州刺史として赴任する李勝が訪ねてくると、彼は下女に支えられ、粥をこぼして胸を濡らし、荊州を并州と聞き違えたふりをしました。『魏末伝』は曹爽らが李勝を遣わして彼の様子を探らせたといい、李勝が「太傅はもう起き上がれないでしょう」と言うと、曹爽らは警戒を解きました。嘉平元年(249)正月、皇帝が明帝の陵である高平陵に参拝し、曹爽兄弟がみな随行した隙に、彼は太后に上奏して曹爽兄弟を罷免させ、洛水の浮橋に陣を敷きました。これが高平陵の変です。桓範が曹爽のもとへ駆けつけると、彼は「駑馬は飼い葉桶の豆を恋しがる」と言って曹爽はその策を用いられないだろうとしましたが、干宝はこれを蒋済の言葉として記します。官職を返上しさえすればよいと彼が洛水を指して誓うと、曹爽は「富家の翁にはなれる」と言って剣を置きました。数日後、黄門の張当が曹爽らの謀反を自白したとして、曹爽兄弟とその一党はみな殺されて三族が滅ぼされ、『晋書』は男女も老幼も区別しなかったと記します。

嘉平3年(251)太尉の王凌が楚王曹彪を擁立しようと謀ると、彼は自ら水路を進み、自らを縛って出迎えた王凌が手紙一通で来たものをと言うと、「君は手紙一通で来る人ではないからだ」と答えました。王凌は護送される途中で毒を飲んで死にました。その年の8月、彼は七十三歳で死に、遺言どおり首陽山に封土を築かずに葬られ、孫の司馬炎が晋を建てた後に宣皇帝と追尊されました。

『晋書』は、彼が内には猜疑を抱き外には寛大であったといい、狼のように振り返る相(狼顧の相)があると聞いた曹操が、三頭の馬が一つの飼い葉桶で食べる夢まで見ると、曹丕に「司馬懿は人臣に留まる者ではない。必ずお前の家の事に関わってくるだろう」と言ったと記します。宣帝紀末尾の評は、公孫淵を百日で滅ぼし孟達を十日余りで捕らえた策を称えつつも、諸葛亮が生きている時は実を恐れて進めず、死んだ後は虚を疑って逃げたと皮肉り、「当代には過ちを隠したが、ついに後世の嘲笑を買った」と結んでいます。

殄公孫於百日,擒孟達於盈旬,自以兵動若神,謀無再計矣
百日で公孫淵を滅ぼし、十日余りで孟達を捕らえたので、自ら兵を用いること神のごとく、謀に再計なしと思っていた『晋書』宣帝紀末尾の評
天子在外,內起甲兵,陵土未乾,遽相誅戮,貞臣之體,寧若此乎
天子が外にいるのに内で兵を挙げ、陵の土も乾かぬうちに急いで斬り殺した。忠臣の道がどうしてこのようであろうか『晋書』宣帝紀末尾の評

三国志演義

『三国演義』 第39回 · 第67回 · 第69回 · 第73回 · 第75回 · 第77~78回 · 第80回 · 第85~86回 · 第91回 · 第94~108回

演義で司馬懿は第39回に初めて登場します。曹操が三公を廃して自ら丞相となり文学掾に任じた人物で、河内温県の人、潁川太守司馬儁の孫、京兆尹司馬防の子、主簿司馬朗の弟と紹介されます。第67回では主簿として、漢中を得た曹操にすぐさま蜀を討つよう勧めて「隴を得てまた蜀を望むのか」という言葉を聞き、第73回では孫権をそそのかして荊州を攻めさせようと言います。第75回では于禁が捕らえられると都を移そうとする曹操を止め、第77回では孫権が送ってきた関羽の首を「東呉が禍を転じようとする策」と読み解き、香木で体を彫って付け手厚く葬るよう勧めます。第78回では、三頭の馬が一つの飼い葉桶で食べる夢を馬騰父子のことと考えた曹操が病床に伏すと、その枕元で後事を託され、第80回では曹丕に、禅譲の詔をすぐには受けず一度辞退するよう勧めます。第85回では劉備が死ぬと五路から蜀を攻める策を出し、第86回では尚書僕射となって許昌に残り国政を担います。

第91回で、曹丕が死に際に曹真 · 陳群とともに曹叡を託された彼は、自ら願い出て雍州と涼州の軍を任されます。馬謖の策で彼が謀反するという立て札が鄴城に貼られると、華歆は「太祖は、司馬懿は鷹のように見て狼のように振り返るので兵権を任せるなと仰せでした」と奏上し、彼は官職を奪われて故郷に帰ります。第94回で曹真が敗れ続けると鍾繇の推挙で平西都督となって戻り、孟達の謀反を知ると「聖旨を待てば一月かかる」と言って一日に二日分の道を駆け、新城を囲みます。演義の孟達は申耽の槍で死に、先鋒の徐晃は孟達の矢に当たって死にます。第95回では、息子の司馬昭が偵察してきたとおり山上に陣を敷いた馬謖の水の手を断って街亭を奪い、西城で城門を開いて琴を弾く諸葛亮を見ると伏兵を疑って退き、後に「わしは孔明に及ばぬ」と嘆きます。

第98回で病んだ曹真から都督の印綬を引き継いで諸葛亮と対峙し、第100回では陣法を競って敗れ、苟安を使って諸葛亮が二心を抱いているという噂を成都に広め、彼を呼び戻させながらも、竈を増やしていく策に欺かれて追撃できません。第101回では「気が短い」と止めたにもかかわらず追った張郃が木門道で弩に当たって死にます。第103回では上方谷で二人の息子とともに炎に閉じ込められ、「我ら父子三人、ここで死ぬのか」と泣きますが、にわか雨のおかげで助かります。五丈原で諸葛亮が頭巾と白い女物の衣を送ってくると、内心大いに怒りながらも笑顔を装って受け取り、使者に寝食のことだけを尋ねて「食は少なく事は煩わしい。どうして長く持とうか」と言います。戦おうといきり立つ諸将を抑えるために出戦を請う表を奉り、節を持って来た辛毗に「公はまことにわが心を知っている」とささやきます。第104回では星が落ちたのを見ても策略かとためらい、蜀軍が退いたと聞いて追撃しますが、車に座る諸葛亮を見て驚き、五十里余り逃げた後に「わしの首はあるか」と頭をなで、それが木を彫った人形だったと知ると「わしは生きている者の考えは読めても、死んだ者の考えは読めぬ」と言います。

第106回では遼東を討ち、長雨の中で急がない理由を陳群(正史では司馬の陳珪)に説き明かし、包囲されると馬を降りて降伏した公孫淵父子を斬った後、その一族とともに謀議した官吏70余人を殺します。明帝の遺言を受けた後、曹爽が権力を握ると病を口実に引きこもり、訪ねてきた李勝の前で耳が遠いふりをして荊州を并州と聞き違え、湯をこぼして襟を濡らします。第107回では、曹爽が曹芳を奉じて明帝の陵に出かけた隙に太后に上奏して都城を押さえ、洛水を指した誓いで曹爽を戻らせた後、張当の供述をもとにその三族を滅ぼします。曹爽の部下は「それぞれ自分の主人に仕えた義人」として助けますが、夏侯覇を呼び寄せようとして彼を蜀に逃がしてしまいます。第108回で嘉平3年8月に病が重くなると、二人の息子を呼んで「人々はわしに二心があると疑うので、わしは常に恐れていた。わしの死後、お前たちは国政をよく治めよ。慎め、慎め」と言い残して息を引き取ります。演義で司馬懿が登場するのはここまでで、第119回で孫の司馬炎が帝位に就き、彼を宣帝と追尊します。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 201郡から上計掾に推挙されましたが、司空曹操の招きは風痺を口実に辞退しました。
  2. 208丞相となった曹操が、ぐずぐずするなら捕らえよと言って再び招くと、恐れて文学掾となりました。
  3. 215張魯を討つ曹操に従い、すぐさま蜀を討つよう勧めましたが、受け入れられませんでした。
  4. 219関羽が樊を囲むと、都を移そうとする曹操を止め、孫権に関羽の背後を突かせようと進言しました。
  5. 220曹操が洛陽で死ぬと葬儀を取り仕切り、魏が漢の禅譲を受けると尚書となりました。
  6. 224曹丕が呉の討伐に出ると許昌に残って守り、撫軍大将軍 · 録尚書事となりました。
  7. 226曹丕が死に際し、曹真 · 陳群 · 曹休とともに遺詔を受け、明帝を補佐することになりました。
  8. 228行軍を倍に急がせて八日で新城に至り、謀反した孟達を斬りました。八日に千里
  9. 230大将軍となり、曹真とともに蜀を討つため漢水を遡りましたが、大雨で引き返しました。
  10. 231曹真に代わって雍州 · 涼州の軍を任され、祁山で初めて諸葛亮と対峙しました。
  11. 234諸葛亮が女性の頭巾を送ると出戦を願いましたが、辛毗が節を持って止めました。軍門の節
  12. 234五丈原で諸葛亮と百日余り対峙し、諸葛亮が病で死ぬと蜀軍は退きました。五丈原の星
  13. 235青龍3年に太尉に昇りました。
  14. 238歩騎4万で遼東を討ち、襄平を落として公孫淵父子を斬りました。遼東
  15. 239明帝が死に際し、曹爽とともに八歳の曹芳を補佐せよという遺詔を受けました。
  16. 241樊城を囲んだ呉軍を退け、三州口まで追って1万余人を斬り、あるいは捕らえました。
  17. 244曹爽が蜀を討とうとすると止めましたが聞き入れられず、曹爽は功なく帰還しました。
  18. 2474月に妻の張春華が死に、曹爽が政治を壟断すると5月から病を口実に退きました。
  19. 248荊州へ赴く李勝の前で病が重いふりをして、曹爽の警戒を解きました。耄碌
  20. 249曹爽が天子に従って高平陵に赴いた隙に兵を挙げ、曹爽とその一党の三族を滅ぼしました。高平陵
  21. 251謀反を企てた王凌を自ら討ちに出陣し、王凌は護送される途中で毒を飲んで死にました。
  22. 2518月に七十三歳で死に、長男の司馬師が跡を継いで政権を握りました。司馬氏

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 司馬防 · 兄 司馬朗 · 弟 司馬孚 など · 妻 張春華 · 子 九人(司馬師 · 司馬昭 · 司馬倫 など) · 娘 南陽公主

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

急ぐことはない。陣を構えよ。

口を開くとき

急ぎはせぬ。わしは待つことに慣れておる。

言い返すとき

言葉は少ないほどよい。聞かせてもらおう。

言葉に詰まって

死せる孔明が生ける仲達を走らすか。

言葉に詰まって

退き時を知るのも才のうちよ。

舌戦に勝って

最後を見届けるのは待った者だ。

舌戦に敗れて

今日は城門を閉ざそう。それだけのこと。

勝ったあと

待った者が手にするものだ。

敗れたあと

…退くのも一手よ。

倒れるとき

…この身は最後まで耐え抜いた。

同じ旗の下

羊祜郭淮司馬師司馬昭王濬孫礼陳泰衛瓘王基王昶賈充杜預